2015年4月29日水曜日

実も蓋もない話のストーカー

関白殿の往生

京都国立博物館で仏教美術について展示をしていたのを見たことがある。

その中で、発掘された経筒をいくつか展示していたが、正直戸惑った。

栄華を極めた藤原氏のものにしては、結構シンプルな装飾で、経典そのものも素朴であった。

おそらく文献に記載が少ないだろう、修験道の影響が大きく、華美な装丁はタブーであったのだろう。素朴な素材を生かすことが、山岳宗教には共通している。

だが、それよりも気になったこと。

それは願意は無視されていないかということ。つまり藤原道長自身の願いがどこにあったのか。

もし阿弥陀如来の極楽往生を願っていたのなら、彼の死後、四十九日以降であれば、効果はさておき、地中からほじくり返されても、道長自身の魂に影響しないはずである。

だが、弥勒往生だとまずい。弥勒菩薩が五十六億七千万年後に現れ、それを供養するために、道長が経典を埋蔵したのだとしたら、たかだか1000年でほじくり返してしまったことになる。

大丈夫か、道長? 現世で富と権力を存分にほしいままにしたのだから、もういいではないか、などというのは、彼の信仰の尊厳を無視した蛮行である。ほじくってもて、ごめんな、が正しい理解ではないだろうか。

彼の往生が実現したのか。展示を見ながら、気になった。

五十六億六千万九百九十九万九千年、埋めてないのだとしたら、実も蓋もないことをしてしまった。


ストーカーの徒労

レーガン大統領が1981年に襲撃された。当時の映像を覚えている。ケネディ暗殺も、こんなショックだったのだろうと思った。

あとで、犯人の男が女優のジョディ・フォスターへの偏執をもっており、大統領を殺して有名になることで、彼女と対等なセレブになれると、とんちんかんなイタイ人であったことを知る。

映画『タクシー・ドライバー』に登場する、フォスターに夢中になったという。好みの問題だが、セレブになるためのプロセスは、どう考えても破綻している。そんな卑怯な近道の、踏み台にされるレーガンの身にもなってみろ、だ。

事件にショックをうけて、ジョディ・フォスターは映画出演を自粛して、『羊たちの沈黙』で戦うFBI捜査官として、勇姿を銀幕に現す。

日本でも、確かコーヒー飲料(コーヒーではない!)のこじゃれたCMに出演していた。

その後、兄の暴露通り、彼女は同性愛者であることをカミングアウトした。

その報に接したとき、やはり戸惑った。

わお、ストーカーの立場、台無し。これも実も蓋もない。

燃え上がる思いで、彼女のことを付きまとっていたのに、彼女自身は(男って、粗忽でウザいわぁ)と思っていたとしたら?

ストーカーめ、ザマみろ、と笑いたくなった。



改修おわった平等院鳳凰堂。
十円玉と見比べにいかねば。。。

儲かる話は儲かるのか

ブログを使った、アフィリエイトについて、セミナーであったり、メルマガであったり、動画であったり。

結構、色々と情報に事欠かない。

本当に、それらを広告抜きにノウハウとして、習得し、収入にできているのだろうか。

アフィリエイトが流行しはじめた頃から、ずっと疑問だったことは、商品価値が商品の魅力を語ることにあることだった。

「こうすれば、儲かる」と語る、ノウハウが商品なのだ。矛盾である。

儲かる話・ノウハウそのものが商品なのだ。

儲かるかどうかの検証や、データの紹介も胡散臭いものである。たまに通帳を撮影した画像を載せているものがあったが、過去三年間更新されていなかった。

一年程度だけ更新して、もう一つ厳しくなって、更新が終わっている。

簡単に設定をすることで、お金がざくざく入ってくる。その方法を紹介するDVDが今なら、格安でとかいう広告も見る。

こんなことを想像する。

お客の少ない、風水グッズ店。製品の魅力を語ることは饒舌だが、その実、効果は見ての通りの閑古鳥ではないかと。

儲かる話で儲けようとすること自体、すでに矛盾している。本来、製品を購入して、使用感をレビューすることで、他のユーザーが購入の参考にする。

これこそが、広告主を介在させない、自由な情報発信であり、ブログの真骨頂なのではないだろうか。

頼まれもしないのに、アップル製品を分解して、構造を紹介したり、前ジージョンのものと比較するのだ。発信者の好奇心と、義侠心こそ、賞賛に値する。それこそが自然体で楽しめる情報なのではないだろうか。

最初から儲けようとして、舌なめずりしている発信者から、それほどお金の匂いはしてこないし、それほど面白味はない。

フリー素材なのに、撮影にお金がかかったのではないだろうか。
とか、いらぬ心配をしてしまう。

2015年4月27日月曜日

キャッチなフェイク

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』は難解だが、渡来当初からショッキングなキャッチに、芥川龍之介もドはまりしていたらしい。

数年前に超訳とか、シドニー・シェルダンみたいなことになって、話題にはなった。

かなり早い段階で、有名な台詞がある。

「この老いた聖者は森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」(岩波文庫・氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』)

それが19世紀までのキリスト教の価値観を否定したものだとか、難しいことはまず置いて、何よりもこのキャッチーなフレーズはもてはやされる。

「神は死んだ」

キャッチだけが、よく理解されないまま、一人歩きする。

よく見かけるのが、社会道徳である聖書に真実は書いていないとかいう、ポップ迎合趣味。

でも聖書をよく読めば、がっかりするぐらい、世俗の道徳を否定している。

「品行方正で神と取引などできるとでも思っているのか。左の頬もぶたれて、原罪とは何か、見極めやがれ」とイエス様は説く。

(日本人がイメージするイエス像の多くは、阿弥陀如来をモチーフにしていることが多いから、オリジナルの聖書を読むと、愛や優しさより義が鼻についてしまう)

さらに、神に救われないニヒリズムだというが、ツァラトゥストラのシーンをよく読めば、およそかけ離れている。

朝日の差す山を降りていくツァラトゥストラが、森の聖者と会い、彼が傷つかないように別れたあと、先の独り言をいう。

神の救いを得られない悲嘆だとするなら、こんなに明るく、確信に満ちた言葉で語るのは、シチュエーションとしておかしい。

人間とは、超人とは、を問いかけ、向き合おうするのが、コンセプトであるから、当然だ。全て御心だと、安く割り切ってしまうことをニーチェは否定しただけだ。

などなど。

目立ったキャッチに、つい目がいってしまう。

犬養毅は殺される直前に、こう言った。

「話せば分かる」

話し合えば、どんな難局も乗り越えられるではないか。そんなヒューマンな政治家を連想する。

ところがはずれ。

この言葉は2.26事件の際、押し入った青年将校たちに銃口を向けられて言った言葉である。ほとんど(見逃してくれ)以外の意味は無かった。

ちなみに青年将校の応答はこうである。

「問答無用」バキューン。

いまさら、何ぬかしとんねん、だったのだろう。

どうも、キャッチやイメージが先行する。

しばしばイメージだけで、オリジナルをたどる手間を惜しみ、本質に辿りつた気分になってしまう。

できるだけ、オリジナルに触れるようにしないと。結構、軽薄な結論にミスリードされてしまうのではないか。

大阪都構想の賛否を見ていると、そんな気がする。

具体的な数字を出して、プレゼンしているのと、まやかしだと糾弾する割りに、まやかしめいた説明しかできないのと。


ニーチェの顔もフリー素材

怒る作法

温厚な先輩がいた。
少々、悪ふざけしても、いつもにこにこしてる人で、のびのびと稽古をしている姿を見守ってくれていた。

そのOBや顧問の先生に対して、失敗したときだけ、怒った。

いつもより低音が増して、

「もうちょっと、ちゃんとせな、あかんで」

それだけで、みんな深く深く反省した。

その先輩と卒業後、しばらくして再会した。

実家が禅宗のお寺であったので、数年本山にこもったとのお話。

「老師と呼ばれる人たちは、本当に怖いからな」

大きな声を出されるわけでもない。強い口調になることもない。短いフレーズで完膚なきまで、ぴしりと告げる。

その洞察の深さを前に、糊塗しようとしたことなど、瞬時に剥がれ落ちるという。

さて、今は四月である。

金曜日に帰宅していると、角地で新入社員を円陣のように組ませているのに出くわす。

学生気分の浮かれた新入社員が、この時期一番目障りだ。

就職できたことに、浮き足立ち、勝ち組気取りで、ビジネス用語を何やら口に出したがっていた自分のことを思い出すからだ。

その次に嫌いなのが、その新入社員に長説教する先輩社員だ。

案の定、その円陣は指導する社員が憤慨していた。

「……か。それとも、資料を貰っていないと、誰一人言い出さないことは悪くないのか? そこが問題だ」

え? 問題か?

多分、その先輩社員は彼らに配布すべき資料に、漏れがあったのだろう。

先月まで学生だった連中が、資料をくださいといって来なかったことに憤慨しているらしい。

うわぁ、勘弁してくれ。

残業時間と称して、自分の失敗を糊塗するために、長説教するのか。そもそもそれが社会人だとかいうのか? 粉飾決算がばれた後の居直りみたいではないか。

「なに? 資料がない? うわ、忘れてた。すまん、忙しかったから忘れてた。お前らも、気がついたら、もっと言うてこいよ。よし手分けして、コピーすんぞ」

そっちのほうが絶対、盛り上がる。あ、怖い人やけど、失敗もするんや。みんなでしっかりフォローしていかなぁ。

それが「社会人なんだから、大人なんだから、うんたらかんたら。。。」

そんなメッセージは言葉を足せば足すほど通じない。

伝わるメッセージは、もっとシンプルだ。

「自分のミスは他人のせいでもあるんだと、持久戦で言い募れば、ごまかせる」

その程度だ。

問題は、それが新入社員教育と呼べるかどうか、ではないだろうか。

一喝するスキル。大人が自得すべきことは、そこではないだろうか。

要は客観性なんではないか。それがなければ、
食べ方が汚いくせに、スーツのブランドを気にするようなもの。

2015年4月22日水曜日

いいことだけ新聞

日曜新聞

ユゴーが言った。新聞がなければ、フランス革命は起こらなかっただろうと。

新聞社が引用したがるようなフレーズである。

しかしそれは、再生バルプ紙に10ポイント前後のフォントで印刷したものを作れば、社会が変わるというおまじないではない。

ちゃんと紙面に、報道がなされていなければならないし、とっくにそれは紙媒体である必然性はなくなっている。

既存の有力紙がどうあがこうが、もうこの潮流を変えるどころか、脇にそらせることすらままならない。

個人的には新聞を購読したことがない。

一切読まないというワケではないが、ほとんどウェブで事足りるし、そんなに一面の中身にも、広告にも、驚いたことがない。

新聞の社会的価値など、全く懐疑である。

ところが。。。。

日曜日の読売新聞に、編集者と購読者の手紙を紹介するコラムがあった。

年配の女性が、高齢のため、自宅から介護施設に移るとかで、引越しを始めた。

そのときにしまっていた古い手紙が出てきた。

その中に、若かりし頃、デートに誘われた手紙があった。

駅で月曜日に待ち合わせようと書かれてあり、月曜日に出かけた。しかし相手は現れず、しばらくして、それが達筆なために、日曜日と読めなかったことがわかる。

ひどいことをしたという後悔。さらに相手は失恋したのだと諦める手紙まで送ってきた。誤解を解きたいが、ままならぬまま歳月を過ごしてしまったという。

何とか、お詫びだけでもできないものだろうかというような手紙を、編集者が受け取ったと紹介していた。

朝の時間、大学近くの駅を、電車で移動する機会があった。

男子学生はスマホを触り、デジタルなものを使いこなして、その可能性に陶酔し、大声で話していていた。

そういう得意満面な若い男の子を見ると、嫌悪感を覚える。

ネクタイを締めた大人たちが、慣例主義の薄らバカどもばかりだと、思い込んでいた、昔の自分を見せられているような気がして不愉快になる。

後悔することの疼痛に、体をこわばらせている老婆。彼女の背中をどうさすっていいのか、ためらっている編集者。

世にも、やりきれないことばかり。

ゆえに、何か厳かな気持ちになる。我が身一つの、あれこれ勝手を考えることばかりでは、その果てがいかに限られたものであるかと痛感する。

新聞は新聞としての価値がある。ウェブで俗塵にまみれつくしたようなQ&Aが、何でも解決してくれると思ったら、大間違いだ。

俗悪な道徳が、本当に悔やんでいる人の背中をさするとでもいうのか。突き飛ばすだけではないか。

。。。ということまでも、自由に書けるのが、ウェブやブログの魅力。

いいことだけ。ふと、寂しくなったり、悲しくなったり、応援したくなるような社交場として、新聞ありき。

そんな売り方をちゃんとしてくれたら、ひょっとして購読するのかもしれないと思った。

2015年4月19日日曜日

プラトン的

プラトンのいうイデア

独創性というメソッド
音楽のフリーソフトについて

アルゴリズムで実は解決してしまう程度の自由。

フリー素材

音楽のフリー素材を調べる機会があった。

結構、ちゃんとした音楽も、無料で聞けるばかりか、使用することもできるという。

便利な時代である。ウェブ環境と、やる気さえあれば大抵のことはできてしまうのではないか。

一方で思った。

作曲できるスキルと、演奏することができるというスキルは今や、全然別物であると。

撮った写真データを、経験知や職人技を必要としないで、デジタル上で現像できるということもきいた。同様のことが、音楽でも起こっているのだろうか。

つまりアーティストとかいう人が、納期に追われてレコーディング・ルームでコクヨのノートに書き付けたテキストに、使いまわしたコードを付け足して、録音したもの。これを結構いい値段で買わされることが少なくなるのではないか。

音楽について、詳しくは知らないが、少なくともデジタルである程度のことができてしまうのだから、人間がクリエイティブな部分をつかさどるには、もっとコアな仕事をしないといけないことになったのだ。

では、クリエイティブとは何か。機械に任せられない仕事ではないか。

ポピュリズムとラッセン

見た目が派手だが、結構飽きるのがラッセンである。好きではない。絵画そのものというより、それを販売するギャラリーとかいう、監禁ビジネスのウザさである。

結局、ラッセンの絵画は美術的価値云々を語る前に、田舎者をぼったくるためのものという印象しかない。クリエイターがそれを知っているのなら、共犯だし、知っていないのなら、世間知らずもいいところだ。

そして、第一印象以外に、奥行きがないから嫌いである。インパクトだって商品価値だというのなら、週刊誌の吊り広告だって、すでにアートだ。

総じて、印象とか、自己表現とかをもって、芸術だという、ぱちもんのヒッピーみたいな、尊大さが嫌いなのかも知れない。

何となく、しっくりこないところが、鑑賞する前にいつもあった。

ところが、プラトンがそれを解決してくれた。

彼はいう。

イデア(真の姿の世界)に本質があり、そこから神々を介して美が伝えられる。それが芸術である。そしてその準備をしていた詩人や画家といった芸術家のみが、神々に見いだされる。

つまり向こうからやってくるし、やってこないことも圧倒的に多い。

皮肉にもこうした、「向こうから来る」という発想は、東洋には古くなかった。

ところがインドで大乗仏教ブームが起こると、釈尊の教えは偏在し、語りかけてくるものであるという設定にシフトしていく。(如来=悟りにいたり、カムバックした者という、キャラが成立していくのも、このブーム以降)

自然鑑賞も、教説を感得するための手段であるという発想につながり、禅に濃厚に反映していく。蘇東坡の詩作に現れるし、道元の『正法眼蔵』にも説かれる。

つまり芸術作品は古代ギリシアにおいては、神々が気まぐれに現れ、導いたもの。紀元後のインドにおいては、ブッダの教えを感得した結果の表現の一つ。

どちらも個人の自己表現など、介在しないものであったのだ。

今まで、知っていたことを整理してみて、いたく落ち着く。我田引水であるのか、反証していく余地はある。

だが、少なくとも、写真や音楽がフリー素材になって、誰でもが簡単に、鑑賞することができるようになった時。

あるのかないのか、よくわからないような、自己なるものを頼りに、”表現”などと、大それたことは、自分には到底できない。

ラファエロの描くプラトンは、ダ・ヴィンチをモデルにしてるとか。
というか、ダ・ヴィンチの自画像まんま。ああ、ややこしい。。。

2015年4月16日木曜日

自信なきブログ

面倒くさい更新

ブログを更新していくのが、面倒くさい。SNS全盛の時代に、ブログを書いて、主張するのが気恥ずかしい。

そんな理由でブログをはじめないという人の意見を聞いた。

なるほど。ふとかえりみて自分がやっていることはなんなのだろうかと、不安になってくる。

頼まれもしないのに、更新をしているし、更新したらしたで、SNSを使って案内したり。

面倒くさいし、どうして、わざわざそんなことをしないといけないのだ。

だが、ふと思った。書いてみたいと思うことがしばしばある。そして、他の代償行為でごまかしたり、継続という新たな試みを放擲して、何か自分を甘やかすための逃げ口上を並べたてる、浅ましさを嫌悪する。

書きたいなら、書けばいい。飽きたなら、苦痛であると面白く書けばいい。心地いいことを積み重ねることだけが、幸福ではないのだ。そんなものだけが、幸福なのなら、違法ドラッグ常習者が幸福を実現するために、努力している理想ではないか。そんな短絡的なことなど、人間には耐えられない。

退屈でも更新せざるを得ない

毎日更新して、何か実るか。何か商品を紹介して、アフィリエイトの実績を小出しに公開して、会員制メルマガで儲けてみたい。SEOについて、もったいつけたことを言うてみたい。

でも、それだけが目的なら、なんとなく寂しい。

お金にならないのなら、やはり遊びでいいではないか。

頼まれてもいないのなら、やはり遊びでいいではないか。

好きなことや、気になったこと。書いてみたいと思ったことを、できるだけ、頻繁に更新する。

だから、テレビ番組の感想や、週末の旅行記もあるなかで、結構趣味に突っ走り続けるものを書き続けていけばいいと、最近になって、自覚しなおしている。

気になるもの。

フリー素材である。

チベット仏教のタンカ(仏画)を見た中で面白かったのは、伝統的な背景に対して、描かれた高僧だけが禅の頂相(僧侶を描いた絵画)のような墨絵であったもの。

現今のナーバスな社会状況とは別に、もともと交流があって、中国とチベットはコラボ作品を残していたのだ。

それと同じようなものを、フリー素材の絵画で見つけた。

清朝にしてみれば、歴代王朝の中華思想も継承していることになり、前提は自国が世界の中心であるという自負がある。

しかし彼らのいう西の蛮族の絵画技法である、油絵を取り入れて、勇壮な皇帝の姿を描こうとする。

ヘレニズム文化として、彫刻家たちが仏像を彫ったときに、インド人たちはきっと思っただろう。

「え? ブッダって、こんなんか? なんかイメージあわんけどなぁ。原作の仏伝とちょっと違うかも」

要はコラボである。

フリー素材の中から拾った乾隆帝
伝統的女真族の衣装にロマン派の馬というコラボ作品

2015年4月13日月曜日

不可解なり。オウム事件反証

オウム事件で聞いたこと

地下鉄サリンなど、一連のオウム事件のとき、マスコミはもちろん、哲学や宗教学の権威がこぞって教祖を批判した。(中には宗教コメンテーターなる、ふざけた肩書きの輩もいた)。

「ごまかす」の語源は、密教の護摩祈祷であり、うやむやにすることの意味になった、などとでたらめを書いているのも見かけた。

かの教団を批判すれば、金になったのだろう。(ごまかす=胡麻化す。匂いの強い胡麻油を使って素材の質が悪くても、食欲をそそるようにしたが語源であり、護摩=うさんくさいというのは、明治以降の神仏分離以降)。

そんな中で、気になったのは、彼らの教義を否定する意見であった。

教祖のいう「最終解脱」というのは、非常に分かりやすい。理系で計算をして解答を導きだすことに、久しくなれてきた幹部たちにとって、それは魅惑的であった。

「しかし人生とは、不可解なことが多く、決して結論が出るものばかりではない」と。

なるほどなぁ。ぼんやりとそんなことを思っていた。

だが、時間とともに、その意見を明確に認識できるようになった。

結論が出るものばかりではない、だと? 冗談だろ。結論が出るものが、まれにあるだけではないか。

いや、結論が出るような悩みや苦しみだと? そんなものがそもそも、悩みや苦しみの名に値するとでもいうのか。

結論が出ないから、悩むし、苦しむし、それらを総じて、端的に「苦」と表現したのが、仏教ではないか。

彼らを批判していた、宗教的権威者も沢山いた。しかし大同小異、正当性や戒律に触れるだけであった。

娑婆世間に生きている、我々凡夫の苦痛など、結局、龍樹の空を曲解した、眠たいニヒリズムにすり替えるだけで、何一つ迫ってこなかった。今もである。

不可解なり。それこそが生きている証であり、結論を求めて苦しむことから逃げ惑うことが、救いだとでもいうのか。そんなものが最終解脱と、どれほど違いがあるのか。

オウム事件のテロとしての危険性や、彼らのゆがんだロジックに怯えるのは当然である。しかし彼らが恐れていたのは、なんだったのだろう。

それは彼ら自身が、悟りえなかった、生きることの不条理さや、不可解さであったのではないだろうか。そこから逃げ出すようでは、彼らとどれほどの違いがあるのか。

誤植なカルチャー

角ニョキニョキ

ミケランジェロ作モーゼ像が、チャールトンヘストンやクリスチャンベールより魅力的である。
筋骨隆々とした、偉丈夫の男だが、注目すべきは頭部である。
角が二本ついているのだ。
エジプトを脱出して、十戒を受け取ったあと、「顔の肌が光っている」というくだりを、「角が生えている」と誤訳された。
それを忠実にビジュアライズすると、こうなる。
ちなみに十戒を掘った石版のことを、英語ではtablet
ジョブズはちょっとしたモーゼ気分やったんやろうか。
十五世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明するまで、聖書は筆写されたものを、聖職者のみが読むことが許されていたため、間違っても、そのまま。
「あの、なんで角はえてるんスか?」
「だって、モーゼだろ?」
本当は誤植なのに、ミケランジェロも、こう思ったはず。十戒を受け取ったショックで角ニョキニョキ。。。
誤植だから、悪いというのであれば、ミケランジェロのこの名品も、失敗作である。そんなばかな。


誤植も文化

アジアの文化も負けてはいない。
元々、インドの髪を結って、頭頂部に乗せていたヘアスタイルが、仏像として表現された際に、頂髻相(ちょうけいそう)として定義される。
悟ったから、頭が良くなって、頭部も形が変わったんだという説が、まことしやかに唱えられる(三十二相)。
インドには無い説明であり、中国を経由した時に、バージョンアップして日本に伝えられる。
はっきりいって、誤植である。というか、勘違いである。
だからこそ、これを否定してしまうと、日本の仏像はほとんど成立しない。
オリジナルのテキストにたどらないといけないというのは、どの業界でも同じである。
国を安んじるために闘った人々を祭る神社だからこそ、靖国(やすくに)神社なのに、英語表記はwar shrine(戦争神社)。そりゃ、海外から宣戦布告を疑われるだろう。
モーゼに角があったのか、お釈迦さんの頭は膨らんでいたのか。
想像してみるのが、楽しいし、そこに不幸はない。誤植の許容範囲は、これが適切なのではないだろうか。

2015年4月12日日曜日

野蛮人の群れ

金とか暴力の神様なんて

正倉院展が毎年秋に奈良国立博物館で行われる。千三百年前の、天平文化の文物を、半チャンラーメン+餃子セット程度の値段で見ることができる。

千三百年前に、我々の祖先がここに住んでいたし、こうした文化を育む余力があった。

保守的な政治を支持する人の中には、経済効率を最優先すれば、全て解決などという粗忽者もいるやに聞く。聖武天皇が経済推奨をしていたとでも、いうのだろうか。ずいぶんな言い草である。

ISはまるで伝統的イスラム文化に基づいた価値観で、近代国家を樹立したかのように主張している。

ところが、偶像崇拝だからと、メソポタミア文明の文化財を無造作に破壊している。女性を奴隷として売買し、異教徒と闘うことに汲々としている。

一昔前のハリウッド映画で描かれる、イスラム教徒は語彙が少なく、感情的で、間抜けなお人好しである。

ところが、アラビアン・ナイトで描かれているキリスト教徒は、臆病で、神経質な優男である。

お互いの無理解が、ステレオタイプのキャラクターを作り上げるのだろう。それは無知の証拠というべきである。

ましてや、異教徒に怯え、文化財を破壊することで、腕力を誇示しようとしているのだとしたら、おかしい。あまりにもキリスト教文化圏の考えるステレオタイプのテロリストを模倣している。

まさか伝統的ムスリムとかいいながら、孫引きのイスラム文化をつぎはぎしているのではあるまい。

彼らが宣伝しているのは、正当なカリフによるイスラム文化の復興でもなんでもない。文化を愛する余裕のない、多国籍なチンピラの掃き溜めがあり、そこでは誘拐と人殺しさえすれば、食べていけるし、神様の名前を借用すれば良心の呵責にも苦しまずにすむ、という程度ではないか。それが冒涜であるかどうかは別にして。


代償行為テロリズム

2001年にタリバンはバーミヤンの大仏を破壊した。木っ端みじんである。

あの報道映像をみた時に、嫌悪感を感じたのは、やはり文化財への無理解である。

では、あれがキリスト教のイコンであったり、ユダヤ教にちなんだものであったり、コーランであったとしても、やはり同じように不快感を覚えただろう。

ローマ法王やダライ・ラマ法王に向けて、批判のメッセージを送るなど、文明的な方法は使わない。その代わり、バーミヤンの大仏に爆弾を仕掛けて、スイッチを入れる。

それが強さだとでもいうのだろうか。

あの時、タリバンが発したメッセージは結局、強さでも、恐怖でもなんでもない。代償行為しかできない臆病者であることと、文化について理解の浅い、おつむてんてんなことでしかない。

現代、日本国内にムスリムは少なく、イスラム教徒の人口は圧倒的にマイノリティであるため、テロの脅威に直結しにくい。

その代わり、春日大社や東寺、唐招提寺といった寺社仏閣に対して油をかける、不貞な輩に戸惑っている。

どんな主張や、怨恨があるにしても、敵対する権威に直接立ち向かわず、もの言わぬ物体を傷つけるのは、単なる代償行為でしかない。群衆で日の丸燃やすのは結構だが、日本に来てから、同じことをする覚悟はないんだろ? だ。

東大寺は平安時代末期に、一度焼失している。

強訴に及ぶ東大寺の僧兵たちに対して、報復に平重衡が焼き討ちにする。(この罪で父清盛が熱病に犯されて死ぬというのが平家物語のエピソードであるが、仏教的な道徳観からいっても、ちょっと無理がある)

聖武天皇の勅願で企画され、行基菩薩が寄進を募って、実現した東大寺の大仏が、真っ黒クロスケになってしまう。

その結果、どうなるか。日本の仏教文化は衰退し、無くなってしまうのか。

実は全く逆。

頼朝が征夷大将軍になって、平家がいなくなると、再建するために、僧侶たちが仏教とは何かの問いに、答えを明確にしようと、思索にふけ、勧進につとめる。鎌倉仏教と呼ばれるムーブメントはここからはじまった。

皮肉にも、戦災によって被害をうけたからこそ、希望とは何かを真摯に見つめ直し、教えをバージョンアップしたのだ。

ISしかり、寺社への物損しかり、冒涜は結果として、本質を深めることにつながるのではないか。この矛盾。

テロリストも、愉快犯も恐れるに足りない。不快なだけ。夏場の夜に、冷蔵庫の裏に逃げる、あの陰の気配のようなものである。

日本には馴染みが薄い涅槃像
真似して肘枕で願い事したら、多分怒られる。

2015年4月11日土曜日

別バージョン昔話

桃太郎のソロ活動

母が岡山県出身であり、修学旅行か何かで、鬼が島と呼ばれているところの景観が、いかにもそれらしく、波が荒れ狂う場所であったと、語っていた。

岡山県は桃の名産地である。そうか。桃太郎の伝承は岡山のものだったのか。

ところが別のものもあることを知る。

夫婦が山へ散策し、母が弁当を開いていると、大きな桃が落ちてくる。

その桃を持って帰り、暖めたところ中から、男の子が生まれる。

彼が大きくなり、留守番をしていると、からすが手紙を持ってくる。鬼からの手紙で、きびだんごをもってこいという。

母に頼んで、きびだんごをもって鬼の島にいく。きびだんごを鬼たちに与えると、彼ら眠りこけ、捕まっていた姫を助け出すことに成功する。

それが広く知られて、長者になったという。岩手県で伝えられたバージョンの桃太郎である。

え? 猿とか犬とかのメンバーは?

柳田國男ぷんすか

なんの随筆だったか、民俗学者柳田國男がおかんむりだった。

彼は国家神道に批判的で、記紀神話だけが日本の神話だと思ったら、大間違いだぞ! と、かなりな激おこ。

古事記ではなく、日本書紀を見れば分かるように、古代から、神話自体が多様性を持っていた。イザナギ・イザナミの二柱のエピソードだけでも、日本書紀では一書にいわく、として、色々と別の伝承を伝えていたりする。日本人の精神文化がそこに描かれたかのように、言われがちだが、レポートとして実は結構ぬるすぎ。

コンセプトがあってまとめられたのではなく、まとめるのが目的であったと考えるのが自然である。

当然、おとぎ話や神話だけでも、多様性を持った世界がかつてはあったのだ、というのが、日本の民俗学と柳田國男の主張である。(戦前は皇国史観一色だったという、戦後の批判も実はピンぼけ)

一つの価値観で、一つの物語をシェアしていたというのは、近代の印刷技術が流入し、学校教育制度が整備されてきてから。メンバーを連れた桃太郎は、それらのインフラが整って初めて知られるようになるのだ。

もちろん、こっちのバージョンの桃太郎も、魅力的である。

流れてきたものから生まれ、逞しい青年になるというのが、ペルセウスやモーゼと酷似している。彼らから何かインスピレーションがあったのではないかと思うだけで、面白い。

犬猿の仲を取り持って仲間にする。英語を話す鬼から、動物たちが暮らす平和の島々を助け出すなどと、戦時下では物騒な桃太郎(『桃太郎 海の神兵』)まで登場する。(これは日本にだけ非がある訳ではない。アメリカで蒸気船を運転したことで有名になった、黒ネズミくんが、出っ歯で眼鏡の黄色人種をやっつける作品もあるのだから)

戦前、戦中は万世一系の皇国史観が、戦後は経済活動が、日本の価値観であった。そんな粗忽な意見をきくたびに、ざわざわと胸騒ぎがする。柳田の激おこを思い出しているのかもしれない。

決して、単調な世界に、祖先たちは生きていたのではない。地域や時代によって、色彩豊かな世界に生きていたのだ。

悪魔が三つ又の槍を持っているのは、ポセイドンが原型と、
ダン・ブラウンが書いていた。昔からイメージはパクられるのだ。



2015年4月10日金曜日

VS狩猟民族

日本人論のぶれ幅

日本人論そのものに興味はない。ほとんどが曲学阿世であるし、読み手が欲するものを上目遣いに書きなぐった程度の稚拙さしかないからだ。

しかし、それだからこそ、日本人論の変遷が本当は面白い。
例えば、大正時代に書かれた文芸作品のなかで、日本人男性は弱きを助け、強きくじく、勇猛果敢を美徳として登場する。その強さは、わずか百年にして日清日露戦争に勝ったんだぜ、えっへんと。

単に文芸作品かと思いきや、同じ論調で時局を語ることが行われ、三国干渉に負けた政府の臆病さを痛罵する。

俺たち日本人がアジアを助けないでどうするのだと。

これが一転するのが、戦後である。

私たち、罪深い日本人ごときが申し上げるのはおこがましいのですが、ぐらいの卑屈さである。手のひらの裏返し加減は半端ない。

実はどっちも軽薄。極端に振れただけで、実際は娑婆のムードに便乗してるだけ。

チャラくても、全然いいっショ。なんつーか、考えんの、何か、だりーし。

そう。この軽さが魅力なのだ。本質とかって、ウザくない? なのだ。


農耕民族

しばしば狩猟民族VS農耕民族という対比で語られるのを目にする。(幸いテレビで、ごくまれに)

ハレとケを、文化理解のキーワードに定義したのは、折口信夫である。

日本人の起源が南方にあると考えたのは、柳田國男である。
では、狩猟民族は?

戦後の和辻哲郎である。

これは実は一番欠陥アイデアなのだ。

狩猟民族は厳しい自然環境に生きてきて、時に非情になるが、それが現代では緊張に強い性質に生きる。

農耕民族は牧歌的な環境にあったため、温厚な性質をもっているが、それが現代の緊張した国際関係では弱さになる。

そんなことをまことしやかに語られるのを、聞いたことがある。

何となく違和感を感じた。

そして、それは正解だった。

狩猟民族が緊張に強く、国際競争に強いというのであれば、13世紀に東西の文明を始めてつなぎ、世界史を誕生させたモンゴルは、なぜ世界一の経済大国になっていないのだろう。

かぼちゃの語源であるぐらい、我々と同じ農耕民族であるカンボジアでは、クメール・ルージュがナチなみに粛正をしているし、あの本家では文化大革命当時に知識人を虐殺していたではないか。

全く、これらについて説明ができないのが、狩猟民族と農耕民族という対比なのだ。

つまり、戦後、日本が負けた理由をスケーブゴートするのに、こうした日本人論が分かりやすかったのだ。俺たち日本人は植木等演じる、お気楽な社員であればいいのだ。だって田子作だったもん、と言いたかっただけなのだ。

およそ、この太鼓持ち程度のあさはかさがたまらなく面白い。もったいつけた物言いだが、実はガムを噛みながら、前髪を掻き揚げて、女の子に指差すようなものだ。

「君ぃ、カワうぃね?」

まさか、彼が何か深いことを言っているとでも?
「いいね」押しときましたというタイトルの写真素材
こういう気遣いができる大人になってみたい。

2015年4月4日土曜日

通とあくび

両切りピースならぬ

ピースは葉の香りに酸味の強い特徴があり、ニコチンも多い。

しかしフィルタが現代のように開発されていなかった時代は、ピースやハイライトが主流であり、昔からどちらもフィルタがない、(フィルタ付きも販売されているが)紙巻きの状態であった。

フィルタの製造技術があがり、マイルド・セブンやセブンスターに主流の地位を明け渡すが、年配の愛好家の間では根強い人気があった。

フィルタでニコチンを少なくして、喫煙の有毒性を緩和しようというのが、浅しいと主張する古老もいた。死ぬ時は死ぬのだと。

そうした中で、リバイバルに90年代後半に発売されたのが、両切りのゴールデンバットであった。

価格が圧倒的に安かったのは、フィルタを使わないからだと思っていた。

しかし違った。

実際はタバコを銘柄ごとに製造する際に、こぼれる葉がある。これらを集めて、作ったという。だから、ピースのような酸味も、ハイライトのような辛みもはっきりしない。いわばブレンドなのだと。

そうとは知らない人が、紙巻きを湿らせないように、渋い顔で唇をすぼめながら、ゴールデンバットを吸って言った。

「色々試したが、一番これが気に入ってる」

 ほんとに? エスプレッソでも、カフェオレでも、ブラックでもなく? 香料を足しただけの缶コーヒーが一番うまいって?

目黒とさんま

三代将軍家光は庶民の生活を知るために、お忍びで江戸を徘徊していたという(後の八代将軍”暴れん坊”吉宗も含めて、どうも鎌倉時代の執権北条時頼をモチーフにした伝承臭いが)。

そのイメージで作られたのが、古典落語の『目黒のさんま』。

お忍びで将軍が江戸を徘徊し、目黒で安い、脂の少ないさんまを食べたのが気に入った。江戸城に帰って、思い出してさんまを所望した。

すると脂の乗った、上等なさんまが出される。殿様がっかり。

「ううん、さんまは目黒に限るな」

というのがサゲ。

食通ぶっているが、おバカ、という揶揄である。間違いなく明治以降の作品。

ゴールデンバットを吸うのもいい。目黒でさんまを食べるのもいい。

しかし、それで通を気取っていると、何とも空しい。

もう一つ、古典落語のお気に入り『あくび指南』。

本当に”粋な”あくびを教えるというところに、行こうと、くま五郎に、連れて行かれる八五郎。

「本当に、風情のあるあくびというのは、春先のうららかな隅田川で釣り糸を垂れて、こくりこくり、ふぁあぁ」

などと、師匠に習っている。その稽古を眺めて、退屈し切った八五郎が思わず、ふぁあぁ。

「おや、お連れがお上手」

というサゲ。食欲にしても、あくびにしても、無心なものかなう訳が無い。

お上手なあくびにございます

2015年4月2日木曜日

失恋よりも手厳しく

アブもはちもなく

長らく更新していなかった、ブログサイトがあった。

サービス元からのメールで思い出した。今年の分まだ払ってないよ? と。

慌てて、カードで支払い、確認する。完全に書いてきたデータが全て無くなっていた。ちょっとへこんだ。

ライター仕事をしていた時のことを思い出した。連日、深夜まで残業して、フラフラになっていた。最後に書かないといけないテキストを、何とかまとめた。

集中力ががた落ちだった。本来なら、ちゃんと保存して、閉じる。しかし本当に集中力ががた落ちだった。目の前で、保存せずにワープロソフトが閉じていくのをぼんやりと見ていた。

壁紙をみて、やっと自分が最後の仕事を、台無しにしたことに気がついた。

アメリカの心理学者が研究した結果、データを消失してしまったフラストレーションは、失恋よりも深く傷つくということが分かった。

(あんなに最後までがんばったデータが、一瞬で消失する>「他に好きな人ができました」という手紙を受け取る)

わお。その通りではないか。


バックアップ

教習所で見せられた映像のなかで、保険に入らない兄さんが事故を起こす話があった。

運転が下手な人が入るもんでしょ? そういって入らなかった兄さんは事故を起こして、気を失う。

気がつくと、病室に妹が見舞いにきてくれている。何となくくらい表情。ごめんな、事故起こして。お母さんたちは? お前も春から大学で準備忙しくないのか?

そう気楽にいう兄さんに、妹がうつむき加減にゆっくり話し始める。

「お兄ちゃんが保険に入っていなかったから、全額支払うことになって、お父さんとお母さんは、親戚中に頭を下げてるところ。私も、春から就職することになったの」

家族にも、迷惑をかけてしまうので、保険には入りましょう。強烈に印象に残っている。午後からの教習だったが、眠気は吹き飛んだ。

サイトやデジタル機器で、一番大事なのは何か。

保険である。それも自分が思いの丈を注ぎ込んで、丹誠込めて作り込んだものを、はした金であきらめさせるようなものではない。バックアップだ。

直前までには戻れないにしても、ちょっと前なら戻ることができる。

バックアップ。予備。控え。弓道でいう二の矢。古武道でいう残心。タンス貯金。

ああ、手痛い失恋は時間でしか癒せなかったが、消失してしまったブログは時間だけでは報われない。かくしてスキルを少しずつのばせるのかの、瀬戸際である。

フリー素材で見つけた写真。
macbookairそっくりのノートPCには旗印キーが。すごいなぁ。

アートはよく分からない

ブロンズが怖い

御堂筋にブロンズ像がある。(ここ

しばしば目にする。どうもロダンやら、キリコやらと聞いたことのある名前もあるが、よく分からない。

時々、ぽっちゃりしたお姉さんが、ほとんどマッパな状態のものもあるが、さっぱり分からない。

何かを表現しているのだろう。しかし渋滞している車より手前に、重たそうなブロンズ像がとびとびに置いてある以外に、何を表現しているのか分からない。

シュール・レアリズムとかはもっと苦手で、置いてけぼり感が半端無い。何か、自分が酷く芸術について、無理解であるような気がしてくる。現代アートとか言われると、半泣きになる。

難解は不毛か

疲れたとき。仕事で緊張状態が続き、金曜日の夜なのに脳の中身がこわばったまま、解きほぐせないことがある。

できるだけ、美術や面白いものに触れるように心がけている。長らく気に入っているのは、ノーマン・ロックウェルである。

表情があり、動きがあり、ユーモアがある。

旧約聖書の中で神様が、愛情の対象として人間を作ったと語られるが、分かるような気がしてくる。

分かりやすいからいい、というのではない。それをいうなら、ラッセンのイラストだっていいはずだが、まるきり魅力が感じられない。(なんばのギャラリーで法外な値段で売りつけられるからかもしれない)

表情や躍動感、臨場感、共感性。時代背景も、社会も、経済観念も異なっていただろうが、彼の描く世界と自分が知っている社会は地続きであるような気がする。

そう確認することで、何となくほぐれてくる。

ブロンズ像で練り上げられ、表現された何かはよくわからない。反面、描かれたロックウェルは色んな音すら聞こえてきそうな気がする。

要は好みの問題なのだろうが、この違いを説明できない。


危ないところで泳ぐ恐怖よりも、怒られることの緊張感
身に覚えがある。

Norman Rockwell [Public domain], via Wikimedia Commons