2016年5月11日水曜日

標準語の冷たさとか

関西の古い人や、東京をよく知らない人が時々いう。

「東京の人間は冷たい」

確かに細やかなニュアンスを膨らませる言葉として、関西弁は使い易い。

「あんじょうしたって」(適切な処置や、取り計いをよろしくお願いします)

などは、最たるものではないか。

確かに感情表現に便利なところはある。しかしそうではないところに対して、情が薄いというのは早計ではないか。

ずっと前に、東京の人と話していて面白かった。

何か、気取った形式、形骸化したもの、見た目だけで実態のないものに対して、彼はふと言った。

「洒落臭いですねぇ」

もちろん文部省が百年前に定めた標準語とは、ほど遠い。いわば江戸訛りではないか。

”洒落臭い”を関西弁に翻訳しようと思った。いちびり。ぱちもん臭い。どうも違う。洒落臭いがピタリと言い当てているような気がする。関西弁が万能なら、これよりもっと適切な形容詞があるはずなのに、ないのだ。

お国訛りを自慢する、薩摩や長州の藩閥政治が結局、多様性を必要とする国民国家の発展と折り合いがつかなかった。

そこで誰もがヒアリングしやすい標準語を策定した。当然、情感を表すことよりも、情報伝達を最優先に構築されている。

だから、情感が伝わりにくくて当然であるのだ。冷たく聞こえるようで、本人の気持ちはきっと言い足りないところにあるのだ。

そう思わないと、訛りの特権を持っているだけの、百年前の、薩長土肥の人たちから、何も変わっていないことになる。

それこそ、洒落臭い。

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