数年前に超訳とか、シドニー・シェルダンみたいなことになって、話題にはなった。
かなり早い段階で、有名な台詞がある。
「この老いた聖者は森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」(岩波文庫・氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』)
それが19世紀までのキリスト教の価値観を否定したものだとか、難しいことはまず置いて、何よりもこのキャッチーなフレーズはもてはやされる。
「神は死んだ」
キャッチだけが、よく理解されないまま、一人歩きする。
よく見かけるのが、社会道徳である聖書に真実は書いていないとかいう、ポップ迎合趣味。
でも聖書をよく読めば、がっかりするぐらい、世俗の道徳を否定している。
「品行方正で神と取引などできるとでも思っているのか。左の頬もぶたれて、原罪とは何か、見極めやがれ」とイエス様は説く。
(日本人がイメージするイエス像の多くは、阿弥陀如来をモチーフにしていることが多いから、オリジナルの聖書を読むと、愛や優しさより義が鼻についてしまう)
さらに、神に救われないニヒリズムだというが、ツァラトゥストラのシーンをよく読めば、およそかけ離れている。
朝日の差す山を降りていくツァラトゥストラが、森の聖者と会い、彼が傷つかないように別れたあと、先の独り言をいう。
神の救いを得られない悲嘆だとするなら、こんなに明るく、確信に満ちた言葉で語るのは、シチュエーションとしておかしい。
人間とは、超人とは、を問いかけ、向き合おうするのが、コンセプトであるから、当然だ。全て御心だと、安く割り切ってしまうことをニーチェは否定しただけだ。
などなど。
目立ったキャッチに、つい目がいってしまう。
犬養毅は殺される直前に、こう言った。
「話せば分かる」
話し合えば、どんな難局も乗り越えられるではないか。そんなヒューマンな政治家を連想する。
ところがはずれ。
この言葉は2.26事件の際、押し入った青年将校たちに銃口を向けられて言った言葉である。ほとんど(見逃してくれ)以外の意味は無かった。
ちなみに青年将校の応答はこうである。
「問答無用」バキューン。
いまさら、何ぬかしとんねん、だったのだろう。
どうも、キャッチやイメージが先行する。
しばしばイメージだけで、オリジナルをたどる手間を惜しみ、本質に辿りつた気分になってしまう。
できるだけ、オリジナルに触れるようにしないと。結構、軽薄な結論にミスリードされてしまうのではないか。
大阪都構想の賛否を見ていると、そんな気がする。
具体的な数字を出して、プレゼンしているのと、まやかしだと糾弾する割りに、まやかしめいた説明しかできないのと。
ニーチェの顔もフリー素材 |
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