2016年5月8日日曜日

予習はいつも忘れてる

京都国立博物館に行きたい。

今回は 禅ー心をかたちにー という展示。

禅宗の文化にものすごく興味があった時もあって、蔵書は次第に沢山あるが、結局、道元の『正法眼蔵』が難しすぎて(仏教学者も難しいと言っていた!)、なんとなく疎遠になっている。

絵画を見れば、比較的楽しめる。

問題は題材を知っているのと、そうでないのと。

楽園追放や聖母子像を、画家がそれぞれどうとらえて表現したのか。結構ゆるいルールで個性が発揮できるため、それぞれの表現を比較するのが面白い。

これがチベットの仏画だとそうはいかない。仏像の顔立ち、持ち物、姿勢、色彩、全て細かくルールが決められており、逆に没個性的であることに意味を持つようになる。

禅の基本的コンセプトは、言語を超越した真理へのショートカットである。

禅問答、などというが、問答といいながら、言語の応酬が無意味であるというのが、大体の結論。

それゆえに、ものすごく絵画表現も観念的になったり、俗化したりと、ブレ幅が大きい。

ただし、題材になるエピソードを知っていないといけない。

毎回、そう思って展示をぼんやり眺めて帰ってくる。いつも、損した気分である。

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