2014年12月30日火曜日

会話能力について

検尿コップはどこに消えた

思い込みが激しく、結構沸点の低い人を見る。会話能力が低く、絶望的なヒアリングスキルなのだ。

 以前、会社の社屋で健康診断をする際、彼は検査員と何やらもめていた。

 検尿のコップを渡した、受け取っていないというのだ。マジでか。会話できないとは、その程度のやりとりすら、ままならないのか。

「半分使います?」

 自分のを差し出して、その場はお茶を濁した。

 多分、ちょっと待ってくださいとか、ここに置いてくださいを、ちゃんとヒアリングできていなかったし、誤解があったのだろう。会話が本当にかみ合わない人だった。

 その手の誤解は日常あるだろうが、それがあったときに、誰が悪いかを確認してきた人はまた、別の機会に誤解の前でたじろぐ。問題は”Who”ではなく、”How”なのではないだろうか。

荒波

新卒の面接であったり、学生の研修に出くわすことがあった。

 こっちも息がつまるくらい、がちがちやったりする。当然だろう。彼や彼女は、ピンボケなクライアントの眠たいオーダーに振り回されたことも、不条理な果ての尻拭いに休日出勤したこともないのだ。

 それらの修羅場に比べたら、初対面の人に気軽に話しかけるなどと、試練のうちにも入らない、屁みたいなものである。

 中国人は気軽に話しかけることは、軽薄だと今でも思うらしい。『阿Q正伝』や『駱駝のシァンツ』の世界から、変わっていない。

 話しかけて、ご機嫌を取ろうとすること自体、卑屈な態度だと思うらしい。

 それはそれで、彼らの文化である。しかし日本の大手企業でも、しばしば見たことがある。大企業さまだぞと。気を使われることになれて、気を使うことに慣れていない、稚拙さである。

 少なくとも日本では、それを尊大な虚飾だと思われる。我が身一匹で、何もできない人間ほど、得てして身の丈以上に、大きな所作にこだわる。

 若い人たちが会話できず、悩むという話を聞くが、先輩やOBに話さないといけないという、緊張を強いられることはなかったのだろうか。

 いや若い人だけではない。いいおっさんたちも、尊大なだけで、相手の発言をヒアリングできていないで、状況を悪化させたりする。もっと恥ずかしいことではないか。

 こんな風にいつも思う。

 マンモスを追う、原始人たち。作った落とし穴に向けて、マンモスを追い込む作戦。

 奇声を上げて追い立てる者。槍を突き出して進路変更させる者。落ちたマンモスに石を落とすもの。その頭蓋骨に向けて、とどめを指す者。

 我々ホモ・サピエンスの最大の武器は、火でも、自由に動く手でもない。言語であり、会話能力である。

 会話ができない種族など、滅ぶ運命が待っているのではないか。

2014年12月29日月曜日

アイドルが嫌い

悪口は言いたくない

アイドルオタクと呼ばれる人もいるだろうし、彼らの嗜好を否定するつもりはない。はっきりいって、好みの問題である。

 平たくいうと、お好み焼きに、マヨネーズは是か非かとかいう、保守的グルメの関西人の価値観程度である。

 だが、日本人だから、このアイドルグループは好きですよねぇ? はNGだ。

 はっきりいって、不愉快である。それも全員嫌いだし、同じようなパッケージ(制服、軍団、上目遣い、ポップな曲)全て嫌いである。

 悪口は言いたくない。だが、それが反社会的な発言ではないことを確信して、いう。軍団アイドルが大嫌いである。彼女たちに罪はない。正確には、彼女たちを商品化して、結構無茶なプロモーションを仕掛ける、ゲスい大人たちが大嫌いなのだ。

「若い女の太ももと、上目遣いを見たいよな? 見たいよな? 見たくないとか、思わないよな? 見せてくださいって言え、コラ」

 そんな問い詰められ方である。お前、変なハーブとかやってんちゃうの? と疑いたくもなる。

黒猫の死

 ロンドンでは捨てられる猫の多くが、黒猫であるというニュースを秋に見た。

 表情が分かりにくく、猫と自分を撮影したときに、猫が可愛く見えないからだという。

 マジで? まだ、魔女の使いとか思ってるほうが、マシちゃうんか。自画撮りのために、捨てるなんて、悪魔も辟易ではないか。

 そもそも、猫が可愛いのは当然で、そこに容姿など関係ない。猫好きに言わせるなら、病気をもっていようが、人間にいじめられて警戒心が強かろうが、猫という存在にそのものが愛おしいのであって、容姿などはただの特徴でしかない。

 多感な世代の女性たちが、テレビのアイドル文化に接する中で、容姿を価値基準の至上においているのだとしたら、はっきりいって異常である。黒猫を捨てるヤカラと、変わりない。

 容姿など、ただの特徴に過ぎないのだから。

 アイドル文化が、過剰にゲスな大人を育てているのではないのか。そんなことをいつも思う。

フォローリクエストの人がブログをしているというから、見に行ったら、このザマ。

 表現の自由より、広告を優先しているブログサービスなんやね。まるでgoogle+みたいに、アイドルオタク向けサービスではないか。

2014年12月28日日曜日

ねたかぶり

シャーロキアンとしての仮説


 シャーロック・ホームズの話。短編『六つのナポレオン像』と『青いガーネット』。

 実はナポレオンの胸像と、ガチョウというアイテムを使っているが、宝石(黒真珠、ガーネット)を隠すというトリック自体は共通しており、ドイル自身が自覚なくネタがかぶっていた可能性がある。

 というようなことを、本国では研究しているのかもしれない。

 少なくとも、量産を強要されたドイルが、うっかりしてしまった可能性は否定できないだろう。

 山本周五郎の短編も、量産された典型である。

 馬琴の時代から続く読み物クリエイターとしてしか、作家が社会的に認められなかった時代。当然、量産できることは収入に直結していた。

 周五郎の短編を、大量に読んでいると、実はネタがそっくりな時が散見されるときがある。これは宿命だろう。

ブログの軽さ

 ブログの記事を書こうと試みる。この日本語がすでに間違えているのだろう。

 ためしに軽く書いてみた、がブログという媒体に対して、当てはまることなのではないか。試みるというのは、もっとリサーチや、ヒアリングを重ねた上で、安い単価で挑戦してみるということではないか。

 ブログとはそもそも、などと感じていた。

 諸説あるが、ブラジルでのタンカー事故に対して、報道規制が敷かれたため、現地で正確な情報が出なくなった。

 当時のホームページはhtmlがメインで、ウェブ上で表記するのに、コードは必須の知識であった。

 ところがブログという、フォーマットが決まっていて、テキストだけをどんどん更新していけるものが登場してきて、既存メディアにない報道がなされるようになったという。(web log in語源説)

 社会的に役立つものを、書くのがブログの本来の役割であった。

 だが、それだからといって、社会に役立つ情報発信することが、ブログの正しいあり方だという定義は、時代錯誤というべきではないだろうか。やっと最近自覚するようになった。

 インターネットという技術自体、アメリカで発展したのは、情報共有網というアイデアである。複数の都市が壊滅しても、情報はシェアされているため、リスクも分散できるという軍事目的である。(まるでキューブリックみたいなものいいだが)

 だから、もっと話題を短くして、ドイルや周五郎のように、ネタがかぶるかどうか、心配になるくらい沢山のことを書かないこと。

 ここまで書いて、気がついた。

 ドイル。周五郎。ブログの起源。充分書きすぎた。

作家の写真を探してみたらマーク・トウェインがフリー素材やったので。

2014年12月21日日曜日

俗説と冷静のあいだ

円が360円

1947年、円相場が固定から自由相場に解禁になり、日本も戦勝国と自由貿易を果たせるようになった。

 そのとき、一ドルが360円からスタートした。

 円は360度だから。

 そう説明してくれた人がいた。

 なるほどなぁと思いながら、ふと思った。ほんとか?

 円という漢字は、確かに日本の通貨の単位だ。しかし中国でも圓(円の旧字。元は圓と同じ発音yuánであるための略字として代用)を使う。ならば、中国でも似たような話がないのか。

 そう疑ってみた。

 調べてみて、すぐに嘘だとわかった。正解は金1オンスの値段が日本円で360円=1ドルだったから。

 俗説はしばしば耳障りがいい。分かりやすい。だが、往々にしてフィクションの度数が高い。

神無月

 十月の旧称である神無月。出雲大社に神々がみんな集まって、地域の婚姻を相談するから、神さまがいない月という話。

 もちろん、記紀神話に出典はなく、出雲大社が神々集まるという設定すら、根拠がない。

 もとより神無月は、神+連体助詞「な(の)」+月であり、収穫をもたらした神々が里に来る月であった。それが漢字表現の入ってきた奈良時代以降に、神無月という表記が定着し、平安時代には出雲大社の設定になったというのが、現代有力な説である。

 では、なぜ、そんな俗説が生まれたのか。

 御師(おんし)と呼ばれる、社寺への参詣を案内する人たちが紡いでいった可能性があるという。
 神々が集い、打ち合わせを行い、くつろぐ聖地。そんなイメージは民間に流布しやすい。出雲いいとこ、神様もおいで。そんなキャッチがあったなら、それはそれで楽しい。

 高野山だって、高野聖たちの民間流布によって、祖師と聖地への信仰をたからしめたのと、同じモデルが熊野大社や、伊勢神宮など、各地にあったのだろう。

 厳密に教義的な観点で見るなら、天照大神の子孫である皇室の、勅願寺である東大寺が、日本の鎮護国家の総元締めである。(現にお水取りと通称される、修二会では、全国の主だった神々に対して、功徳が回向している。古来の神々を、聖武天皇の悲願でもある、仏式で祈っているのだ)。

 しかし、神々が不在であるとか、出雲大社では神在月と呼ぶとか、そっちのほうが面白い。

 本来なら、沐浴潔斎して神々を迎え入れることを強要されてもいいのに、そういう硬いことはぬきにして、神様ご一行いらっしゃいませ、なのだ。

 こうした、俗説の正否ではなく、その成り立ちを理解することが、実は一番面白い。

 だが、これはいけない。

 出雲大社で神々が、地域の若者の婚姻について協議した=神々は日本人の婚姻を司る=国内で神前式を行わなかった女性アスリートには不幸がおこる、などと、呪詛とも、恐喝ともつかぬこと言い出す占い師を、テレビで見たりすると、うんざりする。

 バアさん、年くった割りに、学がないのをさらけ出すなよと。

 十月が神の月だったとしたなら、この占いバアさんの根拠が全て覆されてしまう。そもそも、神々が嫌うのは、人をさげすんだり、ねたんだり、うらむような、ケガレ(気枯れ)なのではなかったか。

2014年12月18日木曜日

働きの定義

罰と労働


 神は知識の樹の実を食べてしまった、アダムとエバを楽園から追放する。

 そのときに、アダムには労働の苦しみを、エバには生みの苦しみを神は設けた。

 つまり労働とは、キリスト教文化の中では神が与えた罰なのだ。

 それに対して、日本の神々は自らが耕し、収穫している。つまり労働は神々自身が生業として行ったことであり、生きていく自然な営みであるという。

 そんなことを梅原猛が書いていた。

 まあ、比較が戦後の知識人らしく、ステレオタイプすぎるきらいはあるが、面白い見解である。

不労所得と詐欺

 嫌いな言葉は「不労所得」である。働かずして、得ることができる収入。

 宝くじに当たったり、膨大な遺産が転がり込んできたようなイメージ。いいなぁ、とは思うが、なんかまともに働かずに、不労所得を得ようと血眼になっている人(行政になんとか申請して、生活保護をぼったくろうとする輩)を見ると、居たたまれないし、やりきれなくなる。

 そして思う。卑しいと。

 テロとは別に、イスラム文化圏の影響力を、一番怖れているのは他でもない。キリスト教文化圏である。(仏教文化圏では、カーラチャクラが編まれた、11世紀のインド以外、イスラム教への警戒はない)

 キリスト教文化圏では、イスラム教の何を怖れたか。文化的な背景はあるが、代表的な一つとしては徹底した互助組織の実現にあったらしい。

 つまりイスラム教の中で、働かずに所得を得ることは、神に反する行為にあたる。そのため、イスラム銀行は存在するが、利子を取って儲けることは許されない。

 さらに融資先の倒産があっては、資金が焦げ付くので、融資先の成功を周辺が手厚く守り、助け合う。

 およそ過激派やテロ組織とはかけ離れた、互助組織が構築されている。二十世紀末に西側より、東側共産文化圏との親和性が高かったことは、当然の帰結といえるだろう。

 働かずして、儲けることへのタブー視は、年配が語りたがる、古きよき日本だけではなかったのだ。というか、本来の世界標準であったのだ。

 働くことが惨めなこと。働かず、収入があることが、恵まれたこと。なんとも貧乏くさい発想ではないか。

 世にもまれて、時にしたたかに生き延びる。その豊穣な経験の前に、不労所得の胡散臭い論理など、たちまち色あせてしまう。

 そんな感覚が自然であっていいのではないか。

 不労所得どうのこうのという文字を見るたびに、いつもそう思う。浅ましく、惨めなのは、本当はどっちなのだと。

2014年12月17日水曜日

天王寺動物園100周年にキリンの首が

アナウンス

天王寺動物園が来年で100周年になるということを、地下鉄のアナウンスできく。

 今でこそ、天王寺といえば、deepな大阪として(雑誌に載せるために取材したけど、アウトローな人に絡まれて怖かったこともあった)、ちょっと敬遠されるし、USJと吉本新喜劇を期待して大阪に来る人には、あべのルシアスとかで、目を反らせたいところ。

 しかし明治・大正の頃といえば、新世界という地名が象徴するように、遊技場として知られていた。(なんばは処刑場の跡地で開発が進まず、梅田は湿地として、開発を不十分であった)

 100年前に動物園があったのだから、上野動物園ほどではないにしても、立派なものである。

「キリンも首を長く、ゾウも鼻も長くして、皆さまのお越しをお待ちしています」

 そうアナウンスが流れる。

 鼻は関係ないやろ。いつも思ってしまうが、キリンが首を長くという、くだりにちょっと吹き出す。

キャッチの魔術

コピーの基本ルールは嘘をついてはいけないことに尽きる。

 先着二十名様限定で、50%オフとかいいながら、開店と同時になぜか二十名さまが終わっているとか。

 お節料理が写真違いすぎるとか、通信費が実質0円とかいいながら、そうでもないとか。

 キャッチやコピーで、正確であることが答えではないが、虚偽は完全に間違いである。

 キリンは首を長くして、来場者をまっているのだろうか。草食系動物特有の、のんびりした顔立ちが確かに、ずいぶんと遠くから、来場を見守ってくれているような気もする。

 そんな気がする。これぞ、キャッチの魔力なのではないだろうか。

 大阪の市営地下鉄。民間企業ではないが、公共施設にしてはちょっとした仕事をしていないだろうか。

天まで届くほどの首の長さかも

2014年12月16日火曜日

慢性的再読

お代わりして、二度おいしい


 本当に気に入った本なら、再読する。

 二十代の時に読んだ、山岡荘八の『伊達政宗』。めちゃくちゃ面白かったが、二十代の自分にはまだ充分、理解できないところだろう。もっと咀嚼したい。三十代になったら、もっと深く楽しめるのではないか。

 期待して、三十代になって、再読した。

 まあ、つまらない。ウザい屁理屈に、しょぼい展開。はっきり言って読んでいられない。

 同様に、十代に夢中になった、ある幕末ものを、三十代で読み直して思った。

「なめてんのか、司馬遼太郎。坂本竜馬なんか大嫌いじゃ、ボケ」

 大仏次郎の『天皇の世紀』に比べて、ものすごく薄口なのに、ジャーナリズムの視点とか評価したの、誰やねん。

白野弁十郎

もともと映画化されたことから知っていた、ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』。

 二十代で初見と映画鑑賞。三十代で再読。最近、つまみ読み。

 戯曲はほとんど読まないが、この一冊だけは別格。

 日本人に大正時代から親しまれ、『白野弁十郎』というタイトルで、リメイクされている。(『海底二万マイル』が『海底軍艦』にアレンジされているのとは違い、キャラクターの特性を捕らえた弁十郎というネーミングといい、原作にかなり近いものであったという)

 忠実に映画化したフランスの作品であったり、消防士に設定をかえたハリウッド版とか、色々あるが、原作は原作でちゃんと楽しめる。確か日本でも独り芝居で取り上げている、役者さんがいたとおもう。

 演劇にはあんまり興味はないが、やっぱり面白い。

 詩人にして剣客、学者(実際に天文学の論文が残っている)。だが、人より大きな鼻を持つために、ヒロインのロクサーヌに思いを告げられない。

 彼女が愛するクリスチャンとの仲を取り持つために、奮闘するというストーリー。

 ロミオとジュリエットをパロディーにしたであろう、ベランダの場面のコミカルさもいいが、やはクリスチャンの残した手紙を、シラノが夕闇の中で、ロクサーヌのために朗読するクライマックスがいい。(手紙を初見のはずなのに、手元が暗いのに、なぜか読めてしまうというオチ)

 現代の日常では、メールだ、掲示板だ、SNSだと、便利なようで、肝心なことは結構、ほったらかしにされているのではないか。

 対照的に、本作は深い。戦地からの手紙という、盛り上がる設定。紙媒体というアナログな代物が持つ重さ。

 多分、十年後も、読みたくなっているだろうと、今頃になって、うすうす感じている。

2014年12月15日月曜日

トルストイの効能

今年だめだったこと

 手帳を買って、毎日でなくても、一週間の反省を書くようにしたかった。何年か前に、勝間和代が言っているのを聞いて、面白そうだと企んでいた。

 予定表はスマホなどで管理して、一切手帳にはかかない。その代わり、一週間の反省を振り返り、予定していたことがどこまでクリアできているのか、確認するのだという。

 それをまねようと、何回か試みるが、結局、二月で飽き始め、三月でほとんどかけず、連休前には思い出して、手帳の所在を探し始める始末。

 トルストイの『文読む月日』を毎日読む。いきなり、長編読んじゃいましたとしたいが、なかなかそうもいかない。それよりちょっとずつ読めるなら、できるじゃないか。トルストイ語れるなんて、かっちょいいし。第一次宗教ブームと呼ばれる時代の開祖たちは、この本に感化されたのだろう。日記を書いて、内面を吐露し、それを弟子たちに読ませるようになる。

 モチーフとしてトルストイの翻訳があったのではないだろうか。

 そんなゲスいことを考えながら、筑摩文庫で、揃えようと企んだ。中巻も、下巻も、レジに持っていくたびに、

「これ途中ですが、お間違いないですか?」
「はい。上巻、途中ですが、がんばります」「はい、中巻大分残ってるけど、がんばります」

 案の定挫折した。

 どこから読んでも面白いとは思うのだが、初期の実篤ほどトルストイストにはなれなかった。結構、重い話やったり、前提がへこむような設定やったり。そんなに慌てて、光あるうちに進まんといかんのか、とか思う。気持ちが負けた。

 ならば、剛毅に楽しめ、三国志を読もうとした。在庫の三国志は確か十二作品(十二冊ではない)。柴田錬三郎、吉川英治、反三国志、直訳。。。毎月三国志を読もうとしていた。

 ところが、陳舜臣の「曹操」で挫折した。それも三月に。
 その後、何度か巻き返しをはかったがことごとく失敗。結局、手つかずのまま、残っている。

挑まなければ負けない

 絶対負けない方法は何か。

 勝負しないことである。敗北を喫することは絶対ない。そして同時に、勝利することも絶対にないのだ。

 しかし天知る、地知る。最後は実は自分が自分に負けたことう思い知らされる。

 手帳に何もできなかったことを毎週書くのは、惨めである。トルストイや三国志を途中で投げ出すのは無様である。

 そんな気持ちをネガティブにするようなことは、意味がないんだ。そんなことを二十代なら思っていただろう。ポジティブこそが正義だと。

 今は違う。そんな幼稚なことで、何が解決するのか。

 惨めさを、一番底まで痛感して、惨めになろう。誇らしく、快適なことだけが、正しいと思えるのは二十代までだ。

 多分、来年も失敗するだろう。ひょっとしたら、あわよくば、失敗しないことがあるかもしれない。しかしそんなことは、いわば儲けものである。

 決して簡単に、達成できるようなことに妥協してはいけない。

 やっと、大人らしい自戒を感じるようになった。

 トルストイの効能の一つなのかも。

2014年12月14日日曜日

まつりごと

まつり

政治屋がたまに気取って、政局のことを「まつりごと」などという。

 下品極まりない言い方だが、それを批判する声を余りきかない。

 まつりごと、とは正に神様を「祭る」+「こと」(意義や理論)である。

 ギリシアの神々や、道教の神々たちと同じく、日本の神道も多神教である。タブーを基調とした民族宗教で、魚以外の動物死体や汚物など、不衛生なものは禁物である。

 高温多湿な風土のなかで、神々がこうしたものを嫌うのは当然で、腐敗を嫌悪する文化の基礎となる。

 こうした神々を尊崇する作法はシンプル。

 不浄なものは身に着けず、不浄な考えも捨てる。高潔であろうと心がける美意識に、神は呼応する。

 神道的な観点で、現在の政治屋のいう「まつりごと」など、到底許されるべきことではない。

シャーマンと世俗王

歴史学で古代と中世を明確に分ける区分は何か。

 宗教的権威が、世俗権威と分離した段階で、近代と古代を分かつ、期間となる。

 つまりローマ法王に任命された王が、世俗の実権を握ること。実効支配が法王庁にないこと。

 後白河法皇ではなく、征夷大将軍源頼朝の命令に、全国が従うこと。

 民俗学でいう、神聖王(法王、天皇)と、世俗王(王、将軍)が合い並ぶのが、中世である。

 そしてその中世を脱して、国民が直接選挙で民意を反映するのが、近代である。

 もし、この民意を組まず、皇室が国政を動かしたり、世襲的な土着の有力者が談合で政権を運営するようなら、それは中世社会である。我が国のご一新とやらが、司馬遼太郎が語るほど、ロマンチックな成功を修めていないことになる。

 選挙前日まで、候補者の名前を、選挙カーが連呼する。

 おそらく、ソビエト連邦の五カ年計画のほうが、まだいくらかましなくらい、ビジョンを持っていないのだろう。訴えることは、名前以外にないのだ。CDを買わなくても、投票できるというのか、売りなのか?

 投票にいっても、変わらないという意見には賛同できない。報道されるほどのことは起こらないし、多分増税されるだろうし、景気は来年、もっと悪くなる。

 だが、与党にはそれを回避する能力がなく、野党にはそれを代行する能力がなかったとしても、投票にはいかないといけない。

 自由であり、権利であるが、それよりもあとで、スケープゴートしないためにである。

 あのとき、選挙結果が変わっていればと思うことなど、いくらでも想像していい。しかしそれはリアルではない。

 リアルに投票して、なおかつ負ける。不条理、不愉快、理不尽きわまりないことを、見据えて、初めて増税に舌打ちができるのだ。

 投票に行かなかったのなら、単純に逃げただけである。舌打ちすら許されない、奴隷ではないか。

 投票日で試されているのは、立候補者ではない。有権者である。

2014年12月9日火曜日

忠臣蔵とGHQ

討ち入りという復讐

戦後、二年近くは歌舞伎仮名手本忠臣蔵の上演が禁止されていた。

 封建制の道徳を美化したものであり、民主化に反するものだというのが、その理由。

 おもしろいのは、子母澤寛の『勝海舟』も戦中から、連載していたが、戦闘員たる武士を主人公にしているから、連載NGになった。ところが、

「これは江戸城無血開城をテーマにした、平和への願いをこめた作品だ」

 と主張して、連載を継続させたという。

 しかるに、忠臣蔵は赤穂城を明け渡したが、それはいわば復讐劇の始まり。どんなに見張られても、姿を隠し、あるいは山科で大石は道楽者を演じる。

 そうした経済的な放埓はうわべだけで、本心では本懐を遂げるべく、臥薪嘗胆して同志と密かに計画を立てる。

 ううん、日本側からすれば盛り上がるプロットだが、占領する側からすれば、こんな物騒な話題はない。(進駐軍とかいっているが、英語表記はOccupation Forces=占領軍。平和をもたらすために、進軍してきた軍というのは、日本製の思い込み)

 まるでポツダム宣言の受諾が、赤穂城の開城のようになってしまう。そして反撃することが、正しいことになってしまう。ううん、やめてくる?

 というのが、本当は背景にあったのではないだろうか。

RONIN

ところが皮肉にも、2013年にキアヌ・リーブス主演で『47ronin』が公開された。興行的にはアイタタな結果であったが、相当彼らも忠臣蔵は好き。ロバート・デ・ニーロとジャン・レノが競演した『RONIN』でも、そのフィギュアをはさんで復讐劇としてのロマンをやたら語っていた。

 魅力や捕らえ方は様々だろう。

 一つだけはっきりしているのは、織田信長や坂本竜馬がタイムスリップして、山本五十六と一緒に連合艦隊に乗り込むとかいう、トンデモフィクションはあった。しかし大石内蔵助は決して、タイムスリップしないのだ。

 なぜか? 潜伏したり、情報収集したり、作戦立案をプロデュースする能力は、見事だと思っていいのに。

 やはり元禄という、結構バブリーな(農村の可処分所得が飛躍的に倍増した)時代にあって、臥薪嘗胆するという、ストイックな姿がカッコいいのではないだろうか。

 逆境にあっても、信念に殉じるヒーロー。いってしまえば、定石すぎるが。GHQの懸念はどこへやら。しっかり、お話として楽しむのだ。

2014年12月8日月曜日

年の瀬イベント一人討ち入り


サンタさんよりお決まり

コピー書きをしていたとき、年末の仕事納めで社長は、今年も黒澤明の『いきる』を見て、年を越すという、変な自慢をしていた。

 彼の中で、志村喬が雪降る公園のブランコに座って、しょぼくれた歌声を披露してくれないと、年が越せないとのことであった。

 共感できる部分=年越しのイベントをしたくなる。

 共感できない部分=なんでまた、『いきる』なの? 雪のシーンあるから? 椿三十郎とか、隠し砦とかは、確かに雪のイメージはないか。

 クリスマスには山下達郎か、竹内まりやの世代の社長であったが、硬派な趣味の人だった。

 それに感化されて、年末に毎年一人でしていること。それが忠臣蔵である。

討ち入り方が問題


 バブリーな時代の忠臣蔵は、お軽と三平や、内蔵助とりくがフォーカスされるし、女性作家によって内匠頭の妻瑤泉院が討ち入りをプロデュースしたというものまである。

 好きだったのは、諜報戦として描いた『四十七人の刺客』だったり、 ルポのようにまとめ、実際は罪人だったことを掘り下げた  『「忠臣蔵事件」の真相 (平凡社新書)』であったり、浅野内匠頭に対する斬新な仮説『忠臣蔵 元禄十五年の反逆 (新潮文庫) 』など、実に多彩。

 単に文芸作品として、読んでもいいし、歴史事件としての謎を掘り下げるのも面白い。

 今年は大佛次郎にしようとか、柴田練三郎にしようか、丸谷才一にしようか思案中。

 そうこうしているうちに、年が明けてしまうことも、多々あった。

 忙しい。やっと、年末気分である。
 


Harakiri (1962)
侍で検索したら出てきた『腹きり』。浅野内匠頭に見えなくもない。

Harakiri (1962) / japanesefilmarchive

2014年12月7日日曜日

ワンテーマ

ブログのテキストボリューム


 すっかり寒くなってきましたねぇ。

 風邪ひかないようにしてくださいね。

 では。

 このへんで。

 というテキストで、一回の更新を終わらせるブログ。それがあるブログサービスの一位になったという紹介を見たことがある。

 動くアイコンや、個人をデフォルメしたイラストが使える、あのブランドである。

 そんなんでいいんか。少なくとも、読める内容のものにしないと。

 つい力んでしまう。

 結果として、ひどく真っ黒なテキストだらけにしてしまう。

 読んでて、全然楽しくないだろうなぁ。そう思うと書いてて、楽しくなくなった。

 たくさん盛り込みすぎた。二転三転する推理ものは、結局最初の被害者のリアリティを喪失させる。

多すぎの情報


 第一次大戦後、なぜ、推理小説が大衆娯楽になりえたか。それはダイイング・メッセージに象徴されるように、個人の死について、世界が麻痺していくことへの恐怖だった。

 推理小説の魅力は、被害者の死を解明することで、生存者の意味を確立することにあった。現代社会のゆがみを、逆照射できるものになったのだ。

 初期のポーや、ドイルと違い、アガサ以降は近代社会を、反証する素材を表現するにいたった。

 ところが、事件を盛り上げるために、現代ではストーリーの中で、次々と被害者を作り、結果として、謎解きサスペンスにフォーカスするあまり、本来のドラマ性がぼんやりしてしまうのだ。

 と、いうように。。。

 例え話を一つあげただけなのに、たくさん書いてしまう。

 ワンテキスト、ワンテーマ。

 そして、イメージ写真。

 もっと楽しめるよう、努力課題は多い。

”猫”でフリー素材を検索した結果、出てきたトラ

2014年12月6日土曜日

右クリックの説

マウスの右クリック

windowsを使っていると、右クリックを使うことがある。

 しかしMacも触っていたから、あまり右クリックを使わない癖がついている。ショートカットを使う工夫をいつもしている。

 パソコンは両手で操作できるし、そうするものだと思っている。

 ところがwindowsから入り、慣れている人の中には、いろんな用途をマウスだけで済ませようとする人がいるし、それがかなうような設計になっている。


 確か、このコンセプトはGoogleのchrome bookやpuppy linuxも同様であったように思う。

 ただいえるのは、ショートカットを使っていると、右クリックのメニュー充実に大して魅力を感じないということである。

スキルとの因果関係

 年下の人が操作しているのを見て、ちょっと焦る。全然、ショートカットを使わないで、マウスをゴリゴリと引きずり回した挙句、右クリックで出てきたメニューをなぞり、やっと目的に達するのだ。

 今の動作、クリック一つと、ショートカットでとっくに解決してたよな? そう提案したくてムズムズしたくなることがある。

 これでも入力ができるから。これでも操作できるから、いいんだ。そういって、なかなかショートカットを覚えようとしない人に会ったことがある。

 仕事のできはさておき、一つ共通点が見えた。

 それは一定以上のスキルを得ていないということである。

 つまり最低限、必要な操作さえできていれば、それでいい、と最初から壁を作っていることが、操作する段階で見えているのだ。

 それが結果として、スキルの停滞に現れているように思える。

 色んなことに挑戦している人は、ショートカットを使うことに心理的な抵抗が少ない。新たに在庫が入るスペースはあるのだ。最低限のことと、サーチエンジンさえ使えれば、キャパフローになってしまうのとは、対照的である。

 いくらでも、学んでみたいとは思わないし、興味があること以外は、大して身に着けようとは思わない。しかし、ショートカットで少しでも怠けられるのなら、それは習得できるに越したことはないと思っている。

 楽するために、努力を惜しまない。矛盾しているようだが、実は本質なのではないか。

2014年12月5日金曜日

No futureちゃうの

飛び込み営業

職場に飛び込みで、新人営業がやってくる。お得なFAX回線のご提案とか。

 上司がばたついていたので、一通り話を聞くが、今頃、ちょっとお安いFAXなんて、ニーズがあるのだろうか。

 正直に言ってしまった。飛び込み、しんどいんちゃうの? 話きいてくれる人なんかいてるん? 社内で長続きしてる人間なんかいてるん? 結構出入り激しいんちゃうの? 根性論の上司や先輩の罵声に、やめてく人間多いんちゃうの?

「あ、まあ、それが、はい。。。」

 途端に歯切れの悪い言葉になり、それと同時に、営業スマイルが見る間に剥がれ落ちる。

 優しい先輩が先週退社した。同期の人間も、自分とあと数人。支店長がキツい人で。。。

 大変やねぇ。こっちも釣られて本音が出る。

 ハローワークとか、新聞広告なんて、ほとんどろくな求人がない。サイトで掲載しているのが一番早い。社名を伏せて広告出してるところもあるが、まともなコピー書きなんて使ってないから、テキストは大抵使い回し。特徴ある文章を検索すれば社名なんて、すぐ分かる。分かってない振りをしてやるのがスジやで。

 焦って、ひどいところにいっても、時間の無駄。ちゃんとしたところで、一生懸命がんばらんと。そんな話になってしまった。

 何一つ、彼の会社に貢献しなかったが、彼は少し笑みに力を取り戻して帰っていった。


浅はかなメール


 BSのカードを違法に販売してる業者からメールが届いていた。

「全ての規制から、自由です」

 何でも、正規の料金を支払わず、ケーブルテレビが見放題というのだ。そんな旨い話、とおもう前に、キャッチにイラッときた。

 freedomの翻訳として、明治時代に「自由」という言葉ができた、などといわれるが、これは間違い。

 ちゃんと古語である。「自由」。ただし、熟語として使われる。用法は「自由狼藉」。

 つまり勝手気ままに、暴力をもって、やりたい放題のこと。

 全ての規制から、(勝手気ままに違法行為として)自由。なるほど。規制からは自由だろう。だが、法治国家の定める刑法に抵触している。法を軽んじるか、重んじるかは、個人のモラルとか、主観ではない。

 納税している国家を、維持するために、ルールを守る。選択できるものではない。文明人なんだから、法治国家のルールを守るのは当然である。

 だから、法を犯してまで、利益を上げようなんて、美意識の問題だけではない。保険金殺人や振り込め詐欺を働いていることと、種類が違うだけだ。根幹は同じことである。

商売する気が感じられない

 インターネットを使って、情報に関することの大半はできる。日本でもインフラは充分である。店頭販売の売り上げが頭打ちになっているのは、やはりウェブ通販で購入できるメリットが大きいからだろう。

 おせち料理がすかすかだったと、憤慨する人々が多かったのも、結局はそれだけ注目されているということである。

 印刷会社の人も、ダイレクトメールの印刷は激減しているという。

 つまりウェブを使って、商品を比較したり、情報を集めるなど、今や常識である。

 そういう中で、幼稚な抜け道紹介など、誰が読むのだ。誰が購入するのか。もっと効率的な方法をなぜとらないのだ。

 犯罪は犯罪で許されざる行為だが、その稚拙さにむしろ哀れみを感じる。

 いまだに飛び込み営業をさせて、若い世代の体力にすがり付こうとする。幼稚なキャッチで、違法な商品を売りつける。

 全く未来のない商業行為。実に哀れ。

2014年12月4日木曜日

勝ちをお譲りいたすのに

暴君

横柄であったり、社会的立場にかこつけて、人使いが荒い人がいる。

 本人は偉いつもりだろうが、本当にそれは、本人だけの思い込みでしかない。それに気付けず、エリート社員がホームレスに瞬く間に転落するという話を聞いたことがある。

 今までも、そのテの痛い人は幾人も見てきた。

 それを目の当たりにするたびに、菊池寛の『忠直卿行状記』を思い出す。

 実在した松平忠直という、家康の孫にあたる人が、暴虐の限りを尽くし、なおもそれが勇猛果敢であると、当時は賞賛された。しかし晩年、改易された後は穏やか人物であったという。

 菊池はその史実に、魅力的な裏話を盛り付ける。

 松平忠直卿は家康の子の中でも、名将の誉れ名高い、結城秀康の息子であり、周囲の期待も大きい。本人もその将来を夢見て、武芸の稽古に邁進していた。

 ある日、家臣たちを集めて、槍の仕合をして、瞬く間に勝って、得意になっている。

 と、手洗いにいった時、ふと家臣たちの話し声を聞いてしまう。

 殿の腕前は、上達したと思うか。その問いに、相手が答えていう。

「以前ほど、勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなったわ」

権威とか地位とか

そうである。強い、弱いの二元論ですらないのだ。ちょっとは槍を持てるようになったというのが、家臣の率直な感想なのだ。

 そこから忠直は狂う。人間不信に苦しむ。誰一人、真剣に向き合ってくれないことに苦しみ、それを求めて、ますます周囲に当り散らす。その惨めさ。

 ストーリーは幕府の重臣たちによって改易されて、改易された後は温厚な人柄であったと終わる。

 しかし、このテーマは深い。

 勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなったわ。

 この一言が初見以来、二十年経っても脳裏に残っている。傍若無人な人を見かけるたびに、反復しているのかもしれない。

 人に優しく接しないといけない。苦言にも、向き合わないといけない。実はそんなことは浅ましくも、自分自身のために貪欲であって、当然である。

 それができないのは、臆病なのだ。自分以外の人が、彼を指して、きっと嘯いているだろう。勝ちをお譲りいたすのに、と。負けてやるのが、ちょっとは楽になったと。

 なんともいたたまれない気分にもなる。

 葉隠の説く、究極の忠義とは、諫言であるという。それは戦闘者の集団が、謝った進行をすれば、自分たちが壊滅するだけではなく、父祖の所領と名誉を失い、子々孫々まで浪々の身になることにつながる。

 主君に奴隷のように仕えるのではなく、主家の名誉と家の存続をかけて、諫言できる、徳望を日常持たないといけないというのだ。

 一行目の死ぬことと見つけたり、ばかりが目立っているが、チンピラの啓発ではないのだ。現代とはかけ離れているが、ちゃんとテーマはある。

 もし忠直の下に、葉隠を読む武士がいたら?

 きっと彼は名君として名を残し、菊池寛の目に触れなかっただろうし、彼が題材にすることはなかっただろう。

 権威や地位でもって、人を顎で使うような人をみると、いつもこの一言を思い出し、苦い気分になる。もし彼が、忠直のことを知らなくても、せめて、この短編を読んでたらいいのにと思うと、やっぱりやりきれない。

2014年12月3日水曜日

一応、日本代表

一人はみんなのために


 フランス人の家族が駅前で地図をにらめっこしている。

 声をかけて、目的地まで案内する。

 道すがら、片言の英語で話す。自分は三銃士が好きなこと。(大正時代の猿飛佐助は初版で『真田三勇士』というサブタイトルがついている。後の真田十勇士というタイトルは立川文庫がだいぶ刊行されてからのタイトルである。だから、最初は三銃士を意識して、猿飛と、三好晴海入道、霧隠才蔵の三人を主人公にしている、という自分の仮説を説明するほど、英語は話せない)

 気になっていたことを質問する。

 英語で、One for all, All for oneは日本人になじみが深い。

 しかし本当は英語ではない。フランス語ではなんというのか、教えてほしいと。するとお姉さんが得意げに教えてくれた。

「un pour tous , tous pour un」

 音だけをきくと、英語と結構似ている。ううん、ドイツ語みたいに、なんか全然違うことをいうてほしかった。

ムエタイの魅力を


 タイ人の女性二人が、地下鉄で不安そうな顔をしているのに、出くわす。聞けば大阪駅から、バスで環状線のある駅に行きたいという。環状線のほうが、早いし、楽なのに。しかも雨ふってくるし。

 それでも何とかバス乗り場を見つけ、乗せることができた。

 道すがら、つい話してしまう。トニー・ジャーのティー・カウ・コーンは芸術だと。女性、二人ともややうけ。あ、今ニンジャオタクのアメリカ人見るみたいな顔した?

 NHKのタイ語講座を見て、ビックリ。男性呼称と、女性呼称があるから、語幹は複雑に変化する。間違うと、単なるオネエ言葉になってしまうのだ。ううん、相当むずいぞ。こういうのが無いから、英語は逆に普及するんだろうか。

 中国人の家族連れには、漢数字が同じだから、説明しやすかった。韓国人の新婚さんが道に迷っているのを案内したとき、ご主人にこっそり聞いた。大陸オンナはキレるとマジでやばいと。香港の二十代のグループにとって、ジャッキーは懐かしのスターらしい。すっかりおっさん扱いされてしまった。

 ドイツ人の学生にラムシュタインの魅力を語ろうとして、全然興味ないと即答されてしまった。

 ただスペイン人観光客には、質問することがなくて、がっかりした。ドン・キホーテだけである。全然知識が無い。スペインにはいけないが、スペイン人に話が聞けるチャンスがあったのに。

自称日本代表


 日本経済がもうだめなのか? 福祉政策がだめなのか? 議会制民主主義がだめなのか? 何がだめなのか。きっと色々だめすぎるだろう。もう情報が錯綜しすぎて、いうたもん勝ちな状態である。

 だが、そんなことと関係なく、外国人観光客は日本にやってくる。

 海外にいったことがあるが、現地の親切さが、めちゃくちゃ嬉しかった。

 自分がスポーツ選手になって、日本代表になることはできないだろう。なにか、世界的な貢献ができるわけでもないし、世界にその名を知られるようなことにはならない。

 だが、日本代表になるチャンスがある。

 それが道案内である。

 帰国した外国人が、友人に感想を聞かれたときに、こういうのだ。

「まあ良かったよ、日本。全然英語できないくせに、バカ丁寧に案内してくれるお調子者もいたけどな」

 そういいながら、彼もいつか現地にきた日本人にちょっといいことをしてくれる。

 そうなれば、きっと世界は良くなる。

 国際競争力だとか、貢献だとか、国際化とか、やるべきことはうんざりするほど、われわれ日本人にはあるのだろう。だが、それらに怯えたり、過剰に身構えるよりも、地図やスマホと標識を見比べて、途方にくれている人をほっとさせることの方が、実は確実にいいことだと思う。

 それとライブの言語が聞ける意味で、得した気分でもある。

 個人的に問題はスペインの知識である。イギリスにスペイン艦隊が負けた、ということしか知らない。スペイン人、怒るだろうな。いつの話やねん、と。

 父とオスマン・トルコ帝国の領土について、話題になっていたとき、来ていた、トルコ人の兄嫁に笑われた。

 スペイン。ううん、スパルタンX以外、全然閃かないぞ。

2014年12月2日火曜日

赤大黒の謎

神様が化けるなら


 七福神のメンバーの中で、大黒天はもともとのビジュアルをみると、がっかりする。

 マハーカーラ(大いなる暗黒、時間)という、もともとはヒンドゥ教の神様で、恵比寿と並んでニッコリではなく、不動明王さながらの憤怒尊なのだ。(滋賀県のお寺に憤怒形の大黒天が開扉されていたニュースをみたが、その通り)。

 仏教の中で、「天」と称される本尊は、大体こうしたヒンドゥの神々が、お釈迦さんに帰依して仏教を守る神に変化する。代表的なのは、毘沙門天で、北インドにいて、隊商の神様であったが、お釈迦さんに四天王の代表としてお布施をした姿が描かれる。

 つまり外国の神様が、インドで最も熱いブッダとコラボするのだ。

 これがアジア各地で加速して、現在の仏教文化がある。

 マハーカーラは時間をつかさどり、世界の破滅も意味する恐ろしい神さまである。チベット仏教で描かれるときは、大きな袋を持っていない。

 ところが中国にわたったときに、現世の福徳を象徴する意味で、袋が追加される。宝を施してくれる、仏教の神様。そういうビジュアルで、死をもたらすおどろおどろしさがなくなる。

大国主命


 仏教は世界的にホットなトレンドになる。

 中国人は悔しがる。インド人オリジナルの仏教に、当時の道教は祭祀中心であった。しかし老子の言葉に、空が似ている。(というか、実際は似せて翻訳した節もいなめない)

 そこで話がすり替わる。

「あ、ブッダ? ああ、あれは老子が最後、西に行ってからタオを教えるために、インド人へ教えてあげたのが、間違って別人として伝えられたんだよ」

 これは何も中国人だけではない。当のインド人も、ヒンドゥ教が人気になってくると、

「あ、ブッダ? あれはヴィシュヌ神が堕落したバラモンたちを戒めるために、人間の姿で教えを説くために現れたんだよ」

 これに日本人も負けてはいない。

「あ、ブッダ? あれはタケミカヅチノミコトの本当の姿なんだよ」

 これが本地垂迹説である。日本の神様って、ホントは仏さんが姿を変えただけなんだ。だから、日本って、仏教の聖地なんだ。アジアでも有名なところは、違うっしょ。(ところが鎌倉時代には、この逆の説が唱えられ、仏菩薩は神々が姿を変えたものという教説が一部に成立する)

 この本地垂迹という設定で、大黒天も代わる。あ、だいこく? 大国? 袋も持ってるし?

 因幡の白兎を助ける、心優しい大国主命は、恐ろしい憤怒尊が姿を変えたものという設定になってしまったのだ。

袋を持った男といえば


 ひょっとしたらといつも思うのは、クリスマスが明治以前に日本に来ていたら、どんなことになっていただろうかということだ。

 禁制になっていなければ、ひょっとすると、大黒天が姿を変えた神様として設定されたのではないか。

 太陽神ミトラの再生を祝う日(冬至)が、イエスの誕生日になったという、ごちゃごちゃ文化がルーツなのだ。大黒天が衆生救済に汗を流して赤くなったのが、赤大黒になったという教説も成り立ったのではないだろうか。

 いや、そんな儀軌が実は存在するのではないか。

 ミトラ神はインドに伝わり、マイトレーヤ(弥勒菩薩)になったのだ。ならば、その設定も頂いたのではないか。

 赤大黒供養品。弥勒菩薩が人々を救うために、大黒天に命じ、真言を授ける。おん・ほうほう・そわか。この真言を唱える者は大黒が赤くなって走り来たり、福徳を授ける。。。。

 念のため、大正大蔵経を検索しておくべきか。。。(こんなこと、お山の連中にしか通じまい。。。)

2014年12月1日月曜日

全然

全く然るべき

違和感を感じていたこと。

「全然」

 という言葉の使い方。

「全然、できてない」「全然、電話がつながらない」

 そうあるべきなのに、それができていない状態を指す、ネガティブな言葉である。精一杯がんばった成果を、上司に報告した時、彼が、「全然。。。」と言葉を発したら、しょんぼりすることになる。

 これが逆な使われ方をした場合。

「全然、おかしくない」「全然、さっきよりいい」

 違和感を感じる。全然は否定的な意味なのに、後ろに肯定的な意味がつく。全然、間違っている気がした。

 ところが、これが実は間違っていたのだ。

 たしか金田一春彦の随筆だったと思う。

「最近の日本語は乱れてきて、『全然』という言葉のあとに、否定的な意味の言葉をつなげるという、誤用は目に余る」

 ということを書いていた。

 考えれば、全く然るべき、なのだから、『全然』は肯定すべき言葉なのだろう。金田一がウザがっていた誤用が、定着したあとで、今度は反転したのだ。裏の裏は表、という現象なのかもしれない。

盛り塩に清めパワーなし


 神道において、塩は清めの象徴である。明確な出典は知らないが、イザナギノミコトが黄泉の国から帰ってきて、海でみそぎをしてたことから考えれば、海のエッセンスを凝縮したイメージの白い塩は、確かに清めの効果がばっちりな気がする。

 京都などにいくと、古い店にしばしば盛り塩がしてある。

 このことを清めや、魔よけのように、印象を持つ人もいる。これはイメージが混濁している。

 もともと古代の中国で、皇帝(晋の武帝とか、秦の始皇帝)が、後宮に沢山の女性がいたため、ランダムに選ぶために、牛車の牛にまかせることにした。

 しかし皇帝の寵愛を得れば、出世ものである。後宮の一人が塩を軒先に持ったところ、牛が止まり、皇帝の寵愛を得ることができた、という由来。

 伝承に過ぎないが、哺乳類の動物が汗をかいて、ナトリウムを摂取したくなるときに、塩(塩化ナトリウム)を嘗めるという性質は科学的に成り立つ話だし、この女性が胡国(モンゴルなど騎馬民族)出身とする伝承などは、ロマンある設定といえるだろう。

 この故事をもとに、唐代の貴族を呼ぶために、店の軒先に塩を盛っていたらしく、江戸時代の文化に継承されたという。貨幣経済や流通産業が発達しないと、成り立たないことである。つまり古代の奈良や、京都でそうした風習が早くから伝えられていたとは考えられにくい。万葉集にも、梁塵秘抄にも、そうした題材がないことが傍証といえるのではないか。

 業者のサイトで盛り塩について、説明しているが、神道の禊とイメージを混濁している。艶っぽい発端がたちまち葬式じみたオカルトチックに見えてしまうのだから、失敗だろう。

本来よりイメージ


 大乗仏教の中で面白いのは、仏に対しての供養の裾野の広さである。

 小さな仏像でもいい。いや、なくてもいい。思い描いた仏像でもOK。そこにお米や香、灯明を備えたら、どうなるか。もうめちゃくちゃいいことしたことになるから、現世で確実救われる、と何回も説かれる。

 つまり線香は、仏像のあるところをデコレーションして、心地よくなるものだから、ハッピーが確約される縁起ものなのだ。

 ところが不信心な人たちは、参拝しないため、線香がまるで死臭を隠すためのものであったかのように思ってしまった。

 現在でも、結婚式場で線香を使うことは禁止されるらしい。葬式を連想されるからだ。

 本来がどうあれ、イメージが先行してしまう。それが正しいかどうかは別にして、それが文化になってしまう。そんなものではないだろうか。

 だから、ふと思う。いつの日か、『全然』がまた、否定的な意味に復活する時代がやってくるのではないかと。