日曜新聞
ユゴーが言った。新聞がなければ、フランス革命は起こらなかっただろうと。
新聞社が引用したがるようなフレーズである。
しかしそれは、再生バルプ紙に10ポイント前後のフォントで印刷したものを作れば、社会が変わるというおまじないではない。
ちゃんと紙面に、報道がなされていなければならないし、とっくにそれは紙媒体である必然性はなくなっている。
既存の有力紙がどうあがこうが、もうこの潮流を変えるどころか、脇にそらせることすらままならない。
個人的には新聞を購読したことがない。
一切読まないというワケではないが、ほとんどウェブで事足りるし、そんなに一面の中身にも、広告にも、驚いたことがない。
新聞の社会的価値など、全く懐疑である。
ところが。。。。
日曜日の読売新聞に、編集者と購読者の手紙を紹介するコラムがあった。
年配の女性が、高齢のため、自宅から介護施設に移るとかで、引越しを始めた。
そのときにしまっていた古い手紙が出てきた。
その中に、若かりし頃、デートに誘われた手紙があった。
駅で月曜日に待ち合わせようと書かれてあり、月曜日に出かけた。しかし相手は現れず、しばらくして、それが達筆なために、日曜日と読めなかったことがわかる。
ひどいことをしたという後悔。さらに相手は失恋したのだと諦める手紙まで送ってきた。誤解を解きたいが、ままならぬまま歳月を過ごしてしまったという。
何とか、お詫びだけでもできないものだろうかというような手紙を、編集者が受け取ったと紹介していた。
朝の時間、大学近くの駅を、電車で移動する機会があった。
男子学生はスマホを触り、デジタルなものを使いこなして、その可能性に陶酔し、大声で話していていた。
そういう得意満面な若い男の子を見ると、嫌悪感を覚える。
ネクタイを締めた大人たちが、慣例主義の薄らバカどもばかりだと、思い込んでいた、昔の自分を見せられているような気がして不愉快になる。
後悔することの疼痛に、体をこわばらせている老婆。彼女の背中をどうさすっていいのか、ためらっている編集者。
世にも、やりきれないことばかり。
ゆえに、何か厳かな気持ちになる。我が身一つの、あれこれ勝手を考えることばかりでは、その果てがいかに限られたものであるかと痛感する。
新聞は新聞としての価値がある。ウェブで俗塵にまみれつくしたようなQ&Aが、何でも解決してくれると思ったら、大間違いだ。
俗悪な道徳が、本当に悔やんでいる人の背中をさするとでもいうのか。突き飛ばすだけではないか。
。。。ということまでも、自由に書けるのが、ウェブやブログの魅力。
いいことだけ。ふと、寂しくなったり、悲しくなったり、応援したくなるような社交場として、新聞ありき。
そんな売り方をちゃんとしてくれたら、ひょっとして購読するのかもしれないと思った。
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