ジェントルマンの死
学生時代か、卒業して間もなくの頃。
一人の後輩が自分の部に入って来た。
明るく話す、人当たりのいい人物であった。
ところが夏にさしかかる頃に、彼が来なくなる。彼と近しかった後輩に尋ねる。彼はどうしたのかと。
すると声を落として、教えてくれた。
彼はノイローゼになって、実家に帰ったが、やがて自らの命を絶ったのだと。
詳しく聞くと、こういうことであった。
彼は高校時代、男女混成の大変仲が良かった友人たちがいたと。いつもそのグループで一緒にいたという。
惜しみながら、高校を卒業したが、忘れられず、しばしば懐かしんでいた。戻りたいと常々いっていた。
そして、思い詰めるあまり、その思い出を永遠にするために、未来を拒否したのだと。
びっくりした。こっちが気後れするぐらい、紳士的で優しい人間が死ぬ理由がそれなのかと。
それと同時に無性に腹が立った。それが死ぬ理由なのかと。
友達と仲良かった? 新たに関係を築くことに気後れして膿んでいた? では、残された友人たちはどんな思いで過ごさないといけないのだ?
何もかもが気に入らなかった。正直、今でも腹が立つ。幸せになるために生きるというのなら、彼の人生は見事に完成されたものである。
だから「幸せになるために生きる」などと、ポップソングみたいな、下手くそな自己啓発は大嫌いだ。幸福になったら、あとは死なないといけないではないか。
不幸な人間は生きていちゃいけないのか。
美しい思い出はしばしば麻薬である。そんなものが今から生きるのに役立たないのだとしたら、潔く足蹴にするべきなのではないか。
思い出どもよ、この足の裏を舐めるがいい。
そもそも、そんな美しい思い出なんて、自分は信用しない。自分は今まで手に入れたことなどない。美しい思い出など、手に入れたのかも知れないが、根こそぎ足蹴にして、ここまでやってきたではないか。
永遠など信じない。永遠に美しい思い出など、クソ喰らえ。
そんなものがあると思うから、男女の痴話喧嘩の果ての刺殺事件とかいう、月並みな事件が起こるのではないか。
昔は良かったとか何とか、そんなもの口にしたら、棺桶に足を入れたも同然である。昔が良かった証拠なんて、何もない。
まるで世界が悪化の一途を辿ってるみたいじゃないか。全面核戦争の恐怖から解放されて三十年経とうとしているのに。
永遠など、信じない。永遠に美しいものなど、信じない。なぜか。自分が永遠ではないからだ。永遠に存在することを許されていない分際で、永遠を知覚する能力など、どうしてあるものか。
思い出を美しいままにパッケージするのなら、確かに彼の論理は正解である。
だが、気心の知れた友人と、濃厚な時間を過ごせた結果が、セルフサービスで人生を締めくくることになるのなら、実は惨めなことなのではないか。
惨めで、苦しく、悲しく、痛みを伴って、それでもそれらから逃げ出さずに立ち向かったり、逃げ惑ったりしているほうが、はるかに有意義ではないか。
死よりも逃れられないものがある。チャップリンはライムライトでいう。それは何か。
「Life! Life! Life!!」
不幸のどん底でも、不道徳の中であっても、恥を耐え忍んで、生き長らえる。
そうでもしなければ、彼が浮かばれないような気がしてならない。彼の分までも、生きたことにならないのではないかと。
昔はよかったなど、信じない。一番よかった、昔など、主観でしかないし、懐かしむようなものなど、本当にあるのか。
スプリングスティーンのGlory daysのように、飲みながら、懐かしむのが楽しいのであって、それがリアルであったかどうかなど、どうでもいいのだ。
永遠など、信じない。
美しい思い出など、信じない。
今が、一番とは決していえないが、少なくとも昔よりは良い。
学校を舞台にしたものも、なんとなく好きになれない。 |
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