2015年3月31日火曜日

ディズニー商法

ポップの回収率

長編アニメ『白雪姫』のセル画を書く段階で、どうしても健康的な感じにならなかった。
そこで女性スタッフが頬にチークを入れたところ、いきいきとした表情になった。。。という話を聞いた。
さすがディズニーと思ったが、はて。白雪姫って、童話だったんちゃうか?
白雪姫、シンデレラ、いずれもグリム童話だった。
いってしまうと、フリー素材なのだ。
フリー素材を取り込んで、オリジナルのキャラクターをデザインし、作品を作って宣伝する。クリップとして取り出しやすいように、音楽を盛り込む。絵本を作る。
いつしか、ディズニー作品こそが『白雪姫』であると錯覚させるのだ。他社がアニメ作品を作っても、完全にパッチもんに見えるようにする作戦である。

ソフトウェアのモデル

ルーカス・フィルムがディズニーに買収された時、心配する声があった。
「ルーカスのクリエイティブな姿勢が、ディズニーの商業主義に毒されるのではないか」
まさか。
ルーカスこそディズニーの信奉者であったではないか。彼自身が脚本を担当した一作目より、監督に徹した『帝国の逆襲』のほうが人気であったではないか。自分で作らず、基本コンセプトだけ作って、後は外注なのだ。
キャラクターを作り、派手なプロモーションを繰り返す。
さすがにフリー素材を取り込むような真似はしないが、ジョセフ・キャンベルの神話学から、古典的なモチーフを充分にリサーチしていたではないか。
実は全然商業主義であって、作品と称したパッケージの売り方を、ディズニーのメソッドに沿って丁寧に再現したのが、ルーカス・フィルムなのだ。
ディズニーが好きとか、嫌いとかいうのとは別に、商業主義を否定することが正しいと思うことが嫌いである。
ミッキーだって、戦中には眼鏡をかけた出っ歯のちびたち(当時、アメリカに敵対していた黄色人種の兵士をモチーフにしたもの)を次々やっつけている。必要とあらば、簡単にプロパガンダに引火する。いや、プロパガンダそのものになる。
たまたま、夢や冒険にあふれたものが、興行的に成功することもあるだけで、それが本質だとか、本質ではないとか、タブーを設けること自体が、滑稽ではないか。
そう割り切って、楽しむのが、適切な距離なのではないだろうか。とか、いうときっと色々嫌われるから、あまり言わないようにしよう。。。

シンデレラもこんなビジュアル。ディズニーがいかにカラフルでポップなデザインか。

2015年3月28日土曜日

Cow and Buddha

ヨーグルトNGなご老公

水戸黄門こと徳川光圀は好奇心旺盛な人であった。

清朝に滅ぼされた明朝の知識人を、水戸徳川家がスポンサーとなって領地を与え、生活支援したこともあって、文物が大量に集まってきた背景もある。

そうした文化土壌にあって、現代に近いラーメンを食べたり、陶器の工房を建てたりした。

その中で乳製品を発行させて、ヨーグルトを食べたが、生臭くて食べられなかったと言われている。ご老公、ショック。

現代の食生活は動物性タンパク質に大量に囲まれている。

一度、動物性のものをほとんど摂取しない生活をしばらくしたことがあるが、パンに塗ったバターの香りだけでも、目眩がするほどである。

もともと人間の味覚や嗅覚は、本来それほど鋭敏なのだと知った。

そう考えると、光圀のがっかりも分からないではない。何せ乳製品を発酵させたものこそが、”醍醐味”と涅槃経に書いているのだから、めちゃくちゃ期待していたはずである。

悟りの幸福の例えが、生臭くて食べられなかったというのでは、比喩として失敗である。


ヨーグルト祭り


仏教文化と乳製品は本来、因縁が深い。

仏伝によれば、お釈迦さんは苦行の座を降り、村娘スジャータが捧げたミルク粥を食べる。そして座りなおして、その晩に悟る。

施しの例え話によく引用されるエピソードである。悟りに近いフード=乳製品なのだ。

生き物を殺さずに、動物性たんぱく質を摂取できるため、仏教的に、戒律を犯さない、めちゃくちゃ便利な食材であったともいえるだろう。

チベットやモンゴルなど、中央アジアではバターランプで仏壇を飾ったり、ヨーグルトで僧侶をもてなす。生臭さの沸点が、全然違う文化だからだろう。

また臨済宗の一部では、軟酥(なんそ)の法を伝えている。

卵の大きさの乳製品を頭上に想像し、それが溶け出して、身心をリラックスさせるという瞑想だが、光圀公に言わせれば、生臭さすぎてくつろげるか、だろう。


乳製品を実際に食べてみようとしたら、がっかりまずかった。しかしイマジネーションの中では、豊穣な香りを放つ、高カロリーでおいしいもののまま。


京都の醍醐寺は、上醍醐と呼ぶ山中で沸く水を”醍醐水”としている。


以前、登ったことがある。


京都市内から外れて、修験道場らしく、ちょっとした山登りである。確かに登った者には、乳製品よりはるかに甘露であった。


しかし本当に、醍醐味といえるのだろうか。今度はカルピス持参で登るべきかなどと、どうでもいいことを企んでいる。


イエス様も聖徳太子も、厩で生まれたのだから、牛や馬とカリスマとの関わりは深い。
100円以下のミートパテとか食うたらバチ当たるような気分になってきた。

2015年3月27日金曜日

ちょっち社会的

東側文化

wordpressについて、話を聞く機会があった。

世界のCMSの六割がwordpressで設計されており、今や人気どころか標準になっているという。

しかし自由に追加できる機能、プラグインのうち日本人によってつくられたものは、海外のものに比べて圧倒的に少ない。

(当然だろう。アメリカ生まれのwordpressなんだから)

そう思ったが、違った。

ドイツで作られたプラグインが圧倒的に多いという。 しかも旧東ドイツと呼ばれるところで、生活している人たちが設計者に多いというのだ。

どういうことか。

共産主義圏といえば、80年代にこちらに流れてきた報道といえば、ピロシキを求めて雪の積もる中で、震えている行列であったり、天安門に集まった学生たちを殺害する戦車に連想がつながるはずだ。

貧乏で、気位ばかり高く、官僚は賄賂を受け取るが、庶民をいじめぬく。その挙句に暴動した国民を粛清するだけの独裁国家。

兵士は第二次大戦中の兵器しか支給されず、半ばカルトのように共産主義を信奉しているが、人権の意識がまるでなく、臆病な薄らバカ。

そんなイメージでしかなかった。

ところが現代では、事情が少し違う。

国家のため、もっという、社会・文化のために、自分のスキルを提供し、問題解決や問題提起をはかっていきたい。そう考えて、wordpressのプラグインを設計するというのだ。

およそ我々西側とは違う文化である。個人がスキルを高め、それによって、経済的な成功をする。19世紀からの近代資本主義の伝統は我々のほうが引き継いでいる。

 ところが。

ベンチャーという焼き栗


PHPのカンファレンスに参加することがあった。

日本人が登壇するなかで、数人アメリカ人も登壇することがあった。その一つに座ってみて、驚いた。

彼は登壇するなり、翻訳者を介して呼びかけてきた。

「皆さんはPHPを使って、どんなビジネスモデルを考えてるんですか?」

会場は水を打ったような沈黙。ほぉら、きた。沈黙と曖昧な笑みを浮かべる日本人と、肩をすくめるアメリカ人の図である。

プログラマー、デザイナーといった人たちはいるだろう。下請け、孫請けで仕事をしている人たちである。決して、ガレージでピザを食いながら、昼夜コードを書いて騒いでいるような、ベンチャーの卵などは、ただの一人もいないのだ。

一張羅をきて、ちょっと滑り感を否めないジョークを交えたプレゼンを、スムーズに話し、公的機関からの融資を自慢する、ちょっと強気か傲慢なのか、その両方なのかが分からないようなベンチャーの社長など、一人もいない。

そうなのだ。

スキルがあって、ベンチャーを起こそうなどとは、誰も思っていない。ベンチャーなど、多重債務と自己破産の紙一重であり、いくら一攫千金だといわれても、親類縁者の鼻つまみになるリスクを、わざわざしょいこむ必要などないのだ。

講演はやはり日本人好みに、居眠りするか、メモに終始するかである。積極的に手を上げて質問したり、正面切って喧嘩を売るなど、絶対しない。粛々と、おきているように勤める、退屈なものになってしまった。

それ以来、なんとなく、興醒めしてしまっている。

アメリカやドイツでは、コミュニティの力として、会場費用と飲み物だけを頭数で割って、スキルアップや情報交流するは、なじんでいる。

日本でもそうした試みはあるが、ほとんどがセミナービジネスであったり、プレゼンであったり。しかもそこから得られるものは、粛々と授業を受けるだけの内容である。

そういうものなのだろうか。

できるだけ最前列で話を聞き、首を振る。にやける。うなづく。手を上げる。拍手をする。 本音で参加する。

電車賃を貰わない限り、こちらの持ち出しではないか。卒業してまで、黙ってきいてろ式の授業など、御免である。

だが、そういう姿勢自体が比較的マイノリティであったりする。カンファレンスが面白かったが、少し興醒めしているような気がする。

かつての東側共産主義圏の文化を軽蔑し、西側資本主義の一員であると思っていたが、そのどちらでもなかったことを、現代では思い知らされているのではないだろうか。

いや、むしろ利益だけを追求する方法論は、不安定なOSを更新続けてきた旗印メーカーで、限界を迎えたのではないか。彼らのポップに乗せたクリップを見て、本当に欲しいものが見つかるのだろうか。

左だろうが、右だろうか、イデオロギーなど、今やなんの役に立つのか。というか、そもそもイギリス議会の座席位置で、全てが判断されるという、社会認識自体、大丈夫か?

社会のために。そんなちょっと高潔な姿勢が、我々の日常を少しずつ快適にするのだとしたら、決して侮ってはいけない。

チェ・ゲバラを探してみたらlinuxのデザインに。ちなみにカストロ議長はない。w

2015年3月25日水曜日

永遠など信じない。

ジェントルマンの死


 学生時代か、卒業して間もなくの頃。

 一人の後輩が自分の部に入って来た。

 明るく話す、人当たりのいい人物であった。

 ところが夏にさしかかる頃に、彼が来なくなる。彼と近しかった後輩に尋ねる。彼はどうしたのかと。

 すると声を落として、教えてくれた。

 彼はノイローゼになって、実家に帰ったが、やがて自らの命を絶ったのだと。

 詳しく聞くと、こういうことであった。

 彼は高校時代、男女混成の大変仲が良かった友人たちがいたと。いつもそのグループで一緒にいたという。

 惜しみながら、高校を卒業したが、忘れられず、しばしば懐かしんでいた。戻りたいと常々いっていた。

 そして、思い詰めるあまり、その思い出を永遠にするために、未来を拒否したのだと。

 びっくりした。こっちが気後れするぐらい、紳士的で優しい人間が死ぬ理由がそれなのかと。

 それと同時に無性に腹が立った。それが死ぬ理由なのかと。

 友達と仲良かった? 新たに関係を築くことに気後れして膿んでいた? では、残された友人たちはどんな思いで過ごさないといけないのだ?

 何もかもが気に入らなかった。正直、今でも腹が立つ。幸せになるために生きるというのなら、彼の人生は見事に完成されたものである。

 だから「幸せになるために生きる」などと、ポップソングみたいな、下手くそな自己啓発は大嫌いだ。幸福になったら、あとは死なないといけないではないか。

 不幸な人間は生きていちゃいけないのか。

 美しい思い出はしばしば麻薬である。そんなものが今から生きるのに役立たないのだとしたら、潔く足蹴にするべきなのではないか。


 思い出どもよ、この足の裏を舐めるがいい。

 そもそも、そんな美しい思い出なんて、自分は信用しない。自分は今まで手に入れたことなどない。美しい思い出など、手に入れたのかも知れないが、根こそぎ足蹴にして、ここまでやってきたではないか。

 永遠など信じない。永遠に美しい思い出など、クソ喰らえ。

 そんなものがあると思うから、男女の痴話喧嘩の果ての刺殺事件とかいう、月並みな事件が起こるのではないか。

 昔は良かったとか何とか、そんなもの口にしたら、棺桶に足を入れたも同然である。昔が良かった証拠なんて、何もない。

 まるで世界が悪化の一途を辿ってるみたいじゃないか。全面核戦争の恐怖から解放されて三十年経とうとしているのに。

 永遠など、信じない。永遠に美しいものなど、信じない。なぜか。自分が永遠ではないからだ。永遠に存在することを許されていない分際で、永遠を知覚する能力など、どうしてあるものか。

 思い出を美しいままにパッケージするのなら、確かに彼の論理は正解である。

 だが、気心の知れた友人と、濃厚な時間を過ごせた結果が、セルフサービスで人生を締めくくることになるのなら、実は惨めなことなのではないか。

 惨めで、苦しく、悲しく、痛みを伴って、それでもそれらから逃げ出さずに立ち向かったり、逃げ惑ったりしているほうが、はるかに有意義ではないか。

 死よりも逃れられないものがある。チャップリンはライムライトでいう。それは何か。

「Life! Life! Life!!」

 不幸のどん底でも、不道徳の中であっても、恥を耐え忍んで、生き長らえる。

 そうでもしなければ、彼が浮かばれないような気がしてならない。彼の分までも、生きたことにならないのではないかと。

 昔はよかったなど、信じない。一番よかった、昔など、主観でしかないし、懐かしむようなものなど、本当にあるのか。

 スプリングスティーンのGlory daysのように、飲みながら、懐かしむのが楽しいのであって、それがリアルであったかどうかなど、どうでもいいのだ。

 永遠など、信じない。

 美しい思い出など、信じない。

 今が、一番とは決していえないが、少なくとも昔よりは良い。


学校を舞台にしたものも、なんとなく好きになれない。

2015年3月24日火曜日

ノイローゼ侍

人を殺してはいけない

道徳の問題ではない。刑事法の問題でもない。人を殺してはいけない。

答えはずっとシンプル。

同系類の生物死滅に対する警戒や嫌悪感は、哺乳類として自然な反応であるし、それが鈍くなっていく群れはやがて地球上に存在しなくなるからだ。

だからアメリカは軍事技術を開発し、兵士が良心の呵責を感じず敵の兵士を殺害できるようにしている。

では我が国が明治のご一新以前の、野蛮な軍事政権下にあった当時はどうだったのか。

その一端を分析したのが、『武士道の逆襲 (講談社現代新書)』である。

何年も前に読んだのに、いまだに時々再読してしまうぐらい面白かった。キャッチがいい。大和魂は武士道ではない、と。

戦闘者の思想

死ぬことと見つけたりの、武士道を、丁寧に読み解いている。

中で印象に残っているのは、戦闘者としての武士のありかた。近代的な自我など、一切相容れないところだが、戦闘者としての特異な思考がそこにある。

結果を受け入れるために、修練するというのだ。強さがあるかどうかなどは、問題がないと。

日夜欠かさず弓馬武芸に励み、ひとたび事あれば、即座に戦えるようにしておく。そうしておくことで、敗北し、死ぬことになったとしても、全力で生き抜いたのだから、悔いがない。

そういうことを潔さとして、美学にする。

後年の新撰組が掲げる局中法度の「士道に背く間敷き事」の、士道とは、まさにこの潔さの有無にかかっている。

つまり不名誉ならば、いきながられて、恥を忍ぶなど、許されないのだ。そうならないための、日々の修練であったし、覚悟であったのだ。

落ち武者の霊は怖くない

日々、訓練をして、殺されることもやむなしとする。その瞬間まで、精一杯生きる覚悟を固める。

それが武士の本懐であるのだとしたら、勝手も敵の恨みに怯えることはない。お互い、名乗りあって、正々堂々ベストを尽くして殺しあったのだ。供養はするが、それ以上、恨まれる筋合いはないというものである。

当然、武士は武士以外を殺害することを前提にしていないし、江戸時代に、切捨て御免の特権を与えられたといっても、形式ばかりで実際の発動はほとんどなかったという。

そうだとするなら、番町皿屋敷は実は滑稽なのだ。お菊さんに迫った挙句、皿破損容疑で殺害する。そして今度は、その亡霊に苦しめられる。

武士道的に完全にNGである。権威でもって、女性に言い寄る。振られた逆上で、容疑をかけて殺害する。最後にその亡霊(良心の呵責)に苦しむ。もう完全にスリーアウトである。

非道な武士が苦しめられる。怖い反面、溜飲を下げる思いで、江戸時代の庶民は見ていたのだろう。武家階級は尊敬の対象ではなくなった江戸中期に、人気を博したのは当然である。

また夏場になると、西日本で目撃されがちな、平家の落ち武者の霊。

甲冑を着て、血まみれで、源氏と縁もゆかりもない我々を呪うとかいうが、実はこれも全然アウト。

平家物語が公家たちに愛されるよう、琵琶法師が結構叙情的に語っていたことに、イメージが増幅されている。

後の鎌倉幕府の御成敗式目が潔さを美徳としていたのに対して、平家全体が全然武士団として統制されていなかった。

だから、負けるんだろ? 怨霊を見かけたら、そうも言いたくなる。ましてや源氏政権は滅びたし、その子孫たる徳川幕府も倒されて、日本は今や民主国家になったのだ。

投票にいって、現行政権を支持するかぎり、平家に恨まれる筋合いはない。

ノイローゼ侍や、怨霊になるような未練がましい武士など、到底風上においておけない。

「お化け」で検索したら、女性の幽霊が。小噺を思い出す。
旦那に殺された奥さんが、閻魔大王に復讐するから幽霊にしてくれと頼む。
閻魔さんは彼女の容姿を見て渋る。幽霊は美人でないと。。。
隣で聞いていた鬼が一言。「化け物にしてもらえ」

2015年3月23日月曜日

バッドテキスト

業者もよろこぶ同人誌

古本屋が集って、古本市が立つ。そういうイベントに出かけてしばしば見受けられるのが、古い同人雑誌である。

同人雑誌といっても、あのテのものではない。今の言葉でいう「活字本」である。

テキストをどういうやっつけ仕事なのか、間延びした字送りで読みにくくレイアウトして、紙だけは厚めの上質紙を使い、扉にも高級な色上質を入れていたりする。(クロス貼りの表紙はなかなかみたことがない)

装丁の期待とは異なり、テキストそのものは、話題が散漫な随筆であったり、歳時記の引用見本のような俳句が並んでいたりする。

とても市販できるようなものではなく、同好の仲間を集めて、刊行するまでを楽しんだものなのだろう。清算までに、印刷や製本業者も楽しんだはずである。

付き合いで、こんなものを買わされた日には目も当てられない。

読ませることと、書くことを秤にかけて、均等にならなかったものをつづっているのだから。


文学について何もご存知ないのね

雑誌編集をしている人から聞いた話。

地方のちょっとしたお金持ちのご妻女が、文学作品を自費出版され、そのインタビューを地方紙に載せるという案件があった。

そのために話を聞く。長時間、座らされた挙句、話題をまとめようとすると、いちいちご妻女は食ってかかるのだ。

「あら、あなた文学について、何もご存知ないのね?」

そう呆れて、また一から文学的表現とか、ほとんど精神世界に近い講釈を聞かされたとのことであった。

もちろん、帰ってからも、入稿までに艱難辛苦の長旅であったとのことであった。

文学、というと、結構、高尚なことをしているような錯覚を覚える。科学。医学。哲学。文学。物凄く、深淵なことをしているかのような。

ところが文学というのは、実は代用表現なのだ。

明治時代、musicを翻訳する際に、音の美を創作、鑑賞すること総称して「音楽(音を楽しむ)」という言葉を充てた。

同様にliteratureを翻訳する際に、適した日本語に挙げられたのは「文を楽しむ」というコンセプトで「文楽」であった。

しかし「文楽」はすでに、江戸時代に”文楽(ぶんらく)”と発音して、別ジャンルを確立されていた。

そこで同時期に入ってきていたphirosophyを翻訳するときに、「哲学」と翻訳したように、「文学」とした。

だから、文学とは哲学のように、活字メディアを媒介することが多いが、哲学のように思索を旨とするようなものではなく、伝達・表現され、鑑賞されるものなのだ。

表現され、楽しまれることにおいて、初めて成立するものである。鑑賞者がなければ、自宅でギターを弾いたり、湯船で肩までつかりながら、歌っているのと同じである。

もっというと、音楽が高尚であるか否かという問いは成り立たず、高尚な音楽と、低俗な音楽とがあるという多様性の事実同様、文学というジャンルにも、それが当てはまるだけのことなのだ。

自分も編集の仕事をしたことがあるが、まずい文章というのは、簡単に見破れる。客観性の欠如だ。表現することに陶酔したか、伝達することを優先したのか。

作り手がどこにフォーカスしたかを、フレームワークのように問いかけたら簡単である。

Q.どこにフォーカスしたか。

A1.少ないスペースだったので、情報量を抑えて、イメージ連想を優先させるため、単語をできるだけシンプルなものに控えた。

A2.最初からこれでいけるという確信があったので、とにかくがむしゃらになって、イメージ通りのものを作った。

どっちが客観的に練られたものかは問うまでもない。

作家が空想家のように思われがちだが、
アポロ11号が大西洋に着水させたのは
ジュール・ベルヌのアイデアを借用したはずだ。
彼なりにちゃんと計算していた。

2015年3月22日日曜日

そんなにかゆくない背中

かゆくならなければならない

 スマートフォンまで、とても使えない。年配の人がそうぼやくのをよく耳にしていた。

 言葉の真意は、分かる。

 携帯電話(ハイビジョンまで見られるのに、フィーチャーフォンとか、ガラパゴス携帯電話などと、あっさり悪く言われるようになったモノ)を、やっと入手して、目を細めてボタン操作できるようになったと思ったのに、ボタンもないようなものを、また一から習得しないといけないのか、という嘆息。

 そのスマートフォンが安くなるとか、安くなったとか、osが新しくなって、沢山の機能がついたとか。

 実は情報過多なのではないか。

 windows95の日本語版が発売されたとか、macのosxやi-phoneの新バージョンがアップルストアで買えるとか。そんな当時の感覚で、ニュースを提供しようとしているが、実際はそこまで新しいものに、消費者が飢えているわけではないだろう。

 ユーザーも純粋に利便性や、経済性を考えているわけではない。

 本当にそれを考えているなら、Firefoxosが個人レベルで開発できて、軽くて安いという魅力はもっと知られるべきだし、chromeosの価値を、単価や起動スピードで判断されるべきではない。

 メーカーの意向と、用途の妥協点を見出していくのが、実際なのではないか。完璧に便利なIT機器など、存在しないのだ。

簡単に作れるブログ

 googleが提供する無料のブログサービスが、このblogger。

 「gmailのアカウントを持っていれば、色々できる」のうちの、代表的な一つである。

 ベータ版から使っていて、どんどん高性能になっているが、一番気に入っているのはメール投稿機能である。

 通勤電車など、移動中にふと思いついたことを、メールでこのブログの下書きスペースに投稿する。

 入力ページにそのまま反映されて、テキストを書き始めることができる。

 メモを紛失することもなければ、帳面を持ち歩く必要もない。外から思いついて、自宅の机にメモを貼っておくようなものである。

 簡単に操作できるから、あとはひらめくのを待つだけだし、ひらめいたことを、メモ帳を探している間に失念してしまうような、恐れはない。ビル・ゲイツのいう、”思考スピード”に追いつけるのだ。

 ところが実際は、あんまり使い切れていない。

 たまに思いついて、下書きメモを送信するが、ほとんどは思いついたことをデスクトップに書き出してから、まとめたりする。

 便利であり、使い方も熟知している。しかし実際には過剰なサービス。

 ふと手元を見ると、本当にこれが欲しかったのか、不安になるようなものだ。(バートン版の『アラビアン・ナイト』をそろえ終わってしまった時の喪失感という、パラドックス)

 本当に便利なものはなんだったのか。

 古い世代のいうような、洗濯機やカラーテレビのように、日常を一変させてくれるようなものは、少なくとももはやITに期待してはいけないのではないか。

 かゆいところに、手が届くような、細やかなサービスや機能が、もはや実現しているのなら、実はもうかゆいところなどないのだ。

一番いい色のビーズを素早く見つけるなど、
そもそもできない話なのだ。


2015年3月20日金曜日

つまらなくなりたくない

ダブルアクション

 チャールズ・ブロンソンが西部劇の中で、拳銃を撃つ際、撃鉄を親指で起こさず、続けて撃った。

 実際にはダブルアクション(引き金を引くだけで、撃鉄が自動的に持ち上がる・落ちるという、二つ)は、ずっと後に開発される。

 そのため、ブロンソン以前の西部劇では、保安官やギャングたちは連射する際には、ちゃんと左手で撃鉄を起こしている。

 だから、実際にはブロンソンだけが、リアリティのないアクションを見せているのだ。

 現代制作された西部劇で、左手で撃鉄を起こしていると、演出に感激してしまう。監督のこだわりが胸を打つ。反面、チョー・ユンファみたいに、親指で撃鉄を起こさないで、連射していると、馬鹿にされた気分になる。


殺陣

 刀の曲線はうまくできていて、対象物に対してちゃんと刃筋を立てれば、意外と簡単に切れる。もちろん、訓練をすれば、沢山素早く切ることができる。

 訓練がなくても、刀身の重さを使えば、切れる。

 もっとも切りやすいのは、切っ先三寸。先端から9センチ。遠心力を使って、刀身をぶれないように当てれば切れる。

 だから、時代劇やハリウッド映画の中を見ていても、少し戸惑うことが多い。

 切っ先が真上に立っていたり、めちゃくちゃ近い間合いで、切っ先三寸を使わず、刀身の真ん中をチャリンチャリン叩き合わせるのを見たり。

 切り合いをしているのではなく、切り合いの予定調和を演じていることに、ストレスを感じてしまう。

 皮肉なもので、ウェスタンにしても、時代劇にしても、マーシャルアーツにしても、面白くてみて、詳しくなってしまう。しかし詳しくなって、返ってつまらなくなったり、粗を見いだして、ストレスを感じたりしている。

 一体、この矛盾はなんなのだろうか。本心はつまらなくなりたくないのに、自分だけが色あせたものを見せられたような気分。道楽に、悩んでしまう。

マカロニ・ウェスタン時代のイーストウッドはもはやフリー素材なんや。。。
彼の出世作『荒野の用心棒』は、黒沢明のリメイクでうんたらかんたら。

2015年3月18日水曜日

我慢して食え

まずいハナシ

外食にあまり期待していない。

コストがかかるからだ。(一定の品質を保つための、流通のコスト。機会損失に備えた製品の確保・保管コストなど)

これらは全て、客の財布から出るのだ。まずくて当然。

旨いものを、安く食べようなどと、浅ましく考えてはいけない。

だから、口に入れて、不愉快にならない程度のものが出てくれば上等である。

本当はコーヒーは、格段に安くて、格段においしい飲み方がある。

だが、採算が採れないから、めったに飲めない。日常はタレントが広告している缶コーヒーを分かったような顔をして飲めばいいのだ。

正直、外食産業に何一つ期待していない。期待する気になれない。

ところが、立川談志は怒った。

まずい上に、高い定職屋に入ったときのこと。

店の主人が厚かましくも、色紙を持ってきて、サインをしてくれ。店に飾らせくれと言って来た。

彼は一筆書いて、手渡した。こう書かれていた。

「我慢して食え」

率直な意見だろう。店に入って、この色紙があったら、なるほど観念する気になる。

あきらめろ。じたばたするな。どうせ、何頼んでもまずいんだ。我慢して食え。なんとストレートの名言か。

大手のハンバーガー・チェーンが決算で大赤字を出したらしい。百円以下の原価のものを、百円で売るという、涙ぐましい努力までしていたのに、色々と報われず、この結果である。ざまはない。

安いから、我慢して食わされる、客の身にもなってみろと、ふと思ったりした。同情の余地はないだろう。旨いものが、安いわけがない。


写真素材ののタイトルは「サンドウィッチ」。
では、あの薄いパンにはさまれたものを、なんと呼ぶんだろう。
こんなに大きなものを片手に、ポーカーなどできるか。

2015年3月17日火曜日

天使の憂い

サイゼリアで気付いたこと

 サイゼリアで店内に飾られたいくつかを見ていて、ふと気になった。


 全然知らないわけではない。何度も見ている絵であるが、タイトルすら知らなかった。見ていて、物凄く気になった。

 クピドとプシュケ。ウィリアム・アドルフ・ブグローの作品である。


 森永製菓のエンゼルパイのモデルになったのが、確かこの絵画だったのではないだろうか。
 それぐらい、天使=神の使い=ラブの象徴=ラブ&ピースという連想をさせるものとして、日本では定着している。

 天使といえば、フルチンの男の子で、女の子にキスしないといけないのだ。毘沙門天みたいに、甲冑を着て悪魔を踏んづけるミカエルみたいなのは、ウケない。

 何が気になったのか。

 ふと、女の子として描かれるプシュケの表情である。ギリシャ神話のストーリーも、詳しく知らなかったが、プシュケの表情が、どこか憂いを帯びているように見えたのだ。

 この絵を、子供のじゃれあっている姿として、微笑ましく鑑賞してきたつもりだが、よくよく見ると、プシュケの顔半分はひどく暗い。

 クピドの向こうを向いた表情は分からないが、強く愛情表現をして抱きすくめようとしている。

 それに対してプシュケの骨盤は傾き、肩も左を前に押し出している。この体勢でクピドの抱擁が解ければ、腰から下に落ちるだろう。

 決してクピドの腕や胸に、すがりついたりはしない。

 つまりプシュケの姿勢が表現しているものは、拒否である。そしてその表情はひどく、憂いを帯びたものである。

 男性の熱烈な愛情表現に対して、いささかそれを持て余した女性の本心。

 あとでストーリーを知ったが、シンデレラみたいにキスで目覚める、大事なシーンであるにも関わらず、何やら意味深な表情なのだ。

 そう思うと、最後の晩餐に、マグダラのマリアが描かれていようがいまいが、ダ・ヴィンチがMの文字を隠したかどうかは、ちょっとこじつけすぎてつまらないよう気がしてくる。

 男がいくら思っても、美しい女性はそれに感激していると思ったら大間違いである。むしろ相手を傷つけないように、見えないところで倦んだ表情を見せている。それをブグローは捕らえようとしたのではないか。

 そう解釈したほうが、この絵は俄然面白い。

2015年3月15日日曜日

探検家の失恋

失われた世界

ドイルにとって、ホームズ作品はいわば規格外のコンセプトであった。

メインはロマン派の伝統を継ぐ、歴史小説を書くことであった。

だから、『緋色の研究』や『四つの署名』 など、初期のホームズものには歴史事件を題材にしたものが多い。(日本で、しばしば埋蔵金などの歴史ミステリは、このドイルの形式が原型である)

そうした中で、冒険に特化した作品『失われた世界』は、冒険小説の嚆矢だろう。

チャレンジャー教授が発見したという、恐竜が生存しているというアフリカの秘境に行くというストーリー。

映画化も何度もし、タイトルはスピルバーク作品の原型になった。

主人公の新聞記者は、チャレンジャー教授に最初に取材にいくのをびびるが、恋人につまらない男だといわれて、一念奮起して出かける。

そこでチャレンジャー教授の探検隊に参加して、功名を立てようと志すのだ。荒唐無稽な設定だが、古典的な冒険要素はぶれていない。

そして冒険のすえに、ロンドンに帰ってくるが、恋人は別人と婚約していた。相手は銀行員であるという。

野心と、功名心とは、かけ離れた、安定収入と将来設計が魅力の優しい人だから、結婚を決めたと。

何のための冒険やったの。。。というオチ。結局続編を匂わせるような終わり方で、ホームズほどのファンはつかなかったらしい。

しかし注目すべきは、銀行員に対する見方であろう。冒険する銀行員。ばかな。損益分岐点を見極められるのが、本分であって、原住民とともにジャングルを分け入るスキルなど必要ない。

冒険者と銀行員は、相容れない職業なのだ。

そしてドイルが描こうとしたのは、産業革命以降の、経済社会によって『失われた世界』であったのだ。

銀行員ヒーロー


90年代の高杉良原作で映画化された『呪縛』。

金融業界の裏をえぐりとったとかなんとか、騒々しいキャッチの割りに、仲代達矢と役所広司の師弟対決以外、大して見るものもなかった。

その点では、去年の倍返しする人のほうが話題にはなっただろう。

復讐。愛憎。トラップ。ドラマの基本要素をとりながら、何か物足りないと思っていた。

何が足りないのか。失われているのか。

そう思って、気がついた。そうか。自分はチャレンジャー教授の側だったのだと。

願わくば、功名心に今頃になって、取り付かれないことを。いまさらながら。w

恐竜のおもしろ写真を探してたが、
クトゥルーみたいなアンモナイトのインパクト以上のものはなかった。

2015年3月14日土曜日

ネズミ男は憎めない

ほとけの先生

 穏やかな人柄と、執拗な研究熱心さで周囲に慕われる先生がいた。”仏の”と冠をつけて語られることもある人で、底抜けといっていいくらい、優しい人だった。

 鉄拳制裁も辞さないぐらい、強面の先生に見つかるより、この先生のお目こぼしに預かればと、競って、この先生の授業を選んだ。

 学生時代はその程度の関わりであったが、卒業後、その先生が寄稿されたものをみた。

 この先生にも、かつて師匠と仰いだ仏教美術の研究者がいた。日本のその学問の体系化は、その人によって始まったといっていい。

 しかし晩年、認知症によって、手ひどく当たり散らされたばかりか、周囲に誹謗中傷を多く語られた。それでも、その先生の最期を看取ったという。

 人間が老いさらばえていくとは、どういうことなのか。それを先生は身を以て教えてくださった。そういうことが語られていた。

人当たりがいいだけ

 その一文を読んで、その先生がますます好きになった。ちやほやと、愛された人間が、のほほんと人々に愛を施すようなものではない。

 路傍に倒れ、辛酸を舐めて、額をかかとで踏みつけられてもなお、人々に慈悲を示そうとされるような気高さを感じる。

 しばしば娑婆で、自分が人当たりがいいように言われると、面映い反面、実は恥ずかしい。あの先生に比べれば、上っ面だけの軽薄な、お人好し加減を見透かされそうで、自分の卑しさを一層糊塗したくなる。

 人当たりがいいだけの人間も、沢山見てきた。受け答えが明瞭だが、大した考えも無く、その場を取り繕うだけで、何かを為しているつもりになっていた。

 彼らにしばしば額を踏みつけられる。背中や肩にのしかかられる。

 それでもなお、慈悲を示せるのか。本心では信用できていないと知っていることを、誰よりも自分自身で知っているくせに、それでもなお、慈悲とはなんであるかを示す覚悟はあるのか。

 ネズミ男は相手が人間だろうが、妖怪だろうが、それらしいことを言って、その場の者を説き伏せる。だが、結局は鬼太郎たちに厄介になる。

 ネズミ男は憎めない。だが、一部たりとも愛してはいない。そのことに自分で気付いている鬼太郎は、それでもネズミ男を嫌悪しない。

 まだ自分も、その程度なのではないか。先生ほど、慈悲とは何たるかを、示されるほどの修練はできていない。

ネズミのビジュアルはちょっと。。。

2015年3月12日木曜日

君は何を煩悶するのか

フランスの小話

確か、山本周五郎の随筆にフランスの小話として紹介してあったかと思うのを、ずっと記憶している。

タイトルは『君は何を煩悶するのか』。

君は何を煩悶するのか。問題があるとしたら、それは二つだ。

君が健康か病気であるかだ。

健康であるなら、それで問題ない。しかし病気であるなら、問題は二つだ。

その病気は治るのか治らないのか。

治るなら、それで問題ない。しかし治らないのなら、問題は二つだ。

病気によって死ぬのか、死なないのか。

死なないなら、それで問題ない。しかし死ぬのなら、問題は二つだ。

死んだあと、君は天国にいくか、地獄に行くのか。

天国にいくなら、それで問題ない。しかし地獄にいくのなら、問題は二つだ。

と、ここまで聞いて、そもそも君は地獄なんてものを信じているのか? 信じていないのなら、君が煩悶することなど、何もないんだよ。


雲散霧消するロジック

以下、蛇足。

この話のいいところは、問いつめ、思い詰めた挙句が、あっさりと、問題点を消失しているところだろう。

思い悩むことがあったとしても、しばしばこの話を思い出して、気持ちが軽くなることがある。

そもそも、そんなに深刻なことは起こっていないという事実を忘れて、衝動的に偏った見方をしてしまう。だから行き詰まる。

普通、行き詰まらないように、柔軟に考えようとするのに、ここでは反対に問いつめる。

問いつめた結果、まるでタマネギの皮を剥き続けたように、本来あるだろう答えが無かったことに気付く。

禅問答の中に似たような話がある。

悩み苦しむ弟子が、師僧に訴える。悩みが消えないのを助けてほしいと。

師僧は包丁を取り出し、一言、応える。

「悩みをここに出してごらん。二度に悩まされないように、切り刻んでやろう」

弟子はあっと、悟ったという。

小難しい、仮説と証明、反証ではない。一回、クールダウンしよ?

沢山の名言より、シンプルな言葉が実は強いのではないだろうか。


多分、鎌倉の大仏さん。
鞍馬天狗の作者大佛次郎はこの近くに住んでいた。


プラトンとブッダ

同時代


ビートルズが流行した後、日本でもグループサウンズが流行した(らしい)。

16世紀スペインのフェリペ二世が、地球を分割統治しようと計画して、大航海時代を迎えるが、その後を追うように豊臣秀吉は朝鮮出兵を行っている。

アラビアン・ナイトやイソップ物語の中にあるお話が、インドではブッダの前世譚(ジャータカ)に含まれていたりする。

十字軍遠征の頃、ヨーロッパでまことしやかに信じられたのは、インドにいるプレスター・ジョンの伝承である。インドにあるだろうキリスト教国の王、プレスター・ジョンがイスラム教徒を挟み撃ちにしてくれると。

しかし実際は仏教を守ったアショーカ王が誤って伝えられていたことが判明し、バチカンは聖人の列からプレスター・ジョンを外す。

世界は古代からつながっていたのだ。

インターネットほどのスピードはないが、すでにリンクしていたと考える方が自然なのではないか。

お釈迦さんのモデル

ガンダーラ美術の仏像の中で、面白い御釈迦さんの像があった。

明らかに右ひざが膨らんでおり、歩き出そうとしていたのだ。

その説明として面白かったのは、プラトンの絵画表現が同じように膝を持ち上げているというのだ。

そんなばかな。プラトンよりソクラテスのほうが、お釈迦さんに近い年齢であったのではないだろうかと。

しかし仏像が作られたこと自体、アレクサンダー大王の東方遠征で、ヘレニズム文化がインドに流入したことが起源である。

仏教の守護神執金剛神が、棍棒を持っているのはヘラクレスを原型にしているためというのは、自然なのだ。

お釈迦さんだけ、哲学者としての表現にプラトンと似ていておかしいわけがない。いや、もっというなら、袈裟の衣装も彼らの衣装に近い表現が原型だったのではないか。

インドでは後に、骨格標本のように苦行するお釈迦さん像が多く制作されるが、それと反対に、各地に普及したのは、ゆったりとした衣装のお釈迦さん像だったのではないか。

 「お釈迦さんのビジュアル表現のアイデアは、プラトンを原型にしてるんやで」。

そういう説もある。なかなか信じてもらえないけど。

真ん中の赤い服がプラトン

2015年3月9日月曜日

元ネタをたどれば

たとえばピストルズ


 ブルー・ハーツに十代後半は夢中になった。パンク・ロックという響きが大好きだった。

 そこでセックス・ピストルズを聞いた。(なぜか最初に聞いたのはファンが語りたがる、Holiday in the sunではなく、Johnny B. Goode/Roadrunnerというふざけた曲だった)。

 ブルー・ハーツとは曲調は似ていたが、メッセージが薄かった。というか、ほとんど皆無だった。わざと挑発的な歌詞でメディア規制にひっかかり、話題性があったのだろう(このテの商法は今では禁じ手でも何でもないが、ピストルズが嚆矢といわれている)。

 しかしブルー・ハーツがパンクっぽい、フォーク・ロックだとするなら、ピストルズはダメ人間の悪ふざけだった。そこがむちゃくちゃ良かった。

 ルーツを辿ってみると、俄然、ブルー・ハーツよりピストルズに夢中になった。年代的にめちゃくちゃ古かったが、もうブルー・ハーツには戻れなかった。どうしてピストルズを同年代が聞かないで、小室哲哉を聞いているのか、不思議でならなかった。


実篤の行き止まり


 黒澤明の『椿三十郎』が面白かったので、原作を読んだ。原作は大したことがなかったが、原作者の山本周五郎のほかの作品をむさぼり読んだ。

 彼の日記の一節が印象に残った。

「男子一生の為事がやすやすとできると思ったか。馬鹿者め」

 彼の日記に書かれたその一節は、武者小路実篤の言葉だった。三田文学がねむたぁいと感じていたのに対して、実篤ら白樺派はのびのびしていて、特に実篤はダイレクトに響いてきた。

 周五郎より、実篤にシフトして、夢中になった。

 そして実篤が若い頃、夢中になっていたのが、トルストイであった。彼は書店にいって、めぼしい本を手に取る。どのページでも「トルストイ」という文字が入っていたら、その本をお買い上げ。日本のトルストイストの開祖と称されるぐらい、トルストイを崇拝していた。

(こうした大らかさは、”しらかば”を並び替えて”ばからし”とも揶揄された)

 さて、トルストイ。

 ハードル高いなぁ。。。

 何度も周り道して、結局読めたのは『光あるうちに光の中を進め』。シンプルな対話形式で、面白かったが、なかなか他は読み進んでいない。

 こうしたルーツを辿ることが面白いのだが、深入りして、ふと思う。有川浩とか、百田尚樹は沢山いるのに、どうして、トルストイを周りで読んでいないのだと。

 やっぱりハードル高いか。。。。


gコードちゃうかと思ったら、そうやった。
今は検索したら、全部わかるんやった。。。

2015年3月4日水曜日

後で読むを一元化getpocket.com

あとでいくらでも読める


ウェブクリップについて、悩まなくなったのは、ひとえにgetpocket.comのおかげである。

ちょっと気になった見出しを、昔はいちいち開いて、ログインしていたevernoteに保存していた。結構、重かったので、電車の中で読もうとしても、無駄に待たされて、乗換駅についてしまうということもあった。

(evernoteはそもそも、何でも記録せよといって、有料のメモリを売りつけすぎなのだ)

そこで色々と、ウェブクリップをことを調べ、工夫してきたが、今は何も悩まなくなった。

getpocket.comの魅力は、主に以下の通り。

1.完全無料である。
gmailアカウントなど、メアドさえあれば、とにかく無料。

2.動作が速い。
読み専用なので、とにかく早く、安定している。

3.ブラウザとデバイスを問わない。
どこから、どの端末で、食べかけていようが、お代わりも、食べ残しも自由自在なのだ。


使い方はかんたん


トップページで登録した後、

取り込み設定は二つのどちらか、その両方。

a.ブラウザへ取り込み用のボタンをインストールする。(ブラウザに表示させたものを、ボタン一つで保存してくれる)




b.save to pocket (ブラウザ名)で検索して、ブラウザにアドオンとしてインストールする(右クリックでメニューが出るようになるので、リンク先の本文を保存してくれる)

取り出し方法はトップページから、読むスマホやノートPCを選び出し、インストールしておけばいい。

基本的にウェブブラウザで収集し、スマホで移動中や食事中に閲覧するというのが、便利な使い方なのではないだろうか。

あのとき、ちらっと見た、こんな風な記事、云々と、思い出しかけて結局失念してしまうくらいなら、とにかく取り込んで、後でじっくり読むのも贅沢な方法だろう。

新聞紙を細かく折りたたんだり、高額な新聞サイトの購読料を支払うより、はるかに安く手軽である。

デメリットを挙げるとするなら、取り込みすぎて、欲をかくとボリュームの多さに途方に暮れることになるという程度。

ウェブクリッピングを収集している感覚がないくらい、簡単に操作できる。

気楽に使えて、濃厚な情報収集が、簡単に実現するだろう。

うっかり間違えて、pocket.comと記憶したら、後からの検索は悲惨。このドメインは何年もの間、comming soon。多分、何にもおこらないだろう。

getpocket!!

(おお、ブログっぽい)

2015年3月1日日曜日

カイゼン

業務上うっかり

 仕事でブログを色々としないといけなくなったので、色々と調べる。調べて色々分かった。

 ブログを書くことに対して、個人で試してきたものの、読ませる意識が低かった。

 見出しや、画像を配置して、それっぽくしたが、結局はテキストを大量に読ませる。ちょっと情報を盛り込みすぎで、省略も多い。読みにくいのではないか。

 というのも、他の人のブログを読む中で、ちょっと難解なことを取り上げようとして、結構論理に飛躍があった。どこをどう省略したのか、考えないといけないのが面倒だった。

 一直線に読んで、お仕舞いにできる記事。ブログらしい。

 そしてショックなのは、自分でラベル(カテゴリ)の設定を雑にしてきたこと。話題の多い人は、カテゴリが豊富ではないか。

 それに引き換え、嗜好の偏食加減。まるでオタクの人ではないか。つまらないブログは、いずれ更新もつまらなくなる。

 何か面白い話題、便利情報など、読むに足るものを書くべきではないか。

改善目標

 「ねこ」の語源は諸説あって、明確になっていない。

よく眠るから「寝子」(犬も寝てるんちゃうの?)

トラのようだから「如虎」(明治時代まで、虎を見たことないのに。中国で名づけられたとしても、発音が違ったはず。

 意外と「にゃーご」が語源やったりしないだろうか。(わんわんも、モーモーも、ヒヒーンも、結局名詞にはつながらなかったから、ちょっとムリがあるか)

 しかし犬が日本の神話に登場するが、猫は登場しない。(鶏や、牛といった農耕文化が、そっくり高天原で表現されているが、そこに猫はいないのだ)ということは7世紀以降、大陸からわたってきたと考えるのが、自然なのではないだろうか。

 というように、読んでみて、なんとなく分かったような話題。雑学。そんなものも、織り込んでみる必要はあるのではないか。

カンガルーの語源は現地アボリジニーの言葉で「分からない」だったのだから、
動物の名詞などいい加減なもんだ。