2015年4月27日月曜日

キャッチなフェイク

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』は難解だが、渡来当初からショッキングなキャッチに、芥川龍之介もドはまりしていたらしい。

数年前に超訳とか、シドニー・シェルダンみたいなことになって、話題にはなった。

かなり早い段階で、有名な台詞がある。

「この老いた聖者は森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」(岩波文庫・氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』)

それが19世紀までのキリスト教の価値観を否定したものだとか、難しいことはまず置いて、何よりもこのキャッチーなフレーズはもてはやされる。

「神は死んだ」

キャッチだけが、よく理解されないまま、一人歩きする。

よく見かけるのが、社会道徳である聖書に真実は書いていないとかいう、ポップ迎合趣味。

でも聖書をよく読めば、がっかりするぐらい、世俗の道徳を否定している。

「品行方正で神と取引などできるとでも思っているのか。左の頬もぶたれて、原罪とは何か、見極めやがれ」とイエス様は説く。

(日本人がイメージするイエス像の多くは、阿弥陀如来をモチーフにしていることが多いから、オリジナルの聖書を読むと、愛や優しさより義が鼻についてしまう)

さらに、神に救われないニヒリズムだというが、ツァラトゥストラのシーンをよく読めば、およそかけ離れている。

朝日の差す山を降りていくツァラトゥストラが、森の聖者と会い、彼が傷つかないように別れたあと、先の独り言をいう。

神の救いを得られない悲嘆だとするなら、こんなに明るく、確信に満ちた言葉で語るのは、シチュエーションとしておかしい。

人間とは、超人とは、を問いかけ、向き合おうするのが、コンセプトであるから、当然だ。全て御心だと、安く割り切ってしまうことをニーチェは否定しただけだ。

などなど。

目立ったキャッチに、つい目がいってしまう。

犬養毅は殺される直前に、こう言った。

「話せば分かる」

話し合えば、どんな難局も乗り越えられるではないか。そんなヒューマンな政治家を連想する。

ところがはずれ。

この言葉は2.26事件の際、押し入った青年将校たちに銃口を向けられて言った言葉である。ほとんど(見逃してくれ)以外の意味は無かった。

ちなみに青年将校の応答はこうである。

「問答無用」バキューン。

いまさら、何ぬかしとんねん、だったのだろう。

どうも、キャッチやイメージが先行する。

しばしばイメージだけで、オリジナルをたどる手間を惜しみ、本質に辿りつた気分になってしまう。

できるだけ、オリジナルに触れるようにしないと。結構、軽薄な結論にミスリードされてしまうのではないか。

大阪都構想の賛否を見ていると、そんな気がする。

具体的な数字を出して、プレゼンしているのと、まやかしだと糾弾する割りに、まやかしめいた説明しかできないのと。


ニーチェの顔もフリー素材

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