ヨーグルトNGなご老公
水戸黄門こと徳川光圀は好奇心旺盛な人であった。清朝に滅ぼされた明朝の知識人を、水戸徳川家がスポンサーとなって領地を与え、生活支援したこともあって、文物が大量に集まってきた背景もある。
そうした文化土壌にあって、現代に近いラーメンを食べたり、陶器の工房を建てたりした。
その中で乳製品を発行させて、ヨーグルトを食べたが、生臭くて食べられなかったと言われている。ご老公、ショック。
現代の食生活は動物性タンパク質に大量に囲まれている。
一度、動物性のものをほとんど摂取しない生活をしばらくしたことがあるが、パンに塗ったバターの香りだけでも、目眩がするほどである。
もともと人間の味覚や嗅覚は、本来それほど鋭敏なのだと知った。
そう考えると、光圀のがっかりも分からないではない。何せ乳製品を発酵させたものこそが、”醍醐味”と涅槃経に書いているのだから、めちゃくちゃ期待していたはずである。
悟りの幸福の例えが、生臭くて食べられなかったというのでは、比喩として失敗である。
ヨーグルト祭り
仏教文化と乳製品は本来、因縁が深い。
仏伝によれば、お釈迦さんは苦行の座を降り、村娘スジャータが捧げたミルク粥を食べる。そして座りなおして、その晩に悟る。
施しの例え話によく引用されるエピソードである。悟りに近いフード=乳製品なのだ。
生き物を殺さずに、動物性たんぱく質を摂取できるため、仏教的に、戒律を犯さない、めちゃくちゃ便利な食材であったともいえるだろう。
チベットやモンゴルなど、中央アジアではバターランプで仏壇を飾ったり、ヨーグルトで僧侶をもてなす。生臭さの沸点が、全然違う文化だからだろう。
また臨済宗の一部では、軟酥(なんそ)の法を伝えている。
卵の大きさの乳製品を頭上に想像し、それが溶け出して、身心をリラックスさせるという瞑想だが、光圀公に言わせれば、生臭さすぎてくつろげるか、だろう。
乳製品を実際に食べてみようとしたら、がっかりまずかった。しかしイマジネーションの中では、豊穣な香りを放つ、高カロリーでおいしいもののまま。
京都の醍醐寺は、上醍醐と呼ぶ山中で沸く水を”醍醐水”としている。
以前、登ったことがある。
京都市内から外れて、修験道場らしく、ちょっとした山登りである。確かに登った者には、乳製品よりはるかに甘露であった。
しかし本当に、醍醐味といえるのだろうか。今度はカルピス持参で登るべきかなどと、どうでもいいことを企んでいる。
イエス様も聖徳太子も、厩で生まれたのだから、牛や馬とカリスマとの関わりは深い。 100円以下のミートパテとか食うたらバチ当たるような気分になってきた。 |
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