日記のテキスト
李登輝さんの『台湾の主張』のなかで、面白いことが書かれてあった。
日記を書いていたが、自意識過剰になっていくのを感じて書くのを辞めたという独白である。
現代、1月と4月は手帳と英会話教材が売れるらしいが、それに混じって日記も人気を集める。店頭では色とりどりのものがそろう。
日記を書くことは、自分の内面を見つめなおすために、大切で習慣化していくことは有意義である。そう習ってきた。しかし李登輝さんはあっさりと、それを否定している。
日記という作品の筆者になることに陶酔して、日常の生活や、人間関係を変に描写するようになるというのだ。誰もがブリジッド・ジョーンズになれると思ったら、大間違いというやつだろう。
江戸川乱歩などは日記ばかりか、自分が書いた手紙も、読み終わったら、返送してくれとせがんでいたという。自分のテキストを読むのが相当好きだったのだろう。
全く李登輝さんに同感である。
日記という自分について、書くことにフォーカスしていくとどうしても自分と周辺を意識してしまうのは、当然だろう。
ブログは三ヶ月が寿命
自分の日常をタレント気取りで、垂れ流すだけであれば、そのうち飽きる。その寿命が三ヶ月といわれている。
そこに取って代わったのが、SNSであったが、それも今やLINEなどに変わられようとしている。
誰だって、実は波乱万丈な日常を過ごしていないのだし、日常にフォーカスすれば、それを証明してしまうことになる。
それは自分でもよく分かる。日記として書いていたら、退屈でたまらないし、むしろ書いていて惨めになるだろう。(このあたりが、FBが飽きられた理由なのではないだろうか)
中には頼まれもしないのに、皇室や中韓や、なんとか9条とか、ややこしいことを、わざわざブログで取り上げる人もいる。我が国には基本的人権とニコイチで、表現の自由も保証されているのだから、全然自由だ。
だが、政治や宗教の話は、どんな硬い友情の絆にも、ヒビが入ると、確かジャック・ヒギンズが言っていた。
ここではあまり、政治や宗教の話題には触れたくないのは、ヒギンズに共鳴しているからだ。
議論すべき場所で議論するが、議論すべきではない場所では、議論も主張もしない。脱いでいいところと、そうでないところぐらいは弁えている。
むしろ冒頭の李登輝さんから、影響を受けているのかもしれない。
書かずにおれない罪業。ならば、せめて自分のしょぼい日常にフォーカスするのではなく、読んで気晴らしになったり、楽しませることができるようなものを、書いてみたい。
楽しませるために、苦しむ。この矛盾が奥深くていいと、最近ようやく分かってきた。
手書きメモに書いたアイデアをテキストにするという、スタンダードな方法。 珍しく、今回はそうやってメモをとったはずなのに、なんか座りの悪いテキストに。 |
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