福田和也がエッセイの中で、文房具の魅力について語っていた。
飛行機の中で、ワインを飲みながら、上質紙でもかなり分厚い紙で、しっかりと上製本された手帳に、高級な万年筆で資料を書き写す。至福の時だという。
高級な万年筆など、ついぞ所有したことはない。
ただでさえ、ものを無くすのに、そんな高級なものを持ち歩いていては、うっかり無くすかもしれない。書くのに使うなど、もったいなくてできやしない。
そういう性分である。
だから、万年筆の魅力はあんまりわからない。
あんまり、というのは、生の原稿などを見ているからだ。
池波正太郎は達筆である。自由闊達に万年筆を走らせているが、一字が実に整っている。編集者も仕事しやすかっただろうなぁ。
その点、ひどいのは司馬遼太郎である。
マス目にはしっかり書くが、ほとんど記号。編集者は大変だったろうなぁ。
そういう原稿を見ると、紺色であったり、黒であったりするが、太字で実にしっかりとインクが出ているし、まさに走らせている。
先の福田和也はいう。ちょっといいものを所蔵すると、それを使ってみたくなる。使ってみたくなることが大事で、意識せずに書くことが楽しくなり、その時間、いいものが書けなくても、書き続けることでスランプを脱することがしやすくなるという。
いいなぁ。そういう意味では、グリップが魚肉ソーセージみたいな万年筆を取り出し、もったいつけてキャップを外して、無駄に読みにくい字を殴りつけて、書き味とやらを堪能してみたい。
意外にも、映画プロデューサーのJ・J・エイブラムスも同様のことを言っていた。
着想を考える前に、macbookairを使うと。
SSDのおかげで、数秒で起動するし、画面の動きが楽しいから、いつまでも触っていられる。そして端末に触っている時間が長いから、自由に書いたり、調べたりできる、というのだ。
万年筆はもう一つ、ピンと来なかったが、macbookairについてはよく分かる。
このテキスト自体、macbookairで書いている。簡単に書いているわけではないが、お気に入りのosのおかげで、色々と捗る。
ただし、福田和也と違うこと。
ずっと快適に触ってはいられるが、そんなに次々とブログの記事が更新していけないこと。
画面を見ていても、そんなにヒントは見つからない。
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