2016年5月30日月曜日

文房具の効能

福田和也がエッセイの中で、文房具の魅力について語っていた。

飛行機の中で、ワインを飲みながら、上質紙でもかなり分厚い紙で、しっかりと上製本された手帳に、高級な万年筆で資料を書き写す。至福の時だという。

高級な万年筆など、ついぞ所有したことはない。

ただでさえ、ものを無くすのに、そんな高級なものを持ち歩いていては、うっかり無くすかもしれない。書くのに使うなど、もったいなくてできやしない。

そういう性分である。

だから、万年筆の魅力はあんまりわからない。

あんまり、というのは、生の原稿などを見ているからだ。
池波正太郎は達筆である。自由闊達に万年筆を走らせているが、一字が実に整っている。編集者も仕事しやすかっただろうなぁ。

その点、ひどいのは司馬遼太郎である。

マス目にはしっかり書くが、ほとんど記号。編集者は大変だったろうなぁ。

そういう原稿を見ると、紺色であったり、黒であったりするが、太字で実にしっかりとインクが出ているし、まさに走らせている。

先の福田和也はいう。ちょっといいものを所蔵すると、それを使ってみたくなる。使ってみたくなることが大事で、意識せずに書くことが楽しくなり、その時間、いいものが書けなくても、書き続けることでスランプを脱することがしやすくなるという。

いいなぁ。そういう意味では、グリップが魚肉ソーセージみたいな万年筆を取り出し、もったいつけてキャップを外して、無駄に読みにくい字を殴りつけて、書き味とやらを堪能してみたい。

意外にも、映画プロデューサーのJ・J・エイブラムスも同様のことを言っていた。

着想を考える前に、macbookairを使うと。

SSDのおかげで、数秒で起動するし、画面の動きが楽しいから、いつまでも触っていられる。そして端末に触っている時間が長いから、自由に書いたり、調べたりできる、というのだ。

万年筆はもう一つ、ピンと来なかったが、macbookairについてはよく分かる。

このテキスト自体、macbookairで書いている。簡単に書いているわけではないが、お気に入りのosのおかげで、色々と捗る。

ただし、福田和也と違うこと。

ずっと快適に触ってはいられるが、そんなに次々とブログの記事が更新していけないこと。

画面を見ていても、そんなにヒントは見つからない。

2016年5月29日日曜日

たった五分で

PHPユーザー会のライトニングトークで面白い話題をしていた。

仕事の担当が、コードを書かなくなった登壇者の話。

久しくコードを書かないと、書かないといけない。スキルが落ちていくのではないかという不安になるという。

そこで、一日五分だけでも、コードを書くようにしていったと。

最初の数日は5分の短さと、何もできないことに愕然とする。

しかし続けていくことで、問題が明確になり、5分のつもりが時間を都合するようになっていく。

さらには明日の五分はここをやっていこうと、明確になっていく。

やらないと、とあせるだけで何もしないくらいなら、少しずつやっていくべきだ。その最小単位は5分でいい。

そういう話題であった。

たった5分では何もできないのか、5分だけでも、何かをしたのか。

そういえば、定年退職して嘱託で勤務している人が、パソコン教室に通ってみたが、全部忘れたと語っていた。

必要に迫られていないこと。時間が無限にあること。

それらは実は、優雅に勉強できるようで何もできないのだ。

そういえばどこかで読んだことがある。

トルストイは新聞連載という形式で、毎日締め切りに追われたからこそ、原稿を書き続けられることができたと独白した。

気持ちを高めることとか、集中することとは、ちょっと温度が違う。いわばメソッドなのではないか。

継続こそ一番難しいが、5分だけなら、できそうかも。そんな気分にさせられた。

2016年5月27日金曜日

海馬に個人情報は守れない

先輩が女性と呑んだときのことを話していた。

「終電間際に込み入った話を始め、オチをいかに伸ばして、終電を逃すか。ここが一番難しい」

結構な頻度で、女性たちは上の空で、にこやかに終電に滑り込まれていたらしい。(あかんがな)

酩酊していたり、眠たい時には正しい判断はできない。

飲酒も睡眠も、理性を司る大脳皮質が眠り、快・不快だけを判断する海馬が優先されるかららしい。

夜更けのラブレターは投函してはならない、というジンクスも、いわばこういうこと。

書いていて一人で盛り上がり、恥ずかしい告白をしているだけならまだしも、相手がドン引きするぐらい舞い上がってしまうのが原因らしい。

macbookがもらえるというアンケートに、うつらうつらしながら、応答した結果、アカウントをうっかり乗っ取られそうになった。

眠たい時のデジタルはろくなことにならない。

酩酊していいものができるのは、杜甫や李白のような漢詩だけなのではないか。(俳句や散文詩に酒は似合わない)

海馬に個人情報は守れない。

おかしな話、眠い時、実は「自分は眠い」という状態も、眠たくて適切に判断できていないのかもしれない。

2016年5月22日日曜日

そうでもない日本人

海外のジョーク。

ライバル会社が利益を急激に上げた。

日本人の場合。「あの会社はきっと、何か工夫をしたにちがいない。何をしたのか調べてみよう」

アメリカ人の場合。「あの会社はきっと、何か不正をしているに違いない。何をしたのか調べてみよう」

中国人の場合。「あの野郎、許せねぇ」

(冷戦時代、オチに使われるのは決まってロシア人であったが、今や中国である)。

そう。日本人は他社からいいところを学ぼうと、結構高潔なところを当然としている。不正があったら、それこそ「同業者として恥ずかしい」とか、アメリカ人以上に怨念じみた呪いごとは辞さない。

勤務先の協業他社が、熊本の震災に対して、対応し、サイトで報告をしていた。そのことを先輩と話していて、彼はいった。

「素晴らしい。見習いたいですね」

まさに”あの会社は工夫したに違いない”の視点である。

ホリエモンの逮捕前後だったか、彼がテレビ媒体を買収するとか言い出したあたりから、日本人のモラルをメディアがやたら騒いでいた。

働かずに、株を売買するだけで利益を得るだなんて。そんなことを、テレビの広告でメシを食う人たちが、にわかに色めきだっていた。

日本人は怠けるようになった? そうか? 怠けているくせに、目立つ人がいるだけではないのか。

真面目に働く人。汗水を垂らすことを惜しまない人。ライバルからヒントを盗み出して、より良いものやサービスを見つけようと努力する人。

Yes, We all japanese.

2016年5月21日土曜日

フリー素材

以前は、誕生日やお正月に、ミニゲームやgifアニメなどをつけることがはやった。

今は写真ばかりか、ai素材もフリーで紹介している。写真ではない。オブジェクトデータとして作られた、aiデータそのものが公開されている。http://www.appli-cation.com/

一定期間、フリーでお試しいただけて、あとは有料です、というのは古いビジネスである。


フリーのイラストをよくみるが、不思議でならなかった。密かにビジネスになっていることをきいたことがある。

フリーで作って、無料で公開しておくことで、知らず知らずにそのイラストのテイストに見慣れてしまう。何かの拍子に、オリジナルにアレンジしてもらったものが必要になり、作者に注文することになるとか。

無料という看板ほど、わかりやすく、飛びついてしまうものはない。あとからお金払ってね、ではないバージョンをいかに確立していったのか。

テレビだって、映像と音声を配信することは、技術的にはそんなに新しくないらしい。

ただ広告収入と結びつけて、費用と利益を弾き出す方法は、新しい(今や古い)のだ。

フリー素材といって、そこからイラスト作家がいかに、収入を得るのか。ユーザーも気持ち良くたいかを支払えるモデルとはなんなのか。

思いついたら、きっとザッカーバーグみたいに、遊んで暮らせるんだろうなぁ、といつも思ってしまう。

仕方がないから、aiデータで我慢する。http://www.appli-cation.com/ill/10245.php



aiデータで公開されている一万円札のイラスト。
プリントアウトして、リアルに使えたらなぁ。。。

2016年5月19日木曜日

ほとけの国

ツイートを色々と調べることがある。

なかに面白いものがあった。

「仏会社と合弁で、というニュースを見て、お寺かと思ってた」

というようなツイートがあった。

フランス=仏国。

日本に来て間もない知り合いが、疑問に思うと話していた。

「どうしてフランスは仏教国でもないのに、仏なのか。アメリカのライスをそんなに好んだ歴史があるのか?」

 フランスは仏蘭西。アメリカは亜墨利加。ドイツは獨逸。こうした表記があったから、今なお略称で用いる。

 では、いつか。

 どうやら明治に開国した際、中国語の通訳を介して表記したのが最初(中国人はカタカナや平仮名のように、表音文字を持たないため、発音の似た漢字を当てはめるしかなかった)。

 富田常雄の小説『姿三四郎』では、こうした表記がやたら出てきて、明治の雰囲気を演出している。

 問題はイメージ。

 仏の国=温和であったり、深く思索している人たちが住んでいそう。

 なんとなく、インテリで文化的なイメージを連想していないだろうか。フランス革命で民主的な文明国であるかどうかより、おしゃれで、優しい人たちという想像。

 もちろん、勝手な片思いに過ぎないが、なんとなくイメージを膨らませているような気がする。

2016年5月17日火曜日

瞬読ーおバカな読み間違いの続き

就業後、仕事場を出る時に、「古本」という文字が視界の端を飛び込んできて、振り返る。

古本屋とは縁もゆかりもない、一階のフロア案内版の前。

ゆっくり周囲を見渡して、気がつく。

古本という人の個人事務所がフロア案内に載っていた。我ながら、すごいチェック能力である。

仕事にあんまり、生きてないかもしれないけど。。。

2016年5月16日月曜日

エド・マクベインは永遠に

華やかな推理劇や、ストイックな探偵も登場しないし、ましてや萌えキャラの助手を交えた、ユーモアミステリともかけ離れている。

汗臭いおっさんたちが、地味に聞き込みする。被害者家族の惨めな訴えに胸をいため、チャラけたチンピラたちに手を焼いて、頑張ってるのに撃たれたりする。

一人ずつが地道にがんばって、ある弾みで事件が解決するというのが定番の、エド・マクベインの87分署シリーズ。

どこまで読んだのか、いつもわからなくなる。

どうして徳川家康のように、4巻の次は5巻というように、分かりやすくナンバリングしてくれないのか。

古本市でしばしば見つけては、見たことあるタイトルに、すでに買ったかわからなくなる。思い切って買う。帰宅してがっくし。本棚にすでにあった。それも2冊とか。

wikipediaからリストをコピペして、スマホで閲覧し、在庫しているか確認したら、どうか。

ところがどうも、せどりしているようで、気恥ずかしい。

だから、結局集まらないし、どこまで読んだのか、曖昧になる。キャプテンフューチャーも、どうしたのか、もう考えないようにしている。

やっぱり安く読むのなら、リストにするしかないようである。

ローダンシリーズや、ダークピットでなくて、ほんとによかった。(似たようなもんか)

2016年5月15日日曜日

windows10はあきらめましょう

 『ビッグバン・セオリー』というコメディの中で、一人がいう。

「みんながいない、こういう時こそ、とっておきのことがしてみたいんだ」

 すると主人公のシェルドンが満面の笑みを浮かべて言う。

「良かった、そうくると思って、特別なものを用意してるんだ」

 そういって、久しく使わなくなっていたノートPCを取り出して言う。

「最新のubuntuを試す絶好のチャンスだね」

 気持ち、分かりたくなかったけど、わかってしまった。

 まとまった時間を、オープンなOSのインストールと始動に費やして、色々試してみたいという欲求。未開拓に踏み込む面白さである。(ubuntuとは南アフリカの言葉で”他者への思いやり”。アメリカ資本とは全く無縁である)

 似たことを試みる。

 windows7を使っているが、年明けから、脅迫されていた。早く更新しないと、しらねぇぞと。

 週末なので、思いついて、アップグレードを試みる。フラグに導かれるままクリックするが、何度やっても、同じ画面に出て、再起動を繰り返している。

 どんな具合か、テキストで表現するなら、こんな感じ。

 最新osが今なら、無料で使えますよ。
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 結局、再起動をはじめ、こちらからもう一度,win10を触らせもらえないか懇願と嘆願を繰り返さないといけない。繰り返しても、触らせてもらえるかどうかは別。

 またいつものマイクロソフトに担がれた気分である。

 結論は一つ。

「やっぱりwindows10はあきらめよう。知り合いのwin10はvistaなみに使えなかったし」

 はて、なんでそもそも、win10をつかわないといけないのだったっけ?

 安定のループ地獄。うまくインストールできても、早くなるとは限らない。

2016年5月14日土曜日

おバカな読み間違いは続く

仕事からの帰路、コンビニに立ち寄る。

ふっと、視界によぎった単語が読めて、振り返る。

厚切バリウム

あの身体検査の日の、お腹重たい憂鬱なものは、液状ではなかったか。いや、そもそも、お菓子のコーナーにバリウムが並ぶのか?

目を凝らして、読み直す。

”厚切りバウム”

ううむ。なんか釈然としない。google翻訳で発音を聞いてみた。

Baumkuchen」(独)

ほら、やっぱり”バーム”やないか。(そこじゃないかも)

2016年5月11日水曜日

標準語の冷たさとか

関西の古い人や、東京をよく知らない人が時々いう。

「東京の人間は冷たい」

確かに細やかなニュアンスを膨らませる言葉として、関西弁は使い易い。

「あんじょうしたって」(適切な処置や、取り計いをよろしくお願いします)

などは、最たるものではないか。

確かに感情表現に便利なところはある。しかしそうではないところに対して、情が薄いというのは早計ではないか。

ずっと前に、東京の人と話していて面白かった。

何か、気取った形式、形骸化したもの、見た目だけで実態のないものに対して、彼はふと言った。

「洒落臭いですねぇ」

もちろん文部省が百年前に定めた標準語とは、ほど遠い。いわば江戸訛りではないか。

”洒落臭い”を関西弁に翻訳しようと思った。いちびり。ぱちもん臭い。どうも違う。洒落臭いがピタリと言い当てているような気がする。関西弁が万能なら、これよりもっと適切な形容詞があるはずなのに、ないのだ。

お国訛りを自慢する、薩摩や長州の藩閥政治が結局、多様性を必要とする国民国家の発展と折り合いがつかなかった。

そこで誰もがヒアリングしやすい標準語を策定した。当然、情感を表すことよりも、情報伝達を最優先に構築されている。

だから、情感が伝わりにくくて当然であるのだ。冷たく聞こえるようで、本人の気持ちはきっと言い足りないところにあるのだ。

そう思わないと、訛りの特権を持っているだけの、百年前の、薩長土肥の人たちから、何も変わっていないことになる。

それこそ、洒落臭い。

2016年5月8日日曜日

予習はいつも忘れてる

京都国立博物館に行きたい。

今回は 禅ー心をかたちにー という展示。

禅宗の文化にものすごく興味があった時もあって、蔵書は次第に沢山あるが、結局、道元の『正法眼蔵』が難しすぎて(仏教学者も難しいと言っていた!)、なんとなく疎遠になっている。

絵画を見れば、比較的楽しめる。

問題は題材を知っているのと、そうでないのと。

楽園追放や聖母子像を、画家がそれぞれどうとらえて表現したのか。結構ゆるいルールで個性が発揮できるため、それぞれの表現を比較するのが面白い。

これがチベットの仏画だとそうはいかない。仏像の顔立ち、持ち物、姿勢、色彩、全て細かくルールが決められており、逆に没個性的であることに意味を持つようになる。

禅の基本的コンセプトは、言語を超越した真理へのショートカットである。

禅問答、などというが、問答といいながら、言語の応酬が無意味であるというのが、大体の結論。

それゆえに、ものすごく絵画表現も観念的になったり、俗化したりと、ブレ幅が大きい。

ただし、題材になるエピソードを知っていないといけない。

毎回、そう思って展示をぼんやり眺めて帰ってくる。いつも、損した気分である。

2016年5月6日金曜日

聖徳太子とやっつけ仕事

聖徳太子は一度に十人の話を聞き分けることができたという伝承がある。

ドリフのコントで、カトちゃんが聖徳太子に扮して、訴えを聞いていた。

十人同時にしゃべり、振り返ると耳が十組タテについていたというだけ。カトちゃんの顔オチというネタである。幼心にも、やっつけ仕事感を感じていた。

説話としては、たくさんの人間が訴えたことの本質を理解し、ディレクションする能力に長けていたというメタファーであろう。

こどもの日に、作文を書かされたのを思い出した。家族で買い物にいったことを書かされることになった。

スーパーに行って何を感じたのか、どう思ったのか。母が優しい声色で迫ってくるが、それが時間ととにも豹変することは明白で、慌てて書き始めた。

野菜コーナーを見て回るときに、商品やキャンペーンの告知アナウンスがうるさいぐらい、立て続いていたことを思い出す。ふと思いついたことを書いた。

(聖徳太子でも、聞き取れないくらい、いっぱいしゃべってた)

馬鹿馬鹿しい。内心、例えの稚拙さに閉口しながら、字数を稼ぐために書いた。

しかしひどく母親がほめそやすのである。この例えは素晴らしいと。んな、アホなと思った。

そのせいか、今でも聖徳太子が十人の話を聞いたという、説話を聞くと、なんとなく気恥ずかしいような、やりきれなさを感じる。

カトちゃんを小馬鹿にしたくせに、自分もやっつけ仕事をしたような、変な気まずさ。

2016年5月5日木曜日

安いものほど高くつく

使い終わったペットボトルのストックをまとめて捨てたいと思っていた。(ストックて)

そこで、「ペットボトル 圧縮」で検索した。


ペットボトルつぶし 吸いまっせ! 圧縮 YR-001SU


というものが結構上位に出てくる。これこれ。

注文しようとするが、色々な値段が出てきた。

(うわ、amzonが日本のとこの倍やんけ。外資使えんなぁ)

そう思って、国産の大通販サイトで注文する手続きをした。

しかし、途中で手が止まる。

送料あわせると、突然二倍以上の金額になるのだ。あと何円で、送料無料とか言われても、広告ががちゃがちゃしすぎて、目がちかちかする。。。

ふと思った。ということは、密林さん、どうなん?

プライムの価格として二倍であったが、送料は無料。

結局、密林さんで注文して、一ヶ月のプライム無料に申し込んだ(一ヶ月後は自動更新になるから、設定画面で「更新しない」もちゃんとチェックした)。

プライム会員て、一年で3900円も取られてしまうのだ。映画やテレビ番組を見放題、音楽聞き放題とか言われても、高いと思った。

なぜなら、netflixなら格安の650円/月なんやから。。。

はて?

325円×12ヶ月=3900円 < 650円×12ヶ月=7800円

公文式やってて良かった。要、検討である。

2016年5月3日火曜日

司馬遼太郎の見た国鉄社員

エッセイの中で、司馬遼太郎が言っていた。

国鉄時代の大阪駅で切符を買った時に、乗り換えを職員に尋ねたところ、顎でしめされたと。惚れ惚れするような、官僚的な態度であったと揶揄していた。

無学な民百姓のために、お上が施してやっているという、五箇条の御誓文以来の、古式ゆかしい官僚文化が残っていたのだ。そんなことを書いていたと思う。

この一節がどうも頭に残っている。

自分で動かず、顎で人を使うかのような人や、物言わず高圧的な人に出くわすと、脳裏で、マッシュルームカットの司馬翁がニタリと笑う。

惚れ惚れするような。。。

と彼の初期の、改行の多い文体を思い出してしまう。

恐縮したり、平謝りをしてみせるが、本心では脳裏の司馬翁に釣られて、ニタリとしている。

嫌な大人になったものだ。

2016年5月2日月曜日

タレント似

風貌がタレントの誰に似ている、というような話題が以前の職場であった。

後輩の女性が、結構二枚目の俳優に似ているのではないかと言ってくれた。

うほ。そうなん?

googleで画像検索してみた。いやいや、俺の方がイケメンやろ。

すると彼女は検索結果と見比べて言った。

「あ、ごめん。あんまり似てないかも」

って、ヲイ! その、やってもた感はなんや!

2016年5月1日日曜日

聖徳太子パクリ説破れる

絵画表現のなかで、中世の日本は、特にポップカルチャーとして、寺社縁起(来歴エピソードのビジュアライズ)が発達する。

そうした背景を現代にまで継承していたのが、四天王寺の絵堂と言われている。

たまたま古本市に立ち寄った際に、絵堂を公開し、しかも”絵伝”と呼ばれる、いわばトークショーを拝観できた。

諸説あるが、仏壇の原型が、こうした僧侶によるトークショーである。(絵画より耐久性のある木製の仏像を背負って、地方を巡業し、本山への棄捨を募る僧侶たちがたくさんいた。彼らの背負ったものが、片付けられる仏教オブジェとして、仏壇になっていく)

開基聖徳太子の事績を紹介するもので、何度も戦災や焼失した経緯があり、八代目なんだとか。吉川英治の小説の挿絵も描いていた杉本謙吉の筆である(だから物部と蘇我の合戦シーンは臨場感に溢れている)。

お坊さんの話が面白かった。

「厩戸王子という言葉から、イエス・キリストを連想されたことが多いと思います」

そう。キリスト教文化が日本に入ってきたとか、結構明治時代から取り上げられている話題ではないか。

「しかし実際は、妊婦さんが産気づいて、移動中の振動に促されて、出産することは今でもよくあるらしいです。だから、駐車場である厩で出産することも珍しくなかったようです。また当時の地名が馬屋という場所であったという記録があります」

ええ。奇抜な説の方が面白いのに、地味に解説されてしまった。キリスト=聖人=大陸からの文化流入=聖徳太子のネーミングという方が、圧倒的に面白いではないか。

「後世、伝承がそうした想像を作っていったのでしょうが、実際はキリストの伝承を引用したとは考え難いようですね」

面白いのになぁ。法隆寺に十字架が隠されているとか、そういう設定の方が。

ペルセウスも、モーゼも、小舟に乗せられたのを、拾われて育てられたヒーローであり、本邦勇者桃太郎もドンブラコとやってきてほしい。

それと同じく、聖徳太子も聖人として設定するため、新約聖書からパクった、という方が面白いのに。残念。