桃太郎のソロ活動
母が岡山県出身であり、修学旅行か何かで、鬼が島と呼ばれているところの景観が、いかにもそれらしく、波が荒れ狂う場所であったと、語っていた。
岡山県は桃の名産地である。そうか。桃太郎の伝承は岡山のものだったのか。
ところが別のものもあることを知る。
夫婦が山へ散策し、母が弁当を開いていると、大きな桃が落ちてくる。
その桃を持って帰り、暖めたところ中から、男の子が生まれる。
彼が大きくなり、留守番をしていると、からすが手紙を持ってくる。鬼からの手紙で、きびだんごをもってこいという。
母に頼んで、きびだんごをもって鬼の島にいく。きびだんごを鬼たちに与えると、彼ら眠りこけ、捕まっていた姫を助け出すことに成功する。
それが広く知られて、長者になったという。岩手県で伝えられたバージョンの桃太郎である。
え? 猿とか犬とかのメンバーは?
柳田國男ぷんすか
なんの随筆だったか、民俗学者柳田國男がおかんむりだった。
彼は国家神道に批判的で、記紀神話だけが日本の神話だと思ったら、大間違いだぞ! と、かなりな激おこ。
古事記ではなく、日本書紀を見れば分かるように、古代から、神話自体が多様性を持っていた。イザナギ・イザナミの二柱のエピソードだけでも、日本書紀では一書にいわく、として、色々と別の伝承を伝えていたりする。日本人の精神文化がそこに描かれたかのように、言われがちだが、レポートとして実は結構ぬるすぎ。
コンセプトがあってまとめられたのではなく、まとめるのが目的であったと考えるのが自然である。
当然、おとぎ話や神話だけでも、多様性を持った世界がかつてはあったのだ、というのが、日本の民俗学と柳田國男の主張である。(戦前は皇国史観一色だったという、戦後の批判も実はピンぼけ)
一つの価値観で、一つの物語をシェアしていたというのは、近代の印刷技術が流入し、学校教育制度が整備されてきてから。メンバーを連れた桃太郎は、それらのインフラが整って初めて知られるようになるのだ。
もちろん、こっちのバージョンの桃太郎も、魅力的である。
流れてきたものから生まれ、逞しい青年になるというのが、ペルセウスやモーゼと酷似している。彼らから何かインスピレーションがあったのではないかと思うだけで、面白い。
犬猿の仲を取り持って仲間にする。英語を話す鬼から、動物たちが暮らす平和の島々を助け出すなどと、戦時下では物騒な桃太郎(『桃太郎 海の神兵』)まで登場する。(これは日本にだけ非がある訳ではない。アメリカで蒸気船を運転したことで有名になった、黒ネズミくんが、出っ歯で眼鏡の黄色人種をやっつける作品もあるのだから)
戦前、戦中は万世一系の皇国史観が、戦後は経済活動が、日本の価値観であった。そんな粗忽な意見をきくたびに、ざわざわと胸騒ぎがする。柳田の激おこを思い出しているのかもしれない。
決して、単調な世界に、祖先たちは生きていたのではない。地域や時代によって、色彩豊かな世界に生きていたのだ。
悪魔が三つ又の槍を持っているのは、ポセイドンが原型と、 ダン・ブラウンが書いていた。昔からイメージはパクられるのだ。 |
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