2015年8月31日月曜日

防災の日の反対側

「天災は忘れた頃にやってくる」

関東大震災の後の、寺田寅彦の名言である。

東京が大規模祭を体験するのは、その前が幕末の安政の大地震だから、68年前。本当に忘れた頃にやってきたのが、関東大震災ではなかっただろうか。

9月1日は防災の日である。関東大震災(1923)が起こった日である。

現在、震災と言われると、岩手県三陸沖地震か阪神・淡路大震災を連想だろう。忘れなければ、震災がこないわけではないが、被災したあとの助かり方は圧倒的に変わる。

経済ではない。経済の打撃が問題であるかのように言われるが、それは一旦でしかない。

阪神淡路大震災後、十年経っても、景気が悪いままだといっていた人がいたが、彼は被災時に頭をぶつけてしまったのだろう。被災する前から景気は悪かったではないか。

ましてや一回や二回の震災で、破綻するような経済や社会システムなど、江戸幕府以下の脆弱さではないか。

防災の日をわざわざ訴えるのは、生産手段もなく、納税義務を持たず、投票権のない子供であろうとも、同じ人間が一人でも助かるようにという悲願が前提にあるからではないか。

人権よりも先に、同胞が苦しみにあっても、なおかつ生きていてほしいと思うからだ。宿願であり、悲願である。業である。

そんなに生き残っていて欲しいと願っているのにも、関わらず、もっと不謹慎な数字が出た。

9月1日の自殺者数である。1973年から2013年までの間で、1972~2013年の42年間の18歳以下の自殺者を日付別に整理すると、9月1日が131人で最も多いのだ。

防災の日だから、備えて、サバイブしようぜ、といっているのにも関わらずだ。この皮肉。夏休み明けに憂鬱になって、思いつめてしまったのだ。

しかしナーバスな問題である。自殺を衝撃的に伝えることで連鎖を引き起こすという警戒から、WHO・世界保健機関の定めた、メディアへのガイドラインがある。http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/link/kanren.html

その中で、センセーショナルに取り上げないように指導されている。

ここでいくつか思うことがある。

センセーショナルに扱わないということの結果、実は避けている。見ないでいる。両手で目を塞いでいるから、存在しないという報道姿勢を感じる(ガイドラインでは、当然の行為のように扱わないと規定されているが、落ち目のタレントの自殺など、残念ぴょん程度の扱いではないか)

遺書がないと、自殺ではなく、変死として扱われるとか。警察庁の発表は3万人でしかない。しかし年間15万人の変死者がいて、その半分を自殺とカウントしたら、11万人弱が自殺とカウントされてもいいという。

いやいや、そんな馬鹿な。それだけの人間が毎年死んでいて、なんともないなんて、法治国家としておかしい。そう思った。

我が国は確か、宣戦布告を過去75年していないし、どこからもされていない。非戦闘状態なのだから、国民が大量に死ぬなんてことはあり得ない。

まてよ? 気になって、東京大空襲を調べてみた。

当時の警視庁の調査が出ている。8万人が死亡。4万人が負傷。え? 足してやっと12万人。

いや、死亡は8万人だと? 空襲で死んだ人たちが8万人で、空襲を受けていないはずの我々が11万人だと? 東京大空襲よりたくさんの人が、一年で死んでいるだと? 非戦闘状態の法治国家で、基本的人権をうざいぐらい主張している国が?

まあ、政府のお口ぽかんなデータなど、そんなものではないか。よかった、遺書がなかったぁ。じゃあ、変死カウント1ね? ぐらいのノリなんだろう。

問題を直視しなければ、存在しないなどと、おまじないみたいなことをいっていてはいけない。

関東軍は負けたことがないから、南方の皇軍も負けないハズ、といっているようなものだ。一億玉砕など、無責任きわまりない。

ひとごとにしない。寺田寅彦が言いたかったのは、NHKの被災者のドキュメンタリーをみて感傷的な気分に浸ろう、ではない。生き残ることに、油断するな、である。

我々の祖先は、霊長類の中でも、高度なコミュニケーション能力で生き残ってきたのだから、自分一人で生き残るより、隣人と助け合った方が圧倒的に生存率が高まる。

助け合うのは美学でも、美徳でもない。本能なのだ。だからこそ、寺田の言葉に意味がある。そしてその反対の自殺にしても、決して他人事にしない。我々には食欲や性欲以外にも、本能があるのだ。助け合う本能があって当然である。

pinkのRaise your glassでも使われた、大戦中のポスターなんだとか。
一般的に知られたのは80年代以降。

2015年8月27日木曜日

本の自炊その後

書籍を断裁し、両面をスキャンしてPDFデータを電子ブックとして読む。

著作権を侵害するとか、結構議論された割に、今や下火である。もう電子書籍が普及したからだろうか。

先日、電化製品をみていると、見開きにした本をスキャンしてくれるスキャナーがあった。見開きで数秒でデータにしてくれる。しかし本をスキャンしようとしたら、相当な時間がかかるだろう。

やはり両面スキャンにかなわない。

8年ぐらい前。断裁機と両面スキャナーを買って、自炊をはじめた時に嗤われた。

「今はページをさっとめくるだけで読み取ってくれるスキャナーがある。それが出回ると断裁なんて誰もしなくなる」

その説明を聞いてみると、国会図書館の貴重書をそうしてデータ化するのだというニュースがあったらしい。

素晴らしい技術だが、絶対市販されるレベルにはならないだろうと思っていた。そして未だに商品化には至っていない。断裁しない見開きスキャナーは上記のように、数秒かかる。

しばしば新しい技術に、目を見張ることがある。

しかしいいものが必ずしも、成功する訳ではない。あっさり市場から消えていったベータは、VHSより格段にいい画像を残していたのではないか。

メーカーがいいといっても、ほとんど信用しない。カッコイイことを売りにしていると、まず除外する。

本当にいいのかどうかを熟慮するのが楽しい。

両面スキャンをするとどうなるのか。蔵書が一つの電子ブックで大量に持ち歩ける。しかも安く買った本を、大事に所蔵しておくより、はるかに取り出しやすい状態で簡単に読み始めることができる。

そうしたことを悩み抜いていくことがいい。そうして失敗したら、心底納得がいく。誰のせいでもなく、自分の悩みが浅はかであったことを痛感し、悔しくてたまらない。たまらないから、いい。

また蔵書をどんどん電子化しようと焦って、岩波の金枝篇をバラしたことが悔やまれてならない(索引が充実しているが、電子書籍だとさっぱり使えない)。

そして今や、電子ブックリーダーが売れていないのだとか。

理由は簡単。

スマホでも電子書籍を読むアプリが、普及しているためである。

スマホとは別に本を読むために、あらたに一台買う必要はないのだ。なるほど。

自分の浅はかさを思う。

国内で販売されるのが待ちきれずに、Kindleを買ってしまった。それもipodを真似て、kindle touchという、日本では流通していないものを。

切歯扼腕。ほぞを噛む、と思いきや、そうでもない。

多少国内販売の方が安いが、そんなに大差はない。そんなことを悔しがるより、本を読んでいる方が楽しい。そういう意味で、心底悔しがれないのは、残念でもある。

こんなに頑丈な上製本は国内でみたことがない。
英語圏は全てペーパーバックの文化だと思ったら大間違いなのかもしれない。

2015年8月25日火曜日

龍谷ミュージアム『迷い続けた人生の旅路 玄奘』にいってみた。

夏目雅子や宮沢りえ、深津絵理が演じたような、可憐な存在ではない。

結構タフな側面と、インテリでありながら、経典翻訳に詩的な才能も持ち合わせていた、魅力溢れる人物として玄奘三蔵を紹介している。

面白かったのは、冒頭から西遊記が日本でどのように消化されていったのかを、現存する江戸時代の読本などで紹介しているところ。

法相宗の祖師たちが集まる図像に描かれたり、玄奘三蔵自身が般若経典に説かれる十六善神に取り囲まれた図像など、フィクションから尊崇の対象となったり、教学上の実像まで。

キーワードとして玄奘を捉えたときに、現れる姿を多角的に紹介している点が面白く、展示品目が他の国立博物館ほど大規模ではないが、充実したセレクションである。

また今回の展示でよくわかったのは、孫悟空という猿の従者がなぜ登場したのかということ。

玄奘三蔵という実在の人物と、猿の従者孫悟空という組み合わせがどうやって誕生したのか、である。

もともと取経僧と動物という組み合わせで、僧侶と虎、馬、というバージョンは玄奘以前から、組み合わせになっており、伝承上のフォーマットであった。

そこに猿が登場したのは、玄奘の特徴のようである。

ではなぜ、猿であったのか。

猿には、器用に蚤をとったり、甲斐甲斐しく他の動物の面倒を見るという姿を、古くから人間は認識していた。

鎌倉時代の日本の厩舎を描いた図像にも、馬の厄除けの守護として猿が描かれる。古代中国においても、馬を守る守護神として猿はその役割を期待されていた。

つまり玄奘が馬に乗って、天竺に渡ろう行こうとしたときに、馬は必需である。そしてその馬を守っているのが、猿なのだ。そう、猿は馬を守り、さらには馬に乗ることで移動できる玄奘を守っているのだ。

こうした設定は実は、すでに我々に馴染みのある設定なのだ。

つまり悟空が憤慨しているのは、妖怪の卑怯さや八戒たちの失敗ではない。何においても、玄奘自身の人の良さにいつも憤る。それは守護者としての、分かりやすい憤りというべきだろう。

その彼が過激な暴力をもって、事態を打開しようとして、しばしば玄奘に叱責を食らう。

キャラクターボードに、猿の従者として登場してから、早い段階で設定された性格というべきだろう。こうした設定そのものが、実は守護者としての猿という隠喩を象徴しているのではないだろうか。

しかしなんといっても、最大の見どころはトルファンの石窟寺院の再現。

龍谷大学の研究チームがNHKとともに調査し、再現した回廊が極彩色豊かに描かれ、くすんだ木造ばかりみてきた日本人の度肝を抜く。

灼熱の砂漠を経て、玄奘もこうした石窟にある、お釈迦さんの前世譚(ほとんどが自己犠牲をモチーフにしている)をみて、何を感じたのだろう。そんな空想は到底、京都市内で歩ける距離に存在するとは思えないだろう。

ちょっと孫悟空が好きとか、シルクロードの話題が面白そうという程度で望んでも、豊穣な文化遺産に魅了される贅沢な展示である。

孫悟空のモデルになったというキンシコウ

2015年8月24日月曜日

使い尽くすためのもの

友人が電気店に勤務したときのことを話してくれていた。

身なりのいい、お金持ちそうな奥様が息子を連れてやってきた。

なんでも、高校受験に合格したご褒美にパソコンを購入したいということであった。

用途にもよるでしょうが、デスクトップがいいか、ノートPCがいいか。どんな風に使いたいか。どんなことをしてみたいか。

そうたずねると、しばし顔を見合わせた末に、母親がこう言った。

「できればいいものを、お願いします」

喉元まで出かかった言葉(ウチは悪いものは取り扱ったおりません)を飲み込んで、見繕った。難しい顔をして、少し割高で、羽振りのいい客がちょっと散財した気分になれる程度の額にした。

使い方を知らないとは、そういうことなのだ。

タブレットPCやスマートフォンが登場するより以前。コンパクトな通信端末といえば、ザウルスやリブレット、シグマリオン、モバイルギアであった。(windows95やwindowsCE、LINUXだったのだから驚きだ)。今のスマホからすれば、失笑もののスペックで今から見ても、結構なお値段したはずである。

特に覚えているのは、リブレットを移動中の原稿作成に使用していると自慢していた初老の編集者であった。

携帯電話や電話回線でインターネットもでき、大人な楽しみのムフフなお姉さん写真も観れるんだぜと自慢していた。

すんごいですねぇ。口でいいながら、思った。ハイスペックが聞いてあきれると。

ウェブブラウザは搭載していたが、はっきりいってお詫び程度。メールも結構華奢であった。

しかし当時にしてみれば、windows95をポッケに入れて、車中でテキスト編集できるのだ。事務所を持ち歩いているようなものだと、驚いた。

その人がその後、スマホを使うようになったかは知らない。
使い方を知らないで、無駄に高いものを買い、持て余してしまうなんて、なんとなく恥ずかしい。いつも思ってしまう。

読みかけで放り出した本や、やりかけて放り出したことに、恥ずかしさを感じる。

使い方を知らないで、やすやすと手を伸ばし、味が薄くなったと泣く、子供のように放り出す。

使い方を知らないことは、恥ずかしい。

ふと思うことは、何も道具やお金に限ったことではないのだろうと思うこと。

使い尽くし、使い切ったのなら、全て納得いく。哲学は全てそう示唆している。

ロリポップキャンディの画像を探していたら見つかったミッキー。
 ぱちもん臭いが中国製ではなさそうなクオリティ。
天神さんの夜店にあったっけ?

2015年8月23日日曜日

京都国立博物館『特別展観 第100回大蔵会記念 仏法東漸―仏教の典籍と美術─』にいってみた。宗派不問の不思議なセッション

仏教東漸を京都国立博物館で開催している。

特別展観といいながら、常設展料金で入れるし、常設展会場であったが、関連展示が充実していたのが特徴的。

仏教の典籍と美術、というサブタイトルの通り、紺地金泥の写経や、経箱、木活字など、活版、装丁、表装というプロセスの、当時の最新鋭な機器が紹介されている。

こうした背景があって、最終的に近代仏教文化の精華、大正時代の大正新脩大蔵経につながっていくことがわかる。

そうしたなかで、特に面白かったのは、各宗祖と呼ばれる人たちの真筆を比較できること。

通常だと、宗祖とその後継者をテーマにすることが多い。そこで終わるから、宗派 を越えて、俯瞰することはまず、ない。

しかし今回は各宗派が京都にたどり着き、展開していった”仏教”という大括りで展示。なんと空海と最澄(御請来目録)、親鸞(教行信証)の真筆と伝えられる文献を間近に見ることができる。

それもそれぞれの宗派で重要な文献であり、結構緊張感をもって書かれたであろう背景を考えると、筆使いも力んだものにみえてくる。

もちろん、日本に渡ってきた仏教は京都ではなく、奈良が先である。そうおもうと、奈良も含めた関連展示があればとも、贅沢に想像してしまうだろう。

チベット語の経典を目録には記載していたが、展示スケジュールが終わっていたのか、見られなかったのは残念。

紙を経本のように折り曲げるのではなく、一葉ずつ両面を読み上げる形式のもの。(ダライ・ラマ十四世は幼少の頃、これを散らかして大目玉を食らったということを自伝で紹介している)

仏教の裾野の広さをより深く堪能できただろう。

一番のみどころはこうした、表現の多様性である。活字あり、イラスト付経典あり、頂相(師匠を描いて提出し、師匠から賛というポエムをつけて返されたら、後継者として認められたことになる)ありと、むにゃむにゃ唱えるための仏画と文字だけと思ったら大間違いの充実さである。

また、外伝的に面白いのは夏の納涼企画か、百鬼夜行図を展示していること。

打ち捨てられた道具たちが、積年の恨みをもって、生き物に化けて練り歩くというストーリーだが、なんの展開もなく、あっさり陀羅尼の功徳で追い立てられて終わる。

その練り歩く描写が一番の面白さ。

現代の漫画のルーツに、葛飾北斎や鳥獣戯画を求めることが多いが、それより先にフルカラーで確立していた表現技法に親しむことができる。(現代の漫画家の多くが、筆を使った表現に一度は挑戦するのも、こうした背景があるからかもしれない)

タイトルがおどろおどろしい割に妖怪たちは、村上豊のイラストか水木しげるの漫画のように、どこまでもコミカル。

仏教伝播の変遷を清流とするなら、傍流たる妖怪たちもあり、清濁合わせて堪能できる。

繰り返すが、内容的にかなり、お値打ちである。

2015年8月17日月曜日

言い訳がましく下書き

書き物の仕事をしていた時のこと。

深夜に書いたものは、翌朝に送信すべしということを言われた。

夜のうちに書いたものは、結構ハイになって、書いてしまうことがある。翌朝、出社して、コーヒーを飲みながら、クールダウンした頭で再読してみると、てんこ盛りになっていたり、全体が支離滅裂であったことがわかる。

チェックは翌朝の自分に発注した方がいいというのだ。

人間の生体を捉えた至言である。夜に書いたラブレターは絶対投函してはならないというジンクスみたいなものだ。

ブログのテキストを書いていく。書いたところで、何か貰えるわけでもないし、書かなかったからといって、痛くもかゆくもない。ただ寝つきが悪い。

思いついて書き始めるが、書いているうちに、別の話題も盛り込む。結構、フォーカスが甘くなる。別のテキストに分けてみる。やった、二つできた。そう思って、二つ目から仕上げる。

ところが、アップロードしようとしていると、ふとある疑問がよぎる。似たような話を書いたのではないかと。

検索してみて、予感が的中する。例えは違うが、落とし込みが大体似ていたりする。もう少し変えるべきは、どこか。考えても仕方邸ので、とりあえず、一つ目を片付ける。片付けようとして、ふとまた思う。同じ話題を取り上げていないか?

検索して、愕然。やっぱり書いていた。しかし今度は違う。

下書きにしたまま。下書きのストックが結構な数になっている。

ならば、ここで仕上げてしまって、と思うのだが、触り始めると物足りなくなる。

ああでもない、こうでもないとしているうちに、眠さがピークになる。

結局、何も書けないで寝てしまうのだ。何か敗北感は否めない。否めないが、仕方ない。幸い、疲れて寝つきはいい。

実は下書きのままで、処理に困っているテキストがある。

一体、なんだって、こんな徒労を繰り返さないといけないのか。

何かを食べたとか、誰かとあったとか、どこにいったとか。そんなブログ記事を書いている人を見ると、タレント気取りか、と思うと同時に思う。羨ましい。いや、そういうときこそ、Facebookやinstagramの出番ではないか。

なんで、わざわざブログに書くのだ。それで記事というのか。羨ましい。。。

下書きの話は書いていないはず。。。というラビリンス。
もっと薄口を目指すべきか。

2015年8月16日日曜日

余はいかにしてmacユーザーとなりしか

自前で最初に買ったのは、確かwin95の売れ残りであったと思う。

Macにすべきか、windowsにすべきか(この二択しか、当時の一般社会にはなかった)。

そうした中で、パソコン通という人が教えてくれた。Macはメモリを増設できないし、一つずつのオプション単価が高い。だからwindows環境でパソコンになれた方がいい。

納得した。こうして旗印派の末席に加わった。

ところがDTPに関係が深い職場に転職すると、mac環境が標準である事を知る。

使いこなせるかどうか。そんな心配をしている暇はなかった。

そして使ってみると、その心配も大半は自前のフィクションであることに気づいた。ちょっとショートカットを習得してしまえば、直感的な操作が可能なのだ。(要はディスプレイで机と引き出しと、ペンとノートを再現して、動かせるようなもの)

それがmacOS Xになったら、もっと加速していく。リアルの机よりはるかに簡単に複雑なことができるのだ。

テレビドラマや、ドキュメンタリーの中で、よくMacBookを使っている風景を見受ける。windowsが売れていないわけではない。Microsoft製品とApple製品でいえば、圧倒的にMicrosoft製品の方が売れているはずだ。

ところが結構な頻度で光るリンゴマークを見受けることが多い。

実は好みの問題以上に、Mac製品の強みが基調にあるように思われる。

つまりApple社自身が公表はしないが、数年使っていくと、それは判明する。

設計が安定している=ハードディスクの経年劣化が少ない=中古製品でも安定している。これが決定的なのではないか。

PCを安価に手に入れようとして、中古のwindowsなど買おうものなら、単に店舗に寄付しているようなものだ。

基本的に古い端末は切り捨てられるという思考で、windowsは設計されている。それによって経済を円滑に回そうというモデルである。

これに逆行しようなど、ビル様に逆らったも同然である。いくら大金を払おうが、間違いなく、2、3年で廃棄処理に困るか、物置の肥やしである。

一見、高いように見えるが、4年目も同じ端末を使いたいなら、Macを使うべきだ。

同じ値段でwindows製品を買えば、きっとハイスペックな物が買えるだろう。しかし結局、安定して使っていくのにはMacほど安定することはない。

Mac信者に対して、いけすかん感じがあったが、この点については議論の余地はない。macbookairMacminiを使っているが、どちらも安定しており、目立った不具合はない。

そしてどちらも中古製品でまかなっているが、古いものを何一つ感じさせない。(これがwindowsであったら、各社が好き勝手にデザインしたフォルムで、3年も経てばレトロ感を否めなくなる)

Apple製品を全て褒めるのが、Mac信者だとするなら、自分はそうではない。

がたがたと見た目の印象ばかり語りたがる、i-osは全然興味がない。何が変わったのか。こんなデザインに。こんなアニメーションに。(まるでXPが出た時のデザインが柔らかくなった程度ではないか)

利便性や機能性に、保守的なMacユーザーは小うるさかったが、いつの間にかVAIOのデザインを語るような、デザイナー気取りではないか。

OS Xは安定していて、長期的に使えて安心だが、i-osは信用できない。

ましてや、なんとなく便利そうで、i-osを使っているが、パソコンを持っていないからキーボード操作ができないなどという若い人をみると、愕然とする。

毎月、1万円弱の通信費と端末代金を支払っているくせに、Macmini3-4万円で買えることに興味はないだと?

ちょっと信じがたい話だが、リアルに起こっていることだ。

携帯会社に完全に踊らされていないか?

ちっさいだけではなく、頑丈でハイスペックだが、
i-osほどは回収率は良くないのか宣伝は大人しいmac mini。

2015年8月15日土曜日

カルパVSゼタバイト

サイトに載せる動画の需要がいかに、今後高くなっていくのか。映像制作会社の人が語っているのを聞く機会があった。

今後、ウェブに上がるデータは増え続け、2020年までには約35ゼタバイト(35兆ギガバイト)へ拡大する見込みというような話であった。

全然ピンとこなかったが、地球上の砂粒を全て集めたのが、1ゼタバイトみたいな、表現をしていた。

壮大な単位である。

そんななかで、動画は圧倒的に認知度が高く、定着率もいいという話であった。

だが、ふと思った。ゼタバイト。似たような表現を以前聞いたことがある。

カルパ(劫)だ。

大智度論の中にある、カルパというの100年に一度天女が降りてきて、400キロ平方メートルの岩をひとなでする。この岩がなくなるまでの時間を指す。(とにかく長い時間という表現を、具体的にしているようで、フィクションを混ぜてしまっているから、全然抽象的で、ニュアンスしか残らない)

それに比べたら、ゼタバイトなど限りあるものだ。

しかしどうして、こんな連想になったのか。

天女が羽衣でこすったのが岩であり、きっと砂粒ができただろうなという想像が、ゼタバイトの説明に変につながったのかもしれない。

科学の先端にある、21世紀のデジタル・ITの用語が、2世紀の仏教論書と変な連想でつながった。

こんなことを考えるのは、自分だけだろうかとふと思ったが、すぐにやめた。

この記事を読んだ人が「ゼタバイト」の説明を聞くたびに、宙に舞う砂粒を連想し、その先には物憂げな天女が巨大な岩から離れていく姿を想像するだろうから。決して、自分だけではない。

空から人が軽やかに降りてきて音楽を奏でるイメージは、
聖書も来迎図も、実は同じ。

戦争の話をしないといけない気分

調子のってんのか批判

日本よりも先にIT化が進んだ国で数年前にあったこと。

テレビ番組で歌い終わった女性歌手がステージを歩いていて、転んだ。幸い怪我はなく、画面から数秒消えただけで終わった。

しかし問題は起こった。

彼女の行動に対して批判が殺到し、彼女のブログやら、番組サイトやらが炎上したのである。

曰く、緊張感が足りない。調子に乗っている。人気が出たから尊大になった。

いやな社会である。直接因果関係がないことに対して、歪な根性論を塗りつけるグロテスク。

目立った人がうっとうしいなら、目をそむければいいのに、執拗に見定めて、糾弾する社会。矮小化した価値観で、平気で他人を裁く社会。低俗な社会正義で、犯人を暴き出す社会。実に息苦しい。

ところが、それが他山の石ではなかった。

6日、9日に、原子爆弾投下とは関係ない日をキャッチにした企業や、タレントが糾弾された。一瞬、無神経だなとも思ったが、はたと気がつく。

そのうち”忘れてはいけない日”尽くしになってしまうのではないか。そういっておきながら、自分自身も、大半のめでぃあ今月末にはとっくに忘れているのではないか。

発表ではなく、雰囲気

地上波でニュースはほとんど見ない。朝は10分程度で足りる。それ以上は見ない。

BSなどで海外ニュースを見ている時がほとんどである。

理由は一つ。

地上波は、どのチャンネルも大抵、読み上げる人が違うだけで、内容は同じだからだ。

言論の自由は現行憲法で保証されている。弾圧など、言語道断である。

だが、今日はこの話題が無難だろうと、選択しているのだとしたら、それは自由とは対極というべきだろう。

大本営発表が戦時中にはあり、その言論統制下にあっては、自由な報道はできなかったという。

しかし実際に、言論の統制に前のめりで貢献していたのは、識者で構成された大政翼賛会と、各地の婦人会である。

国家存亡の危機に瀕して、国民の一致団結を促進するという、正義に基づいて、積極的に戦時の雰囲気を盛り上げていた。むしろその意を 汲まない軍人など、臆病者であり、その意を汲まない報道など、反社会的なものであった。

何も226事件たちの将校が、新聞社を襲撃したように、言論を銃下で封殺したのではない。(もちろん、規制はあったが、ライフルをもった軍人が、新聞記者のデスク脇に立っていたという想像はフィクション。封殺したかのようにいうのは、GHQが東京裁判で行ったパフォーマンスである。そして彼らこそ、原爆被害の実態について、何年も報道を禁じていた)

社会の雰囲気に流されるのではなく、社会でおこった実際の姿を伝えるのが、報道の自由である。そうだとするなら、現代社会は恐ろしいことになっているのではないか。

つまりとっくに、戦時下の政府よりも、視聴者の雰囲気に飲み込まれ、その求めに応じて、南方進出であろうが、連合国敗退だろうが、見たいものを見せているのではないだろうか。真実など、どうでもいいのだと。

そして月末には、すっかり忘れて、夏休み終わり中の水難事故と、ハワイで過ごしたセレブの生活を伝えることに終始して、3週間前は”忘れてはならない日”があったことすら、忘れてしまうのではないか。

ケーブルテレビも、なんとなく戦争と感傷気分である。あんなに人類だの、愛だののために、戦うのがカッコイイといっていたくせに、戦うことの悲惨さを何週間にわたってお届けしてくれるのだ。そうなんかなぁ。。。

戦争の悲惨さを語り継ぐことに意味がある。何も8月だけに限定して、終戦記念日ついで、みたいな姿勢が実は一番不謹慎なのではないか。

年中、感傷的でいろというのはおかしいが、二週間前後、感傷的になりませんか? というのでは、すでに大政翼賛会の発想ではないか?

そんなものは自由ではない。

2015年8月13日木曜日

宇宙人の話

母の実家での話。

近くにある池では、兄が河童を見たという。それを笑っていると、母がいう。

河童は嘘だが、人魂は見たことがあるという。

霊が見えるという申告をする人もいるが、全く見えないという人もいる。自分は一度も見たことがない。

幽霊やおばけを信じているが、見たことはない。

見たことはないが、これだけの人が、一斉に大量に申し合わせたように虚構を語るのは難しいのではないか。自分は見る機会に恵まれていないが、むしろ幽霊がいたほうが、統計的にあり得るのではないかと思っている。

科学的ではないが、確率的にありえると思っていたい。

絶対にいるというのにも、感心できないが、絶対にいないというのにも賛同しかねる。

どちらかといえば、いてほしい。

一度だけ。

夜、暗い台所で、外から微かな物音に目をやると、屋外から光る物体が静かに移動するのに出くわしたことがある。

いくつかの光は、人魂のようなぼんやりした炎ではなく、はっきりと発光したもので、窓ガラス越しに隣家の駐車場で、人間の腰か膝の高さをゆっくりと移動しているのだ。

(宇宙人だ)

そう直感した。映画で確か、屋外から宇宙人が見ているというものがあった。さっと、全身の表面が寒くなる。宇宙人に襲われたら、どうなるのだろうか。どうやって抵抗したらいいのか。いや、今は向こうに見つかっているのか。

じっと引きをひそめる。

発光体はゆらゆらと重そうに移動し、不意に止まる。

そして、次の瞬間である。

バイクのスタンドが起こされる音と、鍵束を引き抜く音がして、発光体が消える。隣家の住人が足音を消し、それでも鍵束を少し鳴らしながら、立ち去っていった。

近隣に配慮したバイカーだったのか。

ほっとした反面、ちょっとがっかりした。

テレビで話しているのを、聞いたことがある。

宇宙人を見たという人の話。

UFOの窓が開いていて、確かに宇宙人が顔を出していたと。なんと、その宇宙人は青い顔をして、口を開き、背後の母親と思しき宇宙人に背中をさすってもらっていたという。

いいなぁ。そういう宇宙人なら、見てみたい。
ストーンサークルの写真を見つけると、
手前に何やら不思議な生き物らしいが!

2015年8月6日木曜日

キーボードは退屈なのだ

キーボードでの入力を、省略したがる人が、何かというと、マウスで操作したがる。

全選択にするのにCtrlとAではなく、マウスでドラック。

検索するのにCtrlとFではなく、ファイルメニューから検索を選ぶ。

そっちのほうが面倒臭いし、肩が凝るのではないかといくらいっても、一旦マウスを使うようになってしまうと、なかなかシフトしようとは思わない。

結果として、マウス全面依存の操作になってしまい、 左手は結構ぼんやりしているという人を、しばしば見る。

macを書物に仕事にしていたときは、先輩が両手で画面を次々にさばいていたのを見て、それを模倣したくて、ショートカットを調べた。

キーボードがまるで、入力を阻害する、悪の権化のようにいう人がいるが、とんでもない。

もともと、キーボードはタイプライターの文字配列を模倣しており、そのタイプライターは英語の入力を適切に行うように工夫された設計なのだ。

つまり英語の中で、もっとも使われる文字列”the"(ポーの『黄金虫』で暗号を解読するのに、theは出てきたはず)が簡単に打てなくなっている。うっかりできなくなっているのだ。

うっかり打って、theを入れられないようにしているし、theを入力するのには、故意に操作しないといけなくなっている。

つまりは入力自体、わざと簡単に入力できなくなっているのだ。

間違えて打ちにくいようになっている。

だから、打ちにくくて当然だし、ローマ字入力ならなおさら、面倒臭くて当然なのだ。

しかし、だから悪いなどと、ものぐさなことをいってはいけない。そもそも煩わしい設計にしていると、わかってしまえば、それ以上は苦痛にはならない。

スマホばかりを触って、結局 入力ができるようになったつもりでも、フリック入力の速度はキーボードに及ぶべくもなく、スキルは低いまま。若い人でそういうのを見ると、なんかいたたまれない。

キーボードは打ちにくく、不便でいいのだ。

「結局、手で書いた方が早い」という人がいるが、
親指シフトユーザーは手書きより早く入力できる。

2015年8月5日水曜日

タダでワードやエクセルを使う方法2

Google docsを使わない理由は説明しにくい

Googleの話。

法人向けサービスgoogle appsの日本公開に合わせて、無料のカンファレンスに参加した時のことを覚えている。

Googleはたくさんの情報をもっているが、gmailアカウントを介して、個人の情報を筒抜けに取得するのではないかという質問があった。

主催者側のGoogleの広報担当者は苦笑いをにじませながら、マイクをもってこう言った。

「情報は大きく三つに分断して、アリゾナのコンテナと各地に保存しています。それを統合しないと、個人情報として価値がない状態です。地球上で、最高経営責任者と副社長2名だけが、それらを統合するキーをもっています。犯罪捜査の要請があった場合、その内の一人が情報を司法機関に提供します」

はっきりいってGoogleの個人情報の管理は、日本の行政機構よりはるかに安定している。(中国の人権運動家のメールを不正アクセスしたのが、北京市近郊のサーバーを経由したという事件があった時は、Googleは中共政府と戦った)

だからといって、複雑なパスワードを求めることもなく、簡単に操作ができて、フリーメールとして使える状態である。

このgmailアカウントを、無料で取得していれば、google docsというサービスも操作できる。

ワードやエクセルがweb環境で使える。(こうしたサービスをクラウドコンピューティングというが、命名したのはGoogle)。

web環境でワードやエクセルが使えるとはどういうことか。

文書の保存を端末に依存しなくていい。osに依存しないということだ。つまり、出先のmacbookで入力したことを、自宅のwindows8で推敲し、会社で出力することができるのだ。

ましてやオフライン環境でも使えるから、ワードやエクセルを購入しないで、そっくりなものを使うことができる。

Microsoftの製品を買わないと、仕事で使えないとすすめる人がいるが、関数を使いこなさないといけない職場は稀であるし、ワードの複雑な操作に習熟しても、仕事を覚えるうちに、ほとんど使わないことが多いことに、がっかりさせられるだろう。

つまりMicrosoftのプロモーション以外に、Microsoft officeが不可欠になる場面というのは、ほとんどない。

Libra office や、Open office 、google docsを使ってみて、操作に慣れてしまうと、職場のMicrosoft officeになれるに、大して時間は必要ない。

Microsoft officeを二万円や三万円で買うために、アルバイトをもう数日して貯金するぐらいなら、さっさとフリーでアカウントをとるか、ダウンロードして、バイトの時間分触った方が、確実にスキルはあがる。

Googleはなぜ、自社にそうした無料のサービスを提供して、世界中から有志がテンプレートを作ってくれているという状況を、宣伝しないのだろうか。

なんのことはない。広告をうって、それで儲けようとしていないのだ。むしろappsやadwordsの収入で儲かっているのだ。

なぜGoogle docsを使わないのか。他人に対して、ふと思うことがある。

自分のようにだらしなく、失せ物が多い人間にとって、アリゾナのコンテナにあるサーバーに、分解された状態で保管してくれる、docsのサービスは、もう生命線といえる。業務上のセキュリティは念のため、遠慮すべきかもしれないが、個人で使う分に は何の不都合もない。

年金が紛失しかけたり、教材の会社が情報漏洩したりと、何かとややこしいことが起こっているが、googleの周りではサーバーの不調情報以外に、聞いたことがない。(隠蔽しようとしているのなら、もう妄想なみに規模が壮大すぎ)

だから、安心して、活用し、料金を請求してこない以上は使い倒して正解なのだ。

使わない人に、決して薦めたりしない。薦めたところで、無料だから何となく不安という理由で、どうせ使わないことが多い。

ましてや、不安がる人には、気持ちよく不安がってもらえるように、こういう。

「やっぱり多少値段は高いけど、Microsoft officeを買わないと。どこの会社でも使っているし、購入しないと使えるようにならないからね」

深刻に、大げさに、難しい顔をして言う。おちょくられたことに気づかず、怯える人は嬉々として不安がる。お金がない人は、心ゆくまで惨めな気分に浸る。

キーボードが操作できて、web環境があれば、もう手に入ったも同然、とは教えない。説明しても、不安がられることが多いからだ。

そこまでカウンセリングみたいにして、説明するのは、疲れる。冷たい言い方だが、不安な感情を最優先したい人にかけられる言葉はない。

だから、情報を集めて、無料でも使ってみようとする人には教えたい。

God save google.

chromeosを使うほどではないが、Google信者の末席としての本音である。
Microsoft officeがないとスキルアップできないなんて、
モンブランかパーカーがないと文字が書けないといっているようなものだ。

2015年8月4日火曜日

夏だからって読まなくても

なんとなく名作文学

日用雑貨のレジの横に、しおりのプレゼントがあった。見たことのない動物キャラクターがあしらわれ、一冊買うと、おすきなものが選べるらしい。

やだなぁ、といつも思う。

夏休みの課題図書、読みましょうキャンペーン。実は書店も持て余して、返品しているのが、このキャンペーンらしい。

十代に人気のタレントに、文庫を持たせて、本を読むのがおしゃれであるかのような、80年代のカドカワみたいなプロモーションを、競って版元はやりたがる。

やだなぁ。どうせ、ガキどもは中原中也も太宰治も読みはしない。ブックオフでゲームに変わるだけだ。何より、自分自身がその手の名作文学ではなく、柴田練三郎や隆慶一郎といった作家に、首まで使っていたし、そこに後悔はない。

若い人は古典を読まない、など、知った顔で語るのはいけすかん。では、大人がいう古典とは何か。せいぜい、夏目漱石やら芥川やら、近代文学の端をかじった程度ではないのか。

ソクラテスやアリストテレス、四書五経を読破したとでもいうのか。

若い人はものを知らないなどというが、老いたものでも、物を知らない人はいるが、取り繕うのがうまい人はたくさんいる。それをもって、経験知だとするなら、人間は実に浅ましい。成長など到底いえない。

高校生か、中学の夏、吉川英治の初期『龍虎八天狗』を貪るように読みふけった。内容はすっかり失念したが、徳川を倒すために、忍者が丁々発止するのに、夢中になった。

就職してからも、山本周五郎や大佛次郎に夢中になった。

考えてみれば、夏は関係ない。読みかけて、よく昼寝をした。

春でも、冬でも、面白ければ、いつでも読んでいたではないか。

なんで、夏だから、名作を読まないといけないのだ。そもそも古典だからと、なんでもかんでも読めばいいのか? チャタレイ夫人の恋人だって、毛皮をきたヴィーナスだって、ロリータだって、カーマ・スートラだって古典ではないか。

それがダメで、芥川はいいと、誰が決めた。我輩は猫であるとか、坊ちゃんはよくて、こころや、それからがダメなんて、誰が決めた。

どうも胡散臭い。
電子書籍が普及すると、国家が国民の監視できるようになるとか主張する人がいた。
なぜかユダヤ陰謀説なみに、こういう時だけ国家は絶大な権力を持つのだ。あほくさ。