2015年3月14日土曜日

ネズミ男は憎めない

ほとけの先生

 穏やかな人柄と、執拗な研究熱心さで周囲に慕われる先生がいた。”仏の”と冠をつけて語られることもある人で、底抜けといっていいくらい、優しい人だった。

 鉄拳制裁も辞さないぐらい、強面の先生に見つかるより、この先生のお目こぼしに預かればと、競って、この先生の授業を選んだ。

 学生時代はその程度の関わりであったが、卒業後、その先生が寄稿されたものをみた。

 この先生にも、かつて師匠と仰いだ仏教美術の研究者がいた。日本のその学問の体系化は、その人によって始まったといっていい。

 しかし晩年、認知症によって、手ひどく当たり散らされたばかりか、周囲に誹謗中傷を多く語られた。それでも、その先生の最期を看取ったという。

 人間が老いさらばえていくとは、どういうことなのか。それを先生は身を以て教えてくださった。そういうことが語られていた。

人当たりがいいだけ

 その一文を読んで、その先生がますます好きになった。ちやほやと、愛された人間が、のほほんと人々に愛を施すようなものではない。

 路傍に倒れ、辛酸を舐めて、額をかかとで踏みつけられてもなお、人々に慈悲を示そうとされるような気高さを感じる。

 しばしば娑婆で、自分が人当たりがいいように言われると、面映い反面、実は恥ずかしい。あの先生に比べれば、上っ面だけの軽薄な、お人好し加減を見透かされそうで、自分の卑しさを一層糊塗したくなる。

 人当たりがいいだけの人間も、沢山見てきた。受け答えが明瞭だが、大した考えも無く、その場を取り繕うだけで、何かを為しているつもりになっていた。

 彼らにしばしば額を踏みつけられる。背中や肩にのしかかられる。

 それでもなお、慈悲を示せるのか。本心では信用できていないと知っていることを、誰よりも自分自身で知っているくせに、それでもなお、慈悲とはなんであるかを示す覚悟はあるのか。

 ネズミ男は相手が人間だろうが、妖怪だろうが、それらしいことを言って、その場の者を説き伏せる。だが、結局は鬼太郎たちに厄介になる。

 ネズミ男は憎めない。だが、一部たりとも愛してはいない。そのことに自分で気付いている鬼太郎は、それでもネズミ男を嫌悪しない。

 まだ自分も、その程度なのではないか。先生ほど、慈悲とは何たるかを、示されるほどの修練はできていない。

ネズミのビジュアルはちょっと。。。

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