人を殺してはいけない
道徳の問題ではない。刑事法の問題でもない。人を殺してはいけない。答えはずっとシンプル。
同系類の生物死滅に対する警戒や嫌悪感は、哺乳類として自然な反応であるし、それが鈍くなっていく群れはやがて地球上に存在しなくなるからだ。
だからアメリカは軍事技術を開発し、兵士が良心の呵責を感じず敵の兵士を殺害できるようにしている。
では我が国が明治のご一新以前の、野蛮な軍事政権下にあった当時はどうだったのか。
その一端を分析したのが、『武士道の逆襲 (講談社現代新書)』である。
何年も前に読んだのに、いまだに時々再読してしまうぐらい面白かった。キャッチがいい。大和魂は武士道ではない、と。
戦闘者の思想
死ぬことと見つけたりの、武士道を、丁寧に読み解いている。
中で印象に残っているのは、戦闘者としての武士のありかた。近代的な自我など、一切相容れないところだが、戦闘者としての特異な思考がそこにある。
結果を受け入れるために、修練するというのだ。強さがあるかどうかなどは、問題がないと。
日夜欠かさず弓馬武芸に励み、ひとたび事あれば、即座に戦えるようにしておく。そうしておくことで、敗北し、死ぬことになったとしても、全力で生き抜いたのだから、悔いがない。
そういうことを潔さとして、美学にする。
後年の新撰組が掲げる局中法度の「士道に背く間敷き事」の、士道とは、まさにこの潔さの有無にかかっている。
つまり不名誉ならば、いきながられて、恥を忍ぶなど、許されないのだ。そうならないための、日々の修練であったし、覚悟であったのだ。
落ち武者の霊は怖くない
日々、訓練をして、殺されることもやむなしとする。その瞬間まで、精一杯生きる覚悟を固める。
それが武士の本懐であるのだとしたら、勝手も敵の恨みに怯えることはない。お互い、名乗りあって、正々堂々ベストを尽くして殺しあったのだ。供養はするが、それ以上、恨まれる筋合いはないというものである。
当然、武士は武士以外を殺害することを前提にしていないし、江戸時代に、切捨て御免の特権を与えられたといっても、形式ばかりで実際の発動はほとんどなかったという。
そうだとするなら、番町皿屋敷は実は滑稽なのだ。お菊さんに迫った挙句、皿破損容疑で殺害する。そして今度は、その亡霊に苦しめられる。
武士道的に完全にNGである。権威でもって、女性に言い寄る。振られた逆上で、容疑をかけて殺害する。最後にその亡霊(良心の呵責)に苦しむ。もう完全にスリーアウトである。
非道な武士が苦しめられる。怖い反面、溜飲を下げる思いで、江戸時代の庶民は見ていたのだろう。武家階級は尊敬の対象ではなくなった江戸中期に、人気を博したのは当然である。
また夏場になると、西日本で目撃されがちな、平家の落ち武者の霊。
甲冑を着て、血まみれで、源氏と縁もゆかりもない我々を呪うとかいうが、実はこれも全然アウト。
平家物語が公家たちに愛されるよう、琵琶法師が結構叙情的に語っていたことに、イメージが増幅されている。
後の鎌倉幕府の御成敗式目が潔さを美徳としていたのに対して、平家全体が全然武士団として統制されていなかった。
だから、負けるんだろ? 怨霊を見かけたら、そうも言いたくなる。ましてや源氏政権は滅びたし、その子孫たる徳川幕府も倒されて、日本は今や民主国家になったのだ。
投票にいって、現行政権を支持するかぎり、平家に恨まれる筋合いはない。
ノイローゼ侍や、怨霊になるような未練がましい武士など、到底風上においておけない。
「お化け」で検索したら、女性の幽霊が。小噺を思い出す。 旦那に殺された奥さんが、閻魔大王に復讐するから幽霊にしてくれと頼む。 閻魔さんは彼女の容姿を見て渋る。幽霊は美人でないと。。。 隣で聞いていた鬼が一言。「化け物にしてもらえ」 |
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