2015年4月13日月曜日

不可解なり。オウム事件反証

オウム事件で聞いたこと

地下鉄サリンなど、一連のオウム事件のとき、マスコミはもちろん、哲学や宗教学の権威がこぞって教祖を批判した。(中には宗教コメンテーターなる、ふざけた肩書きの輩もいた)。

「ごまかす」の語源は、密教の護摩祈祷であり、うやむやにすることの意味になった、などとでたらめを書いているのも見かけた。

かの教団を批判すれば、金になったのだろう。(ごまかす=胡麻化す。匂いの強い胡麻油を使って素材の質が悪くても、食欲をそそるようにしたが語源であり、護摩=うさんくさいというのは、明治以降の神仏分離以降)。

そんな中で、気になったのは、彼らの教義を否定する意見であった。

教祖のいう「最終解脱」というのは、非常に分かりやすい。理系で計算をして解答を導きだすことに、久しくなれてきた幹部たちにとって、それは魅惑的であった。

「しかし人生とは、不可解なことが多く、決して結論が出るものばかりではない」と。

なるほどなぁ。ぼんやりとそんなことを思っていた。

だが、時間とともに、その意見を明確に認識できるようになった。

結論が出るものばかりではない、だと? 冗談だろ。結論が出るものが、まれにあるだけではないか。

いや、結論が出るような悩みや苦しみだと? そんなものがそもそも、悩みや苦しみの名に値するとでもいうのか。

結論が出ないから、悩むし、苦しむし、それらを総じて、端的に「苦」と表現したのが、仏教ではないか。

彼らを批判していた、宗教的権威者も沢山いた。しかし大同小異、正当性や戒律に触れるだけであった。

娑婆世間に生きている、我々凡夫の苦痛など、結局、龍樹の空を曲解した、眠たいニヒリズムにすり替えるだけで、何一つ迫ってこなかった。今もである。

不可解なり。それこそが生きている証であり、結論を求めて苦しむことから逃げ惑うことが、救いだとでもいうのか。そんなものが最終解脱と、どれほど違いがあるのか。

オウム事件のテロとしての危険性や、彼らのゆがんだロジックに怯えるのは当然である。しかし彼らが恐れていたのは、なんだったのだろう。

それは彼ら自身が、悟りえなかった、生きることの不条理さや、不可解さであったのではないだろうか。そこから逃げ出すようでは、彼らとどれほどの違いがあるのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿