2015年2月28日土曜日

呪術とライティング

とんちんかんなことを言う人は、偏在する。

こんなことを書いているのを読んだことがある。幕末史を作品の題材にしている、有名作家がいた。彼を褒めそやすための、あとがきに寄稿した内容であった。

その作家が経営者であったなら、間違いなく大事業を展開していただろうと。

ううん、荒唐無稽さに笑ってしまうぞ。

(先行する大佛次郎の『天皇の世紀』ほどではないが)幕末を俯瞰的に描く、分析ができる=社会を分析できる=先見の明がある=経営者であれば、経済的な成功があったハズ。
というのが、主張だろう。

ということは? PHP文庫で創業者の名作が、広く読まれるということか?

やっぱり、あとがきを書いた人はおつむが不自由であったのではないか。

というか、世の創業者を少々小馬鹿にしていないか。

優れた文才があったからといって、彼には文才があっただけで、それ以外に(経済的な話題ばかりになっていることも、卑猥にも似ている)、成功できたというのは、いただけない。

なぜか?

呪術めいて、幼稚だからだ。

つまり文才があっても、それが人徳者であるとは限らないし、詭弁家はローマの共和制を迷走させ、アメリカの訴訟を増やし続ける。孔子はもっと端的に言った。

「巧言令色少なし仁(言葉巧みな人間で人格者はいない)」

古代において、作物に感謝して土地の神を慰撫(国ほめ)するのが天皇の重要な仕事であった。

白居易の新楽府にあるように、市井の歌を理解して、皇帝に民心を報告するのが、宮廷歌人の仕事であった。

歌や詩文を理解するものは、世界を理解するものと考えられた。

しかしこれが、古代だけと思ってはいけない。

明治時代、柴四郎はナショナリズムを鼓舞する小説を書いて名をはせ、衆議院議員に十回当選するにいたる。

(まるでどこかの知事が、若者の習俗をとらえた作品とかいうもので、有名になり、知名度をいかして、当選してしまったようなものである)

硯をすりながら黙考し、筆に墨を含ませて、一気呵成に揮毫するのならば、まさに、作者の性格や癖は出るだろう。だが、出るのは性格と癖だけだ。人格など表現されない。

しかし現代社会において、テキストデータは簡単に作れるし、推敲など意のままである。

素人ほど、自分のテキストを触られることを嫌う。自分の人格の一部のように感じているからだ。

だが、ライターはテキストを触られても、何とも思わない。むしろ歓迎する。自分が完璧なものを書き起せるかどうかより、完璧に近いものになっていくかどうかにしか興味がないからだ。(逆にいうと、素人とプロの、テキストへの取り組み方は決定的にここで別れる)

自分が精魂込めて書いたものなのに、添削された気分になる。否定されたような気分になる。そういうのは素人。

補修をして、自分のテキストをさらにより良くしてくれ、読み手に伝えてくれるのに協力してくれることが嬉しい。そういうのがプロである。

文才があるというのは、逆にいうと、その程度のことではないか。

ある程度、状況を整理できる。それを表現する語彙を記憶できており、変換候補から見つけることができる。あとは手元を見ずに、キーボードで入力できる。

それ以上に、テキストを書くのに、何か特別な能力が必要があるとしたら、眠気に打ち勝つ方法を知っている程度ではないだろうか。

だから、秀逸な文芸作品を書けることと、経済界で成功するととは、何一つスキルとしてつながったものはないし、あるのだという前提自体は、実は思い込みなのだ。

好きなエピソードがある。

白樺派の有島武郎をインタビューした、若い記者が、一心不乱にその記事をまとめた。なんとか書き上げ、校閲も渋々了解し、〆切に間に合い、紙面に掲載された。

しかし、その文章の稚拙さが酷く、社内でも失笑ものであった。

記者は自分の文才に悲嘆し、退社する。そして紆余曲折を経て、彼も作家になり、別の新聞社で連載することになった。タイトルは『宮本武蔵』。

そうである。吉川英治の記者時代の記事はひどかったらしい。

しかしそんなことに構わず、書くことに挑み続けた。いきなり名文を書こうとか、気負っていくことの不毛さの背景に、文才を人格や能力に直結しているのだとしたら、こんな幼稚な悲劇はない。

根性論も、精神論も、現代のライティングの前に不要ではないか。

2015年2月25日水曜日

お城と地面

避難すべきは

 お城に詳しい人と話した。大阪城は高台にあるだけではない。

 実は地盤が頑丈である。大阪のほとんどは河であった。


 そうした中で、古代においては難波宮があったのが上町台地であり、そこにどっしりと、石山本願寺が本丸を構えていた。それを信長が打ち滅ぼし、秀吉が大阪城にしたのだ。

 当然、地盤は安定している。だから、城が築かれたのも、道理なのだ。

 ところがお城だけの話ではない。

 大阪城公園の向かいには、大阪府警本部がある。大阪砲兵工廠という、アジア一の軍事施設があった場所だから、敷地が広大にあったので、それを引き継いだのだと思っていた。

 ところがそれだけではない。大阪に水害や震災など、大規模な自然災害が起こったとしても、実は大阪城と大阪府警、NHK大阪は無事なのだ。

 つまり治安機構と、報道機関が地盤によって守られるのだ。大阪って、よくできてるなぁと思った。ということは?

千代田のお城

 太田道潅が確か設計したのが、江戸城である。徳川家康が禁中並びに公家諸法度を公布してからは、政治の中心は江戸になった。(源頼朝も、足利尊氏も、朝廷に対する立法権を持たなかったために、江戸幕府ほどの強権を得ることはなかったのだ)

 明治維新以降、江戸城は皇居と名前を変えている。

 大阪城と同様、地盤が安定しているために、皇族も安全なのだと思うと、何やら時空を超えたロマンを連想させられる。

 文化と伝統の上に、我々の生活は成り立っているのではないだろうか。

なんか暴れん坊将軍のバックみたいなアングルで撮ったった大阪城




2015年2月24日火曜日

々の読み方


 犬の鳴き声を、狂言では「びょうおう」と表現していたと聞いたことがある。ワンワンではなく、BOWWOWでもなく、びょうおう。

 しかし早口でいってみると、遠くの犬はそう聞こえなくもないような気がしてくる。擬態語の試行錯誤だったろう。

 鴉という字がいい。からす、ではあるが、漢音で「あ」。(yā)

 きっと、カァの母音を表現しているのではないか。(現代の中国語では、第一声のため「やー」と音階はそのまま。カラスの鳴き声なら、第三声が近いのかも)

 実は擬態語であったと考えると面白い。画数が多いくせに、犬のことをワン、猫のことをニャンと書いたようなものである。

々の読み方


 ずっと以前。日々とか、徐々に、というときに使う、「々」という字をどうやって入力するかという話になったことがあった。

 日々と入力して、最初の日を消すということを、無意識にしていた。

 ところが、この「々」。「どう」と入力して、変換すると出てくるのだ。つまり「同じ」という意味からである。

「おなじ」や「くりかえし」と入力しても、同様に変換候補になるらしいが、「どう」のほうが圧倒的に入力しやすい。

 これも音写のイメージなのではないだろうか。

 知らなかったのは「々」自体が、実は漢字ではなく、省略の記号であったということ。日々、とか書いているが実は繰り返し記号交じりということなのか。佐々木さんの立つ瀬がない。

 大正の講談本をみると、「裏山しい」という表現もある。読みは「うらやましい」。当て字が過ぎるが、ライバルの出世を、ひと気のない裏山で何かに当り散らしているような風情か。

 そう考えると、あながち適当がすぎるような気がしない。

 冗句。これなども、名作ではないか。疾風怒濤より、ラフだが、ぴったりな感じ。

2015年2月23日月曜日

主役のシフト

初歩的なことだよ、ワトソン君

 日本IBMが人工知能システム「Watson」の日本語対応するために、ソフトバンクテレコムと提携したと知った。

 アメリカではクイズ番組で人間に勝った人工知能なんだとか。

 いきなりスカイネットにまではならないだろうが、シガニー・ウィーバーが話していた「マザー」ぐらいにはなるのではないだろうか。

 ワトソンという名前がいい。相棒の代名詞ではないか。

「Elementry,my dear Watson(初歩的なことだよ、ワトソン)」

 シャーロック・ホームズの名台詞というべきだろう。人工知能を使う我々が、ホームズ気分で語りかけるとは、粋なアイデアではないか。

 そう思っていた。ところが違った。

 IBMの創業者トーマス・J・ワトソンから取ったということらしい。おもんな。

「やっちまいな!」のルーシー・リュー

 キル・ビルで日系やくざの組長役をやっていたルーシー・リュー(チャーリーズ・エンジェルで例えてもよかった。。。振袖を着ているのに、袖をくくらないから負けてもてるやん)


 彼女が『エレメンタリー ホームズ&ワトソン』というテレビ・ドラマで演じたのは、ホームズのヘルパーであるジョーン・ワトソンという設定。もちろん現代のニューヨークを舞台にしている。(カンバーバッチの『SHERLOCK』とはエラい違い)。

 本来、ホームズが主役なのに、このドラマではワトソンのほうが存在感を増しているのだ。外科医だったが、医療ミスを起こしてから、一線を退いてしまったという、陰のあるワトソン。

 ホームズを引き立て、彼の活躍をストランド・マガジン社に寄稿している記録者という、地味な役割ではないのだ。

 主人公を際立たせようとして、しばしばこうした主役のシフト現象が起こる。スパイダーマンのブレイドであったり、猿飛佐助の霧隠才蔵であったり、ウォレスとグルミットのショーンであったり、キン肉マンのラーメンマンだったり。。。例を挙げるに事欠かない。

 いや、そのうち、人工知能ワトソンの語源は、ホームズの相棒という説が流布するのではないだろうか。

 基点はどうあれ、その方が絶対に楽しい。

(ちなみにシャーロック・ホームズはここで、無料で全作品読める。電子書籍のロムを昔買ったのはなんやったんや。。。)

2015年2月22日日曜日

TEDに一票

 技術と、娯楽とデザインと

 地上波に飽きたときに、見るのが、TED である。

 (Technology Entertainment Design)の略で、カリフォルニアで行われる世界的講演会。その動画が一般公開されているが、内容が多彩で飽きない。

 社会問題や、医学、芸術論、色んなジャンルの研究者や人気ドラマのディレクターなどの講演をまとめたもので、いずれもプレゼンター自身が、ユーモラスで見せる工夫をしている。

 日本では唯一NHKが、スーパープレゼンテーションという番組名で放映していた。(動画に、日本の権威ある人のコメントを付け足して番組とかいっている。我々の受信料はこうした箔をつけることに有効活用されてるのだ!)

 サイトでは字幕も多く、安心した内容で楽しめる。(最近みた中で面白かったのは、世界で一番退屈なテレビ番組がやみつきになる理由 「想像力をオープンソース化するArdurino」である)


 権威ある研究者が研究の一端を、我々凡人に分かりやすく、噛み砕いて啓発してくださっているのではない。


 課題の見つけ方やヒントは素人じみたアイデアである。しかし内容が濃厚で、前提をひっくり返してしまうことすらある。そのことに純粋に、楽しみを見出している健全さがいい。

 昔はよかったなどと、年寄り臭い講釈を垂れる友人がいると、このサイトを例に反論してしまう。

 web環境さえあれば、いくらでも、字幕付で、こんなに面白いものが、好きなときに見られるのに?

 インターネットどころか、ビデオテープが四六版ハードカバーみたいな大きさで二時間しか録画できなかった時代に? 米ソ冷戦時代の? 自民党一党独裁(今も?)で? 眉毛と肩パッドがいかつい女優に詰め寄るのが、トレンディとか言っていた時代の方が? よかったって?

 マジか。。。そんなワケないやろが。

2015年2月21日土曜日

フリースタイル武蔵

武蔵をめぐるエトセトラ


 歴史小説のなかで、有名な剣豪といえば、宮本武蔵を挙げることができるだろう。柳生宗矩や、上泉伊勢守信綱、塚原卜伝など、当時は有名だった人物たちも、はるかにマイナーだった武蔵のほうが、現代では有名である。

 ひとえに吉川英治の作品のおかげである。彼の前に講談で語られる武蔵など、父無二斎の仇である佐々木厳流を倒す、ちゃっちいキャラでしかない。

 実は伝承が圧倒的に多く、正確な資料がほとんど残っていないというのも、特徴的で、そのため名人、非名人説が昭和初期の作家の間に広がった。(この論争こそ、『鳴門秘貼』などでメジャーになっていた吉川英治が、連載するきっかけになる)。

 さらに特異なのが、武蔵自身の著作というべきだろう。

 およそ後世、開祖と呼ばれるカリスマは、著書をほとんど残さなかった。柳生石舟斎宗厳は多くの短歌を残したが、叙情的で論理性に欠く。伊藤一刀斎も著作は残していない。

 近代、合気道の開祖植芝盛平翁すら、多くを語らず、弟子たちが言行録をまとめる。その師武田惣角にいたっては、伝聞の集積から推測するしかできない。

 つまり弟子たちの中で、インテリな人が師匠の言行や指導をテキストに残すのが、通常なのだ。

 それなのに、武蔵は違う。

 五輪書しかり、独行道しかり、自筆で弟子たちに熱く語りかける。

 その姿勢を押し付けがましいとか、自己主張が激しいと批判された。しかしそれは見当違いで、実際のテキストを見ると、他の開祖たちが太刀の持ち方や、構え、目のつけ方など、微細なアドバイスをしているのとは対照的である。

「他流には型だとか、構えとかいうが、実践でそれにとらわれていては、勝てない。定義にとらわれず、常に工夫しろ」

「武器にはそれぞれの特性がある。よくよく観察して、いつでも使えるようによくよく工夫しなさい」

 結局は形式に捕らわれず、実をとって生き残れというメッセージにあふれている。

 刀(かたな)の語源が、「片刃」+「薙ぐ」であった。

 このことを知っていれば、もともと刀は片手で扱うものであったことは道理だろう。武蔵自身はそのことを体感していたらしく、両手に太刀と脇差をもって戦えという。

 それは負けて、重症を負ったり、不名誉な結果の清算で自害する用に、脇差を残していくという、形式を嫌悪したものである。全力で戦いぬけというのだ。ワイルドである。

 刀は片手で扱いやすいものである。(実際、刀のフォルムは薙ぎ切ることに適しており、腕力だけで、型通りの位置に止めようとすると、相当な修練を必要とするが、切る動作だけなら決して複雑ではない)

 それを全て出し切って、戦いぬけ。

 面白いのは、早く振ることが至上命題ではない。正確にさばき、斬れというのだ。これも現代人から見ると奇異なテーゼである。

 しかし実際の鉄と鉛でできた合金を、時代劇のようにくるくる回せるわけがない。アルミ製の刀でないと不可能だろう。

 そのせいか、二天一流の演武は能のような、抽象的な動きで、派手さに欠く。だが、地味に手首の裏をすくうように絶つなど、野趣にあふれた内容である。

 五輪書。しばしば、観念的な読まれ方をしがちだが、それこそ武蔵が嫌った形式主義である。工夫しろ。そのために伸びやかであれ。

 テーマはシンプルだったのだ。観念としてはそれ以上のテーマはなく、廃刀令以降の我々にとって、あまり役立つ本ではないが、一つの哲学として価値は高い。

 伸びやかにならねば、という気分にさせてくれる。

残った画像が井上雄彦のバカボンドとは似ても似つかないから、
おとろしいのだ。もちろん、三船敏郎や萬屋錦之介とも似つかない。。。

2015年2月20日金曜日

ナイトメアは棚卸し

夢の神秘

 夢でみる風景は、何やら啓示めいたものを感じさせる。

 古代においては、生殺与奪はもちろん、夢告によって文化が育まれてきた。

 また夢は余りにも臨場感があるために、平安貴族は恋愛対象が夢にまで逢いに来てくれたという都合のいい発想になる。

 チベット仏教のゲルク派では、師の僧侶から伝授を受けた晩に見た夢は現実になると信じられている。

 これらを軽視することは許されない。合理的な近代医学だって、最近までユングの集合的無意識という、オカルトめいたものを最近まで信じていた。(というか、信じている人も少なくない)

 夢に何か大きな意味を見出すのは、自然な衝動だろう。

 しかし目下、有力な説としてあげられているのは、記憶の整理である。日中の情報でも、脳が長期的な記憶として保存すべきかどうかを、取り出して、検査しているというもの。

 皮膚が再生するなど、身体の代謝が行われている間、脳も記憶を整理しているのだ。

 そう考えれば、睡眠時間が短いと豪語する人は、冷静に沈思黙考するタイプではなかったし、意外とせっかちで、複雑なことを極端に嫌悪していたような気がする。

 じっくりと考えるには、メモリの余裕がないといけないのだ。


デフラグ


 夢と分かっている。以前勤めていた会議室で、自分がwebに関する単語をボードに書いた(何かは思い出せない)瞬間、一斉満場の批判を浴びた。

 一般的な言葉を書いたのに、パソコンを余り使わない人たちが多かったことへの配慮がないと、言われた。あんまりな物言いに、いらっとして、言うべきではないなと思いながらも言い放つ。

「だったら、yahoo(インターネット検索サービス)とまで、書くべきなのか」

 言ってから、目が醒めた。後味の悪い気分である。

 だが、何か類似の記憶や、感情を整理するために、脳が取り出して、片付けたのではないか。

 そう思うと、にわかに気持ちが楽になった。

 ここにことさら、意味を考えると厄介である。勤めていたところでの葛藤が、まだ解決していないのではないか。会社への不満が夢で顕在化したのではないか。いや、幼少期のトラウマが。。。

 そんなことはない。

 ただの記憶の断片を、整理したのではないか。いわば、脳のデフラグだったのではないか。

 試しに自問してみる。

 あんなに思い出せなかった、『五輪書』は本棚のどこに片付けたか。

 次の瞬間、瞬く間に思い出せた。翌朝思い出して、みると、確かにその位置にあった。

 集合的無意識とか、お告げとか、深層心理とか、あんまり信じない。一つの説としては面白いが、仮説にすぎず、結論としてはぶれ幅が大きすぎる。

 むしろ脳が記憶の棚卸しをしているのだ。

 何か意味がある、という想定自体が、実は夢を意味深にしているのではないか。

2015年2月18日水曜日

民俗学的死者の国

出雲

 出雲大社は大国主命(おおくにぬしのみこと)を祭る。

 彼は天津神に国を譲り、現世(うつしよ)のことは彼らに。自身は死後の世界「幽世(かくりよ)」を司ることになる。

 このために出雲大社は死後の世界を司る社となる。

 イザナギが死んだ妻イザナミを黄泉の国から、連れ戻すことに失敗し、別れる場所となった黄泉比良坂(よもつひらさか)も出雲にある。

 出雲 is dead.なのだ。

 ところが中世には新規参入が現れる。和歌山県の熊野である。クマさんが沢山いたのではない。木々が「こんもり」していたこと=死者の霊は山に登って雲になると考えられていた=死者が「こもる」=霊験あらたかなパワースポット。

 と連想が広がり、一代ブームになる。

 熊野 is dead.

 ところがところが。

 今度は中世から、近世江戸時代。

 四国が新規参入である。本州の向こう岸=彼岸(仏教では悟りに至ることを、川をわたった先の向こう岸と表現していたが、檀家制度の中で悟り=死後の世界という飛躍が定着した)=死後の世界=うわお、しかも死国って書いて同じ読み方。。。

 お遍路が整備されていくことも、リンクして、四国は死後の世界というイメージが膨らんでいく。

死の商品化

 下世話な話。

 出雲大社は京都の大極殿や、奈良の東大寺よりも高く作られていたという。それを建築するだけの遺跡が発見もされている。当然、経済的効果も大きかっただろう。

 また熊野に至っては、民間の信仰が流行して、後白河法皇まで何度も参拝しており、一大アトラクションになっていただろう。

 四国では現代まで八十八カ所が伝えられているが、民間の代参も多く経済効果は高かった。

 つまり死=現世ではないパワー=商品価値として、経済をまわす原動力が少なからずあったようだ。

 民俗学からすると、ちょっと興ざめな展開だが、実態は純粋な信仰だけではなく、お得感も相乗効果であったに違いない。

 いわばそれも、文化の一つというべきである。

 現代人は核家族化が進み、近親者の死を目の当たりにしない。家畜をさばくことがないから、死についてリアリティがない。

 そんなことを社会学者が、簡単に語る。

 しかし本当にそうだろうか。

 死を強烈に意識することで、生を強烈に意識する、というのは哲学的な格言『メメント・モリ』(汝、死を思え)に端を発するのだろう。

 だからといって、死を意識しても、決して生を豊かにするものとは限らない。哲学的思索を経て始めて成り立つものではないか。

 死の験力への期待は簡単に、商品化されてしまう。

 健康食品を広告をみていて、ふと思ってしまう。長生きして、健康であろうとしているが、反面、生を手軽なものにしていないかと。

 出雲大社から四国にいたるまで、潜在していた死のパッケージがポップなデザインに変わって、お買い求め安くなったのではないか。

 そういうのを作っている人たちに、怒られそうかも。

大国主命の「おおくに」と同じ字を書くから、仏教の大黒天と同体ということになる。
でもインドで大黒天は非アーリア系のおとろしい神様だったので、チベット仏教でも憤怒尊のビジュアル。

2015年2月16日月曜日

売れない占いの話

裏付け

 台北の故宮博物院で亀甲占いの遺跡を展示していた。

 古代の中国では、焼けた火箸を、亀の死骸からとった甲羅に突き刺し、割れ方をみて、吉凶を占った。村をどうすべきか、敵を攻めるべきか。全て占いで決めていたから、催事は正に「まつりごと」であったのだ。

 ただ解説が面白かった。

 火箸を刺す前から、亀の甲羅に削って、ヒビが入れたものがあり、結果を誘導するように仕掛けられていたものも見つかっているという。神をたぶらかそうとするのは、いつの世も人間の常なのか。

 言ってしまうと、裏があったのだ。


カードで読めるもの


 占いができるという後輩の実演を見せて貰った。

 彼曰く、語尾を濁し、相手の反応をみて言葉を補うらしい。

 「やりたいことがあって。。。」相手が深刻な表情なら「がんばっても、まだ今は準備を見直した方がいいかも」相手が興奮した表情なら「そろそろチャンスが来てるから、しっかり見極めて」。

 そして何よりも万能なのは、

「よく周りに理解されなかったり、誤解されることが多いね」

 というフレーズ。どういう場合でも、占いらしく聞こえるというのだ。なぜか?

「周りに誤解されてるとか、本当の自分はそうじゃないと思うから、占いでそうした欲求を代弁してほしいと思ってるんです」

 うわ、サラ金と手口同じやん。きったなぁ。

 というか、単なるリーディングと呼ばれる、詐欺の手口である。

 上岡龍太郎は占いが大嫌いだった。テレビ番組に登場した占い師にこう尋ねる。

「私があなたを殴るかどうか、分かるもんなんですか?」

 占い師は苦笑いして応える。テレビ番組で、まさかそんなことはしないでしょう。すると上岡龍太郎はポカリ。これはやりすぎ。気持ちは分かるけど。

 占いは前近代的で、蒙昧の文化だという人もいる。未来を予測しているという人もいる。

 人智を超えているのか、否か。その前に何となく、人が介在しているような気がしてしまう。


梅田の地下にもラファエロみたいな天使が書かれてたりするけど、
あんまり写実的な絵画表現だとなんか、ちゃうような気がしてしまう。

2015年2月12日木曜日

ハウマッチ

いくら?

海外旅行が好きな先輩が、夜のニューヨークで飲んだ。

現地で仲良くなったアメリカ人たちが、指差している。その先には見るからにフランス人と見える女性たち。

彼女たちに、声をかけてみようということになった。先輩は彼らを制していった。フランス人から聞いている、誘い文句がある。

おお。彼らが見守るなか、先輩はフランス人女性たちに話しかける。

聞覚えたフランス語で話しかける。

にこやかに微笑んで彼女たちが顔を上げて、尋ね返す。もう一度、いう。

あれ? 楽しそうにしていた彼女たちの表情が見る間に曇り、明らかに軽蔑した表情で、突然東洋人だけが見えなくなったような素振りをみせた。

軽く声かけたつもりが、聞きかじりのフランス語は相当女性を侮辱したフレーズであったらしい。

アメリカ人たちが背後で笑っている。担がれたことに気付いた。彼らは意味を知っているようだった。

テーブルに戻って、笑いながら乾杯をしながら、尋ねられた。

「日本語で、可愛いとか、きれいだねって、なんというんだ?」

先輩は自信満面の表情でいった。

「簡単だ。”ikura?"って言え。可愛いねという意味だ」

ほんとか? そういって盛り上がっていると、向こうのテーブルにアジア系の女性たちが。。。


Or Nara

高校時代、ネイティブな英語を学ぶ機会を設けるという方針で、アメリカやオーストラリアから、半年ほど先生が来た。

月曜日、女性の先生が週末何をしたかをゆっくり話してくれた。

「日本の中でも有名なところ、京都または奈良に行きたかった」

そう話しているだけなのに、クラスからくすくすと笑い声が漏れる。彼女はどこがウケたのか分からず、後で同席した英語の先生が説明してくれた。

「Or Naraという部分は、おならと聞こえたんです」

英語の中に、突然明瞭な日本語が現れて、しかもそれが十代を笑わせるような単語だったのだ。

旧約聖書の中で、バベルの塔が語られる。人間は思い上がって、自分たちで塔を作り、神に迫ろうとした。

それを知った神は、塔を壊し、人間の言葉をバラバラにして意思疎通ができなくなった。かくして仕事ができなくなった人間は、世界各地に散らばったという。

ううん。英語が流通して、意思疎通ができるようになった世界に生きているが、バベルの塔を作るというプロジェクトはあんまり協賛を得られないだろう。

それより言葉が異なるが故に、文化が異なるがゆえに、面白いことの方が多いではないか。

御業が称えられるべきだとするなら、まさに言葉が多様化し、差異が生まれたことではないか。

そしてそれこそ、希望に満ちたことなのではないか。


ブリューゲルの『バベルの塔』
そんなに暗い話ではなかったのではないか

2015年2月11日水曜日

正しいブログの書き方など

情報価値はスポンサーの意向だった

 まだSEOという概念自体珍しく、パンダとかペンギンとかいう単語は、動物以外の意味を持たなかった時代。。。

 上司にあるテーマについて、記事に落とし込むため、情報収集を命じられて、gではなく、日本で一般的なyで始まる方のサーチエンジンを使って、調べものをしていた。

 ところがお昼の時間が迫ってきても、キーワードに関するページが際限なく見つかるだけで、個人の日記から、社説めいたものまで、延々と読み続ける羽目になった。とりあえず出力してみようものなら、みるみる紙がなくなっていった。

 インターネットには大した情報は載っていない。載っていたとしても、巨大掲示板にはネガティブな情報が多いだけ。当時、ささやかれた言葉に共感した。

 ところが大きく形勢を変えたのは、gで始まる方のサーチエンジンである。(念のため、リンク。w)

 広告の表示が少なく、何よりも検索結果の信憑性が全く異なっていた。膨大な量のサイトをブラウザごとに開いて(当時はfirefoxがなかったから、タブ表示機能のあるブラウザはなかった)、その上でCtrl+Fでキーワードを検索するという、二度手間も必要なかった。

 めちゃくちゃ便利になった。情報の質やボリュームは、確かにまだまだ問題があったが、それでも底が知れるだけの能力を実現してくれた。

 あとで知ったこと。

 yのサーチエンジンは広告主からの、広告料によって無料で使用することができる。つまり検索していたのは、キーワードであるが、ユーザーがより早く知りたい順ではなく、広告主が高く支払った順に表示していたのである。

 ところがgのサーチエンジンは違った。

 順位をいくつかの組み合わせで考えた(というか、他社からのアイデアをあとから買った。サーチエンジンとして公表された当時は、実は収入方法を模索しているところだった)。

 ユーザーの検索が多いキーワード。更新が新しく、新鮮な情報を提供しているサイトなどである。そして広告主は広告枠という、控えめなデザインで検索結果とは別に表示されるようになった。ユーザーは知りたい情報と、広告との区別が明確に認識できるのだ。

 スポンサーの意向は反映する。しかしそれが全てではない。もしスポンサーだけが常に優位に立てるような、二十世紀初頭のような資本主義の考え方なら、ウェブなど、未だにマニア向けの、難解なものであっただろう。gはgreatのgなのだ。

正しいブログの書き方だと
 サイトの更新頻度を高めるために、一定のフォーマットがあり、それを使って情報を追加していける方法。それがブログである。

 効率よく、アクセスを稼ぐために、何をすべきかを取り上げていたものがあった。

 流行のキーワードを本文中で取り上げる。

 なるほど。新しく、しかも検索結果として注目されるから、相乗効果でさらに検索は上位に上がってくる。

 だが、どうだろう。実際にnexus7について調べていた当時、痛感したのは、情報がぼんやりしてしまっていたことである。

 ユーザーとして、一番知りたい情報はnexus7の使用感や、利便性、価格である。

 ところが検索して出てくるのは「nexus7が発売されますよね。楽しみです」という、フレーズ以外に大して触れていないブログ記事であった。

 おいおい。まるでyで検索していた当時と、情報の鈍さは同じではないか。

 効率的なブログ。しかしそこにユーザーを食い物にするだけの論理しか成り立っていないのなら、またぞろ、yがもたらした情報冬の時代到来なのではないだろうか。

 まさかgoogletrendでキーワードを拾い、それについて底の浅いコメントを繰り返すと、アクセスが稼げるというのか。しかしそれによって何が実現するというのか。アクセス件数という、実態のない数値と、自己満足と、ユーザーの舌打ちなのではないか。

 浅ましく流行のキーワードをむさぼろうとしているブログやサイトをみると、いつも思ってしまう。
ときどきセミナーでも結果を安直に語ってしまう、うさんくさいのに出くわす。


2015年2月9日月曜日

ランボーの力

マイノリティの自覚


 アイドルの歌が苦手である。

 いつからか? この際、正直にカミングアウトしよう。たのきんトリオがウザかった。

 今でも苦手である。類似した女性ボーカルの違いを聞き分けることは困難を極める。

 アイドルと称する人たちが、しばらくするとバラードと称したものを歌い始めるが、それがおっさんたちの書いたムード歌謡と、どう違うのか、その差分は聞き分けられていない。

 萌え要素なるものがあったとしても、それは表現の自由だ。だが、80年代から一つ覚えだとするなら、それは感心できたのものではない。

 換金せよと迫られることに、正直辟易だ。

 だが、コンビニでも、スーパーでも、どこへ行っても聞かされることになる。

 たまたまスピーカーの前に立たされて、それらが流れてくると、何か罰せられているような気分になる。

 肥溜めに浸されたスタローンの気分だ。

惨めなヒーロー


 『ランボー2 怒りの脱出』(一作目が反戦映画だったのに、二作、三作目はマッチョバカなB級映画。四作目でやっとドラマ性が出てきた)のなかで、スタローン演じる特殊工作員のランボーが、ベトナムに潜入する。ちゃっちい作戦のせいで、あっさり捕虜になる。

 そこで縛り上げられ、肥溜めに肩までひたひたにされるという描写がある。

 アイドルの曲が流れるスピーカーの下にいると、なぜかそれを思い出す。しかしそこから連想はひどくなる。

 自分が肥溜めに浸されているのだ。やがてベトナムの将校は、やたら柄の長い柄杓を伸ばしてくる。

 そして自分の顔の前で、ひとすくい。ちゃんと少なめにすくってくれたらいいのに、並々とすくうから、ぼたぼたと垂れて、そのしずくが顔にかかる。

 うわ、くっさ。思わず、あげそうになる。将校は何やらいいながら、柄杓を頭上にまで持ちあげると、そこであろうことか、中身をかけてくるのだ。たらり。うわ、つべた。くっさ。

 我慢しきれず、嘔吐する。臭い。苦しい。溶けきっていない固形物が、額から落ちて、鼻先に当たって、しぶきを上げる。惨めさが極まって、泣きそうになる。

 泣くと、涙腺が緩むから、そこから雑菌が入ってしまうのだと、どこかで思い、ぐっとこらえる。

 しかし柄杓の中身が全部頭に垂れて、ご丁寧に角っこで、こんこんと頭頂部をたたかれる。加藤茶でも、もうちょっとマシな扱いうけたぞ。

 将校はもうひとすくいして、たらり。

 もうだめだ。我慢しろ。もうだめだ。どうして、こんな目にあわないといけないのだ。一体、自分が何をしたっていうんだ。悔しくて、思わず涙が溢れ出してしまう。

 そこで目を開く。コンビニのレジの前で並んでいる。良かった。無事だったのだ。あの臭さと、苦しさと、惨めさは、単なる連想だったのだ。ああ、よかった。

 あの苦痛に比べれば、あの鼻声と喘ぎ声を混ぜた電子音なんて、まだましだ。その手前にあるものだとしても、まだ耐えられる。

 少しだけ、強くなった気分だった。

2015年2月8日日曜日

フォーカス

日記のテキスト

 李登輝さんの『台湾の主張』のなかで、面白いことが書かれてあった。

 日記を書いていたが、自意識過剰になっていくのを感じて書くのを辞めたという独白である。

 現代、1月と4月は手帳と英会話教材が売れるらしいが、それに混じって日記も人気を集める。店頭では色とりどりのものがそろう。

 日記を書くことは、自分の内面を見つめなおすために、大切で習慣化していくことは有意義である。そう習ってきた。しかし李登輝さんはあっさりと、それを否定している。

 日記という作品の筆者になることに陶酔して、日常の生活や、人間関係を変に描写するようになるというのだ。誰もがブリジッド・ジョーンズになれると思ったら、大間違いというやつだろう。

 江戸川乱歩などは日記ばかりか、自分が書いた手紙も、読み終わったら、返送してくれとせがんでいたという。自分のテキストを読むのが相当好きだったのだろう。

 全く李登輝さんに同感である。

 日記という自分について、書くことにフォーカスしていくとどうしても自分と周辺を意識してしまうのは、当然だろう。

ブログは三ヶ月が寿命

 自分の日常をタレント気取りで、垂れ流すだけであれば、そのうち飽きる。その寿命が三ヶ月といわれている。

 そこに取って代わったのが、SNSであったが、それも今やLINEなどに変わられようとしている。

 誰だって、実は波乱万丈な日常を過ごしていないのだし、日常にフォーカスすれば、それを証明してしまうことになる。

 それは自分でもよく分かる。日記として書いていたら、退屈でたまらないし、むしろ書いていて惨めになるだろう。(このあたりが、FBが飽きられた理由なのではないだろうか)

 中には頼まれもしないのに、皇室や中韓や、なんとか9条とか、ややこしいことを、わざわざブログで取り上げる人もいる。我が国には基本的人権とニコイチで、表現の自由も保証されているのだから、全然自由だ。

 だが、政治や宗教の話は、どんな硬い友情の絆にも、ヒビが入ると、確かジャック・ヒギンズが言っていた。

 ここではあまり、政治や宗教の話題には触れたくないのは、ヒギンズに共鳴しているからだ。

 議論すべき場所で議論するが、議論すべきではない場所では、議論も主張もしない。脱いでいいところと、そうでないところぐらいは弁えている。

 むしろ冒頭の李登輝さんから、影響を受けているのかもしれない。

 書かずにおれない罪業。ならば、せめて自分のしょぼい日常にフォーカスするのではなく、読んで気晴らしになったり、楽しませることができるようなものを、書いてみたい。

 楽しませるために、苦しむ。この矛盾が奥深くていいと、最近ようやく分かってきた。

手書きメモに書いたアイデアをテキストにするという、スタンダードな方法。
珍しく、今回はそうやってメモをとったはずなのに、なんか座りの悪いテキストに。

2015年2月7日土曜日

ディオゲネス

樽と日陰

 禁欲的な生活を送る哲学者ディオゲネスは、樽の中で思索にふける。

 それを珍しくおもった、アレクサンダー大王が覗き込んで尋ねる。

「何か望みのものはないか?」

 ディオゲネスは顔を上げて応えた。

「はい陛下。そこに立たれては陰になります」

 機転の効いたフレーズや、エピソードに注目されがちだが、この話題は象徴的ではないだろうか。

 哲学を前に、世俗の権威や富ができることといえば、日陰を作らないこと。

 それ以外に、何か貢献できることはないのか? 答えは一つ。権力者ごときが、思い上がるなだ。

 皮肉にもディオゲネスの著作はなく、寓話だけが残される。さながら、不立文字を旨とする禅宗に、問答など公案が多いが、説明が少ないように。


イギリス的

 シャーロック・ホームズの兄マイクロフトが主催しているのが、ディオゲネス・クラブである。

 クラブという、社交的な集まりでありながら、一切会話を許さず、お互いに沈思黙考する場所なのだという。

 実在はしないし、ドイルのアイデアでしかない。ホームズ・ファンなら、アイリーンやモリアーティー教授のキャラ同様、一種の共通の記号として認識されるだろう。

 わざわざ集まって、銘々が読書したり、思索に耽るという滑稽さ。しずかな場所で、ゆったりとしたソファに座る様子が、映像で表現される。羨ましいと思った。

 だが、ふと思い出した。

 シャーロックがワトソンに、ディオゲネス・クラブを紹介するくだり。政府の高官や実業界の重席たちが会員なのだよとか、言っていた。

 待て。まてまて。ホームズものは現代から見ると、結構覇権主義的な表現が多い。ホームズの横柄な物言いだって、植民地支配をしていた当時の象徴であるともいわれる。いや、それよりも、高級官僚が集うところがスペシャルで、哲学的だというニュアンスに、ドイルのうさんくささを嗅ぎ付ける。

 ディオゲネスはアレキサンダー大王をやりこめた。世俗の権力より、彼が師から受け継いだ徳に対する、哲学的思索の方が価値があるということだったのではないか。

 官僚だから、哲学的な時間を欲するなどというのは、いささか気取ったポーズではないか。保守的な人たちが喜びそうな話題である。そして進歩的な人たちがやりたがるポーズではないだろうか。

 そして、どちらもなんちゃってディオゲネスなのだ。そもそも、そこに集う人のステータスを紹介に当てるということ自体、樽の前に立って覗き込んだ人間と、同じ基準なのではないか。

 などと、どうでもいいことを、考えてしまう。



「謝るから、出ておいで」っていうてるみたいなビジュアル
http://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AWaterhouse-Diogenes.jpg


2015年2月5日木曜日

ルパンから盗む

五右衛門を知るルパン

 士は己を知る者のために死す。史記の中でも、一番カッコいいフレーズではないか。

 ルパン三世のエピソードの中で、ルパンが五右衛門に計画を説明するシーンがある。

 次元が撃った仕掛けが作動し、エレベータが高速で動く。中にいるルパンを助けるには、五右衛門が一瞬でエレベータをつり上げるワイヤーを一閃しないといけないとかいう場面。

 他でもない、それができるのは、五右衛門。お前しかいない。

 ルパンにそう口説かれて、五右衛門が挑むという話。

 はっきりいって、ルパンのリーダーシップは皆無である。苦労して手伝ったのに、彼が土壇場で不二子の色気に惑わされて台無しにしてしまうし、うっかりして銭形警部に追いかけられる羽目にもなる。上司として絶対一緒に働きたくないタイプである。

 だが、犯罪に関する見識は豊かであり、何より次元と五右衛門のスキルを理解している。そこに絶対的な信頼を置き、反面で怠慢を容赦なく見透かす。

 次元も、五右衛門も、彼に知られてしまった以上、ルパンのために二人は命をかけたくなってしまうのだ。

職人の気質

 箔押しを自営で営む、年配の職人さんの話を今でも記憶している。

 商品のパッケージに、金や銀の箔を押すのだが、大阪と東京とでは、昔の職人の気質が違うという。研修会として、東西の職人が交流した時のこと。

 東京の職人は美学に凝るという。誰でもできる仕事はやりたがらない。同業者がおっと驚く、粋な仕上がりにこだわるという。

 反面、大阪の職人は納期と仕上がりにこだわるという。ちょっと無理なスペックをいかに創意工夫してクリアして、納期に数量を間に合わせるのか。納品できることに面子を感じるのだ。

「他にお願いすることもできず、難題と承知の上で、無理を押してお願いに上がりました」

 こう前置きに詫びると、職人は大体、気を良くして最後まで話を聞いてくれる。クライアントとしての初歩作法である。

 次元や五右衛門の気持ちも分かるが、彼らを動かす時の気持ちも、分からないではない。

 いわばルパン作戦だろうか。彼が史記を読んでいたのだとしたら、似合わぬ古風な趣味というべきではないか。

2015年2月4日水曜日

真ん中は妥協点でも

どっちもはムリなこと

 小学校に上がる前のある日。

 近所の友人たちを訪ねたが、みんな不在だった。

 仕方がなく、うろついているところに、女の子たちが遊んでいるのに出くわした。学校ごっこをしているという。

 ちょうど、男性教諭がいないということだったので、その中に採用されることになった。

 初回の授業が始まって間もなく、どこにいっていたのか、友人たちが帰ってきた。

 ウルトラマンごっこをするという。しかもセブンの枠は開いているというではないか。今日も充実の怪獣退治を予感して、その中に入ろうとする。

 すると女の子たちに見つかった。二時限目が始まるというのに、どこにいくのだと。いや、ちょっと怪獣が現れたので、というと、随分怒られた。

 しかし天啓にも似た閃きを得た。

「普段は学校の先生だけど、怪獣が出たら、変身する」

 なんて、名案なんだ。地球防衛軍の泡食らった連中より、教諭としてちゃんと職務を果たしていながら、なおかつ怪獣まで退治してしまうなんて。

 我ながら惚れ惚れするような名案だと思った。

 ところが提案して、彼女たちに一層手厳しく怒られた。先生は変身する必要がないというのが、その主張だった。

 そうこうしているうちに、友人たちはセブンの登場を待たず、怪獣軍団を追って、飛び去って行ってしまった。

 妥協点が必ずしも解決策ではない。今なら、そう言葉にまとめることができる。

議論で何を尽くすのか

 しばしば新聞やテレビを見ていると、こういわれる。充分、議論を尽くせと。

 主張があり、そのためのプロセスがあり、それが実現不可能だとするなら、どこまで妥協できるのか。

 そんな段階的な分析など、ついぞ見たことがない。

 そもそも議論を尽くせという表現自体、湾岸戦争時の「なんとなく、全会一致」以来のものであり、野党のごね倒しか、与党の強硬手段という、およそ議論と呼ぶには、程遠いものではないか。

 尽くせとは、まるで体力勝負みたいで、うんざりする。

 アイデアを出し合い、妥協点を見出し、よりいいヒントを見つけ出す。恥ずかしいぐらい、建設的な方法である。

 体力の限り、手段の限りを尽くして、相手の主張を撃破する。そんなものが「議論を尽くす」のだとしたら、呑気にも程がある。

 折衷案は妥協点であることが多い。しかしそれでも、建設的である限り、意味はある。

 全部肯定されるべきは、やはり教師役をするか、ウルトラマンになるかぐらい、幼稚な世界観なのではないだろうか。

どんなにがんばっても、変身グッズのオーダーは
サンタさんに届かなかったような気がする。。。

2015年2月2日月曜日

ラジオ体操ぽんこつ編

嘆息

 子供の頃。夏場に市民プールにいくと、30分置きに監視員にあがるように命じられる。

 みんなでプールサイドで、ラジオ体操をさせられる。長時間水に浸かって、体温が下がり続けるのを避けるためだ。

 隣でおっちゃんがうめく。手足をのばすたびに、何がいたいのか、腰をひねるたびに何が重たいのか、ため息をついたり、うなるような声を漏らす。

 人間もああなると、ぽんこつだな。そう思っていた。

朝の儀礼

 今、朝礼の前にラジオ体操を行う。

 戦後の物資が不足した中で、国民の健康促進を目的に配信されるようになったというようなことを聞いたことがある。

 医学的にいって、ラジオ体操にダイエット効果はない。続けたところで、体が柔らかくなるわけでもない。健康的で体が柔軟な人が、テレビの向こうにいるだけだ。

 しかし健康には効果的である。末梢神経や筋肉を覚醒させるため、転倒しにくくなる。高齢者は寝たきりになりにくいという。

 実際にやってみると、腕や肩甲骨をやたら動かす。平行して、重心移動を行う。

 新撰組の沖田総司は、病床にあったことを気遣われた際、庭に出て四股を踏んだ。こんなにも元気だと主張したという。

 中世までの健康法の一つは四股を踏むことであった。地の神を呼び覚ます作法と、ますらおぶりを示すことは同じことであった。

 上半身を重点的に動かすラジオ体操とは対照的であった。

 神々を必要としない、理性的な身体技法である。

 肩の筋肉がのばされる。腰がほぐれる。背中の筋肉が伸びたり、縮んだり。

 思わず、低くうめいてしまって気がつく。ぽんこつなのか、俺は。
ヨガは√yog(つなぐ)の名詞形
心と体をつなぐという意味で、座禅全体を指していたが、
ヒンドゥ教の身体観念などが入り交じって、現代の健康法に。