独創性というメソッド
音楽のフリーソフトについて
アルゴリズムで実は解決してしまう程度の自由。
フリー素材
音楽のフリー素材を調べる機会があった。結構、ちゃんとした音楽も、無料で聞けるばかりか、使用することもできるという。
便利な時代である。ウェブ環境と、やる気さえあれば大抵のことはできてしまうのではないか。
一方で思った。
作曲できるスキルと、演奏することができるというスキルは今や、全然別物であると。
撮った写真データを、経験知や職人技を必要としないで、デジタル上で現像できるということもきいた。同様のことが、音楽でも起こっているのだろうか。
つまりアーティストとかいう人が、納期に追われてレコーディング・ルームでコクヨのノートに書き付けたテキストに、使いまわしたコードを付け足して、録音したもの。これを結構いい値段で買わされることが少なくなるのではないか。
音楽について、詳しくは知らないが、少なくともデジタルである程度のことができてしまうのだから、人間がクリエイティブな部分をつかさどるには、もっとコアな仕事をしないといけないことになったのだ。
では、クリエイティブとは何か。機械に任せられない仕事ではないか。
ポピュリズムとラッセン
見た目が派手だが、結構飽きるのがラッセンである。好きではない。絵画そのものというより、それを販売するギャラリーとかいう、監禁ビジネスのウザさである。結局、ラッセンの絵画は美術的価値云々を語る前に、田舎者をぼったくるためのものという印象しかない。クリエイターがそれを知っているのなら、共犯だし、知っていないのなら、世間知らずもいいところだ。
そして、第一印象以外に、奥行きがないから嫌いである。インパクトだって商品価値だというのなら、週刊誌の吊り広告だって、すでにアートだ。
総じて、印象とか、自己表現とかをもって、芸術だという、ぱちもんのヒッピーみたいな、尊大さが嫌いなのかも知れない。
何となく、しっくりこないところが、鑑賞する前にいつもあった。
ところが、プラトンがそれを解決してくれた。
彼はいう。
イデア(真の姿の世界)に本質があり、そこから神々を介して美が伝えられる。それが芸術である。そしてその準備をしていた詩人や画家といった芸術家のみが、神々に見いだされる。
つまり向こうからやってくるし、やってこないことも圧倒的に多い。
皮肉にもこうした、「向こうから来る」という発想は、東洋には古くなかった。
ところがインドで大乗仏教ブームが起こると、釈尊の教えは偏在し、語りかけてくるものであるという設定にシフトしていく。(如来=悟りにいたり、カムバックした者という、キャラが成立していくのも、このブーム以降)
自然鑑賞も、教説を感得するための手段であるという発想につながり、禅に濃厚に反映していく。蘇東坡の詩作に現れるし、道元の『正法眼蔵』にも説かれる。
つまり芸術作品は古代ギリシアにおいては、神々が気まぐれに現れ、導いたもの。紀元後のインドにおいては、ブッダの教えを感得した結果の表現の一つ。
どちらも個人の自己表現など、介在しないものであったのだ。
今まで、知っていたことを整理してみて、いたく落ち着く。我田引水であるのか、反証していく余地はある。
だが、少なくとも、写真や音楽がフリー素材になって、誰でもが簡単に、鑑賞することができるようになった時。
あるのかないのか、よくわからないような、自己なるものを頼りに、”表現”などと、大それたことは、自分には到底できない。
ラファエロの描くプラトンは、ダ・ヴィンチをモデルにしてるとか。 というか、ダ・ヴィンチの自画像まんま。ああ、ややこしい。。。 |
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