2015年3月25日水曜日

永遠など信じない。

ジェントルマンの死


 学生時代か、卒業して間もなくの頃。

 一人の後輩が自分の部に入って来た。

 明るく話す、人当たりのいい人物であった。

 ところが夏にさしかかる頃に、彼が来なくなる。彼と近しかった後輩に尋ねる。彼はどうしたのかと。

 すると声を落として、教えてくれた。

 彼はノイローゼになって、実家に帰ったが、やがて自らの命を絶ったのだと。

 詳しく聞くと、こういうことであった。

 彼は高校時代、男女混成の大変仲が良かった友人たちがいたと。いつもそのグループで一緒にいたという。

 惜しみながら、高校を卒業したが、忘れられず、しばしば懐かしんでいた。戻りたいと常々いっていた。

 そして、思い詰めるあまり、その思い出を永遠にするために、未来を拒否したのだと。

 びっくりした。こっちが気後れするぐらい、紳士的で優しい人間が死ぬ理由がそれなのかと。

 それと同時に無性に腹が立った。それが死ぬ理由なのかと。

 友達と仲良かった? 新たに関係を築くことに気後れして膿んでいた? では、残された友人たちはどんな思いで過ごさないといけないのだ?

 何もかもが気に入らなかった。正直、今でも腹が立つ。幸せになるために生きるというのなら、彼の人生は見事に完成されたものである。

 だから「幸せになるために生きる」などと、ポップソングみたいな、下手くそな自己啓発は大嫌いだ。幸福になったら、あとは死なないといけないではないか。

 不幸な人間は生きていちゃいけないのか。

 美しい思い出はしばしば麻薬である。そんなものが今から生きるのに役立たないのだとしたら、潔く足蹴にするべきなのではないか。


 思い出どもよ、この足の裏を舐めるがいい。

 そもそも、そんな美しい思い出なんて、自分は信用しない。自分は今まで手に入れたことなどない。美しい思い出など、手に入れたのかも知れないが、根こそぎ足蹴にして、ここまでやってきたではないか。

 永遠など信じない。永遠に美しい思い出など、クソ喰らえ。

 そんなものがあると思うから、男女の痴話喧嘩の果ての刺殺事件とかいう、月並みな事件が起こるのではないか。

 昔は良かったとか何とか、そんなもの口にしたら、棺桶に足を入れたも同然である。昔が良かった証拠なんて、何もない。

 まるで世界が悪化の一途を辿ってるみたいじゃないか。全面核戦争の恐怖から解放されて三十年経とうとしているのに。

 永遠など、信じない。永遠に美しいものなど、信じない。なぜか。自分が永遠ではないからだ。永遠に存在することを許されていない分際で、永遠を知覚する能力など、どうしてあるものか。

 思い出を美しいままにパッケージするのなら、確かに彼の論理は正解である。

 だが、気心の知れた友人と、濃厚な時間を過ごせた結果が、セルフサービスで人生を締めくくることになるのなら、実は惨めなことなのではないか。

 惨めで、苦しく、悲しく、痛みを伴って、それでもそれらから逃げ出さずに立ち向かったり、逃げ惑ったりしているほうが、はるかに有意義ではないか。

 死よりも逃れられないものがある。チャップリンはライムライトでいう。それは何か。

「Life! Life! Life!!」

 不幸のどん底でも、不道徳の中であっても、恥を耐え忍んで、生き長らえる。

 そうでもしなければ、彼が浮かばれないような気がしてならない。彼の分までも、生きたことにならないのではないかと。

 昔はよかったなど、信じない。一番よかった、昔など、主観でしかないし、懐かしむようなものなど、本当にあるのか。

 スプリングスティーンのGlory daysのように、飲みながら、懐かしむのが楽しいのであって、それがリアルであったかどうかなど、どうでもいいのだ。

 永遠など、信じない。

 美しい思い出など、信じない。

 今が、一番とは決していえないが、少なくとも昔よりは良い。


学校を舞台にしたものも、なんとなく好きになれない。

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