少々、悪ふざけしても、いつもにこにこしてる人で、のびのびと稽古をしている姿を見守ってくれていた。
そのOBや顧問の先生に対して、失敗したときだけ、怒った。
いつもより低音が増して、
「もうちょっと、ちゃんとせな、あかんで」
それだけで、みんな深く深く反省した。
その先輩と卒業後、しばらくして再会した。
実家が禅宗のお寺であったので、数年本山にこもったとのお話。
「老師と呼ばれる人たちは、本当に怖いからな」
大きな声を出されるわけでもない。強い口調になることもない。短いフレーズで完膚なきまで、ぴしりと告げる。
その洞察の深さを前に、糊塗しようとしたことなど、瞬時に剥がれ落ちるという。
さて、今は四月である。
金曜日に帰宅していると、角地で新入社員を円陣のように組ませているのに出くわす。
学生気分の浮かれた新入社員が、この時期一番目障りだ。
就職できたことに、浮き足立ち、勝ち組気取りで、ビジネス用語を何やら口に出したがっていた自分のことを思い出すからだ。
その次に嫌いなのが、その新入社員に長説教する先輩社員だ。
案の定、その円陣は指導する社員が憤慨していた。
「……か。それとも、資料を貰っていないと、誰一人言い出さないことは悪くないのか? そこが問題だ」
え? 問題か?
多分、その先輩社員は彼らに配布すべき資料に、漏れがあったのだろう。
先月まで学生だった連中が、資料をくださいといって来なかったことに憤慨しているらしい。
うわぁ、勘弁してくれ。
残業時間と称して、自分の失敗を糊塗するために、長説教するのか。そもそもそれが社会人だとかいうのか? 粉飾決算がばれた後の居直りみたいではないか。
「なに? 資料がない? うわ、忘れてた。すまん、忙しかったから忘れてた。お前らも、気がついたら、もっと言うてこいよ。よし手分けして、コピーすんぞ」
そっちのほうが絶対、盛り上がる。あ、怖い人やけど、失敗もするんや。みんなでしっかりフォローしていかなぁ。
それが「社会人なんだから、大人なんだから、うんたらかんたら。。。」
そんなメッセージは言葉を足せば足すほど通じない。
伝わるメッセージは、もっとシンプルだ。
「自分のミスは他人のせいでもあるんだと、持久戦で言い募れば、ごまかせる」
その程度だ。
問題は、それが新入社員教育と呼べるかどうか、ではないだろうか。
一喝するスキル。大人が自得すべきことは、そこではないだろうか。
要は客観性なんではないか。それがなければ、 食べ方が汚いくせに、スーツのブランドを気にするようなもの。 |
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