業者もよろこぶ同人誌
古本屋が集って、古本市が立つ。そういうイベントに出かけてしばしば見受けられるのが、古い同人雑誌である。同人雑誌といっても、あのテのものではない。今の言葉でいう「活字本」である。
テキストをどういうやっつけ仕事なのか、間延びした字送りで読みにくくレイアウトして、紙だけは厚めの上質紙を使い、扉にも高級な色上質を入れていたりする。(クロス貼りの表紙はなかなかみたことがない)
装丁の期待とは異なり、テキストそのものは、話題が散漫な随筆であったり、歳時記の引用見本のような俳句が並んでいたりする。
とても市販できるようなものではなく、同好の仲間を集めて、刊行するまでを楽しんだものなのだろう。清算までに、印刷や製本業者も楽しんだはずである。
付き合いで、こんなものを買わされた日には目も当てられない。
読ませることと、書くことを秤にかけて、均等にならなかったものをつづっているのだから。
文学について何もご存知ないのね
雑誌編集をしている人から聞いた話。地方のちょっとしたお金持ちのご妻女が、文学作品を自費出版され、そのインタビューを地方紙に載せるという案件があった。
そのために話を聞く。長時間、座らされた挙句、話題をまとめようとすると、いちいちご妻女は食ってかかるのだ。
「あら、あなた文学について、何もご存知ないのね?」
そう呆れて、また一から文学的表現とか、ほとんど精神世界に近い講釈を聞かされたとのことであった。
もちろん、帰ってからも、入稿までに艱難辛苦の長旅であったとのことであった。
文学、というと、結構、高尚なことをしているような錯覚を覚える。科学。医学。哲学。文学。物凄く、深淵なことをしているかのような。
ところが文学というのは、実は代用表現なのだ。
明治時代、musicを翻訳する際に、音の美を創作、鑑賞すること総称して「音楽(音を楽しむ)」という言葉を充てた。
同様にliteratureを翻訳する際に、適した日本語に挙げられたのは「文を楽しむ」というコンセプトで「文楽」であった。
しかし「文楽」はすでに、江戸時代に”文楽(ぶんらく)”と発音して、別ジャンルを確立されていた。
そこで同時期に入ってきていたphirosophyを翻訳するときに、「哲学」と翻訳したように、「文学」とした。
だから、文学とは哲学のように、活字メディアを媒介することが多いが、哲学のように思索を旨とするようなものではなく、伝達・表現され、鑑賞されるものなのだ。
表現され、楽しまれることにおいて、初めて成立するものである。鑑賞者がなければ、自宅でギターを弾いたり、湯船で肩までつかりながら、歌っているのと同じである。
もっというと、音楽が高尚であるか否かという問いは成り立たず、高尚な音楽と、低俗な音楽とがあるという多様性の事実同様、文学というジャンルにも、それが当てはまるだけのことなのだ。
自分も編集の仕事をしたことがあるが、まずい文章というのは、簡単に見破れる。客観性の欠如だ。表現することに陶酔したか、伝達することを優先したのか。
作り手がどこにフォーカスしたかを、フレームワークのように問いかけたら簡単である。
Q.どこにフォーカスしたか。
A1.少ないスペースだったので、情報量を抑えて、イメージ連想を優先させるため、単語をできるだけシンプルなものに控えた。
A2.最初からこれでいけるという確信があったので、とにかくがむしゃらになって、イメージ通りのものを作った。
どっちが客観的に練られたものかは問うまでもない。
作家が空想家のように思われがちだが、 アポロ11号が大西洋に着水させたのは ジュール・ベルヌのアイデアを借用したはずだ。 彼なりにちゃんと計算していた。 |
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