2015年7月26日日曜日

仏像鑑賞ノススメ

信心深い人と、仏像の展示について、どういう認識であるべきか、ということを話し合ったことがある。

つまり仏像は工芸品と定義することは、是か非か。

彼の主張は、小さな本尊であっても、それ信仰の対象であって、博物館などで展示されるのは、近代主義の傲慢を連想させるというものであった。

なるほど。

しかし近代的な設備で保管・修復しないと、いずれは劣化、損壊してしまうのではないか。ましてや廃仏稀釈のように、社会情勢の変化によって、文化財が損失することも、考えられる。

などなど、話していて、結論めいたものにたどり着いた。

信仰の対象としての側面はある。しかし木や土で作った物体そのものに、何か特別な力を持っているのではない。

むしろそれを造像し、保存してきた篤志にこそ、意味がある。

さらにいうと、厨子にあり、本堂になり、伽藍があって、境内や寺域があってはじめて信仰の対象である。

反対に本尊のみが、近代的な施設に預けられて、保全・管理されているのは、住職や檀家の信心とは関係なく、被造物の宿命である。だから、文化財として管理されるべきだ。(保守的な人は、しばしば境内や本尊のコンディションが、信仰の帰結と捕らえる人がいるし、しばしば不健全な信仰にも引火する)

仏像を展示するのは、不謹慎か否か?

不謹慎ではない。

なぜなら、信仰してきた人々の文化や、精神性を継承していくための行為だからだ。造像された姿の精緻な技巧を、堂内は見えない箇所まで理解することができるからだ。

逆に仏教美術の展示で、手を合わせる人もいる。間違いではないが、実は望ましくない。近代的な視点で、文化遺産を介して、文化に親しもうとする施設と、五体投地して、その功徳にすがる場所とが混在しているからだ。

お寺にあるときの仏像には、手を合わせ、こうべを垂れる。信仰対象の本尊だからだ。

博物館にあるときの仏像には、目を細めて、遠慮なく覗き込む。文化的資料だからだ。

しかし博物館にあっても、できれば、心がけたいことはある。誕生仏などは小さい像に対して、決して頭の上を覗き込むようなことは避けたい。

海外ドラマで時々、飲食店やリビングに仏像を飾っているのと同じくらいダサい。造像した人に対しての敬意と、コンセプト理解がないからだ。

カミカゼ、ハラキリと発音して喜んでいるアメリカ人は、結構おバカに見える。それと同じくらい、仏像インテリアはダサい。

こう割り切ってしまうと、仏像を鑑賞する行為と、尊崇する行為が明確に分けられている。本尊に照明を当てて、間近に見ていることで、罰があたるかのような信仰は、決して理性的ではないし、分析的な思考を尊ぶ仏教にあるまじき、妄信というべきだろう。

ましてや仏教の中では、待機説法という教えがある。人に合わせ、場所にあわせ、いくらでも諸仏は教えを説くというもの。

敬意をもって、文化財を鑑賞し、親しもうとしていることを罰するような本尊など、およそ仏教からかけ離れた呪術である。

多分、増長天。四天王はシルクロードでは半裸だが、
中国で古代中国の甲冑を着るフォーマットにVer.up。

2015年7月25日土曜日

タダでワードやエクセルを使う方法

Libra officeという福音

デザイナーや製版屋さんは、mac 版のofficeソフトを買うと法外に高いとよくぼやく。

そりゃそうだろう。

ビル・ゲイツが天敵のジョブズ一派の儲けを、少しでも削らせるためには、主力商品のMicrosoft officeを、敵のmacでは使いにくくして、売れにくくするのは定石ではないか。

現在でも、DTPの現場では、mac環境がやはり標準であり、一般ビジネスではwindows環境が席巻している。

このはざまで、結局割りを食うのはデザイナーや印刷オペレーターである。

そこで、彼らに紹介しているのは、Libra officeである。

macやwinでも、linuxでも使えるし、何より無償が魅力。

この無償ということに、誰もが警戒するらしい。

Microsoftは何万とするのに、無償で使えるなんてと。

そうである。ほとんど宣伝されていないのは、ここにある。

広告費を必要としていないし、収益を目的として開発されているのではなく、自由に使えるべきだと考える有志が集ったコミニュティによって開発が続けられている。

このコミュニティという概念が、日本では馴染みが少ない。
スキルを持っているのに、それを換金しない人間など、存在しないと信じられているからだ。

ところが海外では、(アメリカに限らず)スキルをもって、自分の利益よりも、みんなの快適さをシェアしようぜ、という心意気に満ちた人たちが多い。(開発した俺ってすごいっしょ?的な人も圧倒的に多い)

結果として、無料で、Microsoft officeソフトを立ち上げることができるアプリケーションを入手できるのだ。

このことを知らない人が多く、わざわざビル一派に献金してまで、Microsoft officeに奮発してしまう。

確かに、Libra officeは万能ではない。Microsoft officeを読み込むと、レイアウトが崩れたり、描画が正確に再現できなかったりする。

しかし、「そういうことも起こり得る」という理由で、何万円も献金して、三年で旧式になるソフトを買う必要があるのだろうか。

告白してしまうと、自分は97年に初めてパソコンを買った時に一太郎を購入した。それ以来、職場で使うことはあっても、一度もMicrosoft officeを個人で購入したことはない。

個人で使うのは、全てLbra officeで完結している。

何が不便か。

Microsoft officeとメニューのアイコンのデザインや、フレームの色が違う。

それだけ。

それ以外にない。保存形式でMicrosoft officeを選べてしまうから、返信するときも、その形式にして添付する。

逆にMicrosoft office2000やそれ以前のバージョンを使っていた人にとっては、2010や2013より、Libra officeの方がはるかに使いやすいだろう。全てメニューが最初の画面から選べるのだ。

どうして警戒されるのか、どうしてそんなにみんなビル・ゲイツを信頼するのか、不思議に思う。

なんとなく、不安だから。なんとなく、みんな使っているから。。。

そういうイメージこそ、実はブランドなのだ。

そしてLibra officeから言わせると、そのブランドすら、最近は成り立たなくなっている。つまりMicrosoft自身がofficeの互換性を悪くして、不安定なものにさせている。

むしろ飛躍的なデザイン改変や、機能改正がないから、Libra officeの方が安定してバージョンアップしているのだ。

officeソフトが高いと、困っている人には、率直にLibra officeを紹介する。

しかし困っていない人にわざわざ話さない。話しても、なんとなくMicrosoftのほうが知られているからと、触りもしないからだ。

95年以前、Microsoftなんて会社、誰も知らなかったのに、いつしかそれも盲信するようになっている。盤石だというのも、イメージでしかない。

だけど、わざわざそんな話をしない。個人の自由でいいではないか。

ただ、パソコンを覚えようとする若い人に対して、店員がMicrosoft officeをインストールしていないと、社会人としてダメみたいな言い方をして売るのは、関心できない。

自分の知識の無さを、ブランドで糊塗して、未来ある若者を食い物にしようとするのだけは、許せない。自分もしばしば食い物にされたし、されかけた。

ビルに献金する金があるなら、その金でもっと貴重な経験や自己投資はできるはずである。

ましてや、なんとなく大樹の影にすがるなど、じい様の専売特許だ。若者がやることではない。
ubuntuだろうが、chromeosだろうが、
ブランドイメージではなく、相性で選ぶべき

2015年7月21日火曜日

シルクロードぞわぞわ

最近は見なくなった、博物館の風景。

5年ほど前の、京都や大阪、奈良で博物館にいくと、グッズコーナーに、業者が実演販売みたいに商品を広げていた。

かなり重たそうなテレビを置いて、喜太郎の眠気を誘う調べに乗せてNHKの『シルクロード』のCMクリップをリフレインでずっと流しているのだ。

展示テーマに沿ったものは一部で、あとは山川書店の世界史年表(たまにソ連が載ってたりする!)や、台湾製の置物なども置いていた。

売れないんだろうなぁ。

ある日、見ると、ブルース・リーのトランプがあった。『燃えよドラゴン』の写真をコラージュして印刷している。その中の一枚に目が釘付けになる。ブルースに髪の毛を掴まれている、名もなきスタントマン。他でもない、無名時代のジャッキー・チェンである。

ゴールデン・ハーベスト移籍前で、二重に手術していない、ジャッキーの息子そっくりな男が、歯を食いしばってのけぞっている。マニア垂涎の一枚である。

「これ、ブルースで、こっちがジャッキーなんですよね」

思わず店員に話しかけてしまう。お? 分かる? その一枚があるから、そのトランプが結構売れて。あと、ちょっとしか残ってないんだわ。

そう言われたら、迷わずレジに持って行っただろう。一つは保存用。一つは見せびらかす用。一つはプレゼント用。最後の一つは見せびらかし用の予備か。

しかし店員さんは、弱々しい微笑で答えた。

「誰が誰か知らないんです。なんか、そうみたいですね」

急に色あせる。レアなものを販売している人から、レアなものを手にいれることができるかも、と無意識に期待していたが、そうではなかったのだ。待て、神戸の南京町で売ってたかも。そんな気がしてきたので、結局買わずに置いてきた。全然後悔していないし、買ったら後悔していただろう。4組はいらんかったと。

80年代。NHKのシルクロードは確かに、当時にしてみれば、結構な制作費がかかっていただろう。民放の『西遊記』など、中央アジアへの憧憬をかきたてるものであっただろう。

シルクロードの終着地が奈良東大寺だと習い、獅子狩紋錦についてのエッセイを、国語の時間にならって、大陸ロマンを夢想することもできた。

しかし、失われた牧歌的な、シルクロードの風景を、テレビでのんびり見るという内容であったのに、コンバクトにDVDでいつでも手際よく見れるということに、矛盾を感じた。

案の定、売れなかったのだろう。販売している業者は、今はほとんど見かけない。

欧米列強はアフリカ大陸を侵略し、東アジアを席巻したあと、20世紀初頭に、最後の秘境と呼んだのが、中央アジアであった。

ゆえに日本人も、未だにロマンを感じるのではないだろうか。それを効率よく商品にしようとして、失敗したのか。

しかしあの業者が大きな荷物にまとめて、出て行くのに、バンに詰め込んでいったような気がしない。

なぜか台車に売れ残った書籍や、置物を乗せ、風呂敷をかけて歩き始めるのだ。きっとそうだ。あの、喜太郎の曲に乗せて、次の博物館に向けて、歩いていくのだ。

なんとなく、それが自然なような気がする。


島根の人に「砂丘ってないの?」と聞くと
本気で怒られるらしい。

2015年7月19日日曜日

奈良国立博物館『白鳳ー花ひらく仏教美術ー』にいってみた。

日本の仏教美術史で習うことは、飛鳥時代の半跏思惟像のあとは、いくつか代表的なものを並べるだけ。

はっきりいって東大寺建立まで、大した仏像は取り上げられない。

東大寺のインパクトが大きすぎて、それ以前となれば、結構、偶像的な仏像しかないと思っていた。

ところが奈良国立博物館で公開されている『白鳳ー花ひらく仏教美術ー』は、この仏教美術のブランクを取り上げた内容である。

正確に歴史学の時代区分として、白鳳という用語はない。美術史のなかで、用いられていた用語である。時間として、大化の改新(645)から、平城京の遷都(710)までの間を指す。

この結構マイナーな時代に造像された仏像は、決して期待を裏切らない。

時代的な特徴として、観音菩薩や弥勒菩薩がメインに取り上げられるが、北魏のフォーマットに似せたものから、次第にしなやかな体型に変わっていく変遷を見ていくことができる。

どうも平安時代=観念的で、仏像も抽象的。鎌倉時代=新仏教の登場などにリンクして、仏像も写実的、というイメージを持っていた。

しかし鎌倉時代の重源がプロデュースするより、五百年前に写実的(憤怒尊はないが)な造像が完成していたのだ。(鎌倉時代だけが、写実的だと思っていたら、ショックを受けるだろう。)

花ひらく仏教美術、という柔らかなタイトルな割に、結構責めた内容であると思える。

注目したいのは、定型化した瓔珞や、裳裾のフォルムを持ちながら、胸や腹部にしっかりと筋肉を蓄え、迫力ある姿に仕上がっている、新旧のリミックスが多いということ。

さらに今回は、展示の照明がいい。

特に31メートルを超える、薬師寺月光菩薩立像(国宝)は圧巻のスケール。

厳密には信仰の対象だから、もっと暗い場所に置かれ、全体を見ることができないだろう。しかし今回の展示では、全身を暗い照明の中に露出させ、逞しい姿を堂々と披露している。

薬師寺東塔の水煙も、実は照明によって、水煙なのに、紅蓮の炎のような影を、館内の壁に大きく描いている。

配置にも凝った演出が、いかに面白いのか。工夫された様子がしのばれる。

平安時代以前の、定型化されない、伸びやかな造像を堪能できる展示だ。

"Suien of Yakushiji-Toto(replica)" by PlusMinus - Photo by PlusMInus. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ - https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suien_of_Yakushiji-Toto(replica).jpg#/media/File:Suien_of_Yakushiji-Toto(replica).jpg

2015年7月18日土曜日

OCRにお願い

現代国語の先生が言っていた。

「世界でもっとも経年劣化に強い、文献の保存方法は、和紙に墨書である」

羊皮紙や、パピルス紙よりも、和紙は墨の定着がよく、和紙そのものも、高温多湿な日本でも耐久性が高い。虫に食われさえしなければ、一千年は持つという。

大人になって、博物館でいくつも古文書を目にすると、まさに先生の話が紛れもない事実であったことを痛感した。

平安時代ばかりか、奈良時代の文書などを見ると、感激してしまう。

古文書学の講義を取っていたが、結局は場数を踏むように、という根性論が先に立って、今でも大して読めない。博物館にいくたびに、もうちょっと努力する方法がなかったのか、などと、密かに後悔していた。先年前の文献が残り、学ぶ機会もあったのになぁと。

ところが、である。

凸版印刷が筆で書かれた文献をOCRスキャンして、テキストデータに変換する技術を実現したのだ。すごいぞ、凸版印刷。編集仕事してた時は、うっかりな営業マンに結構泣かされたけど、凄いぞ凸版印刷。

つまり世界でもっとも強い書類で書かれた、古文書をgoogleの手を借りずに、国産の技術でテキストデータに変換できるのだ(http://goo.gl/p04qMv)。

(なぜ、全世界的に、このニュースが取り上げられないのか、不思議である。)

くずし字、と分かりやすく言っているが、何のことはない。

これが文字だったのだ。現代の我々が使っている文字は百年程度。明治以降、グーテンベルク式活版印刷技術が、入ってきてからのものである。江戸時代の瓦版も、筆で筆記されたものを木版にして印刷していたのだ。そもそも活字(文字を組み合わせて、文章を構成する)という概念がなかったのだ。

だから、国会図書館のデジタルコレクションなども、見開きで撮影したものを影印本として公開している。

皮肉にも、大正時代、活版技術をもって、国内の仏教典籍をまとめた大正新脩大藏經は、宗派を超えて文献としての資料価値を確立し、今でも研究の一次資料にされている。
これがデジタルとして公開されたのは、結構早い。SAT大正新脩大藏經テキストデータベース

このおかげで、図書館で文献をなぞらなくても、検索窓に入力して実行キーを押せば、キーワードが一斉に検索されるのだ。これも凄い。(かつては秘密にされていた経典も、あっさり見ることができる。読むのは大変だけど)

表音文字であるアルファベットに比べて、表意文字たる漢字は、画数や用例が煩瑣でデジタルにしにくい。

だから、日本はだめなのだ、というようなそそっかしい、不勉強な意見をきくとうんざりする。

文化の特徴と、経済成長やポップカルチャーとは、直接的な因果関係はない。

むしろ、これまではマニアが一定数いるからと、江戸時代の随筆は活字化されてきたが、今回の開発で、もっと広い資料がデジタル化されていく。

知識のストックがより広く、より深く、より簡易にアクセスできるようになるのだ。

わお。やっと、未来キター。

先日、図書館にいったら、女性によからぬいいたずらをする
犯人への警告文が掲示されてた。そんな犯人は即時鉄拳制裁じゃ。

2015年7月14日火曜日

寝苦しさを堪能しよう

どうやったって、どうせ暑い。

できれば、快適に過ごしたいが、どうせ熱帯夜で暑くて寝付けない。

そんなときに、あれこれと考えてはいいことはない。余計寝苦しいだけである。

もう、つげ義晴の漫画のように、うなされてしまうほうが、実は正しい夏の過ごし方なのではないだろうかと、ずっと思っている。

やだなぁ。

乱歩を読んで後悔する。猟奇的な、グロテスクな、気色悪い世界。

ラブクラフトを読んで後悔する。不条理に怖く、不可解な世界。

不愉快なものを摂取して、不快になる。不健全な道楽である。

サドを読んで、うなされたいと思ってめくってみるが、ちょっとがっかりする。彼の想定する退廃的な享楽が、現代の視点からすると、それほどではないのだ。ネタばれしてしまうと、現代のほうがはるかに、退廃文化に溢れているから、期待したほどのショックはない。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』に期待するが、ごてごてしたバロック風な修飾に胸焼けして、飽きてしまう。発表当時は新鮮だったのだろうが、決して古典として呼ばれるものになり得るとは思えない。

目下、コリン・ウィルソンに挑戦中である。気持ち悪い、不快な世界。寝苦しさを堪能しよう。
アメリカでは美男美女のラブストーリーとしてヴァンパイアものなるジャンルが、確立されて久しいのだとか。

0でも100でもない

広報の企画会議で、言われたことはシンプルである。

考え続けるべしと。

結果に焦って、0か100かに焦ると、結局その場の思いつきに頼ることになり、全然しょぼいことになる。

ちょっと長めの時間をもって、じっくり考え、100に至らなかったアイデアも、いくつか出し続けるうちに、合計で120にだっていたることはできる。

それを100ではないからと、早々に諦めるのは、根気がないのではなくて、クリエイティブな能力がないことだと。

100ではないもの。

結果が全てだと、とかくシビアなビジネスマンを気取っていう人の意見を耳にしたことがある。もちろん、正論だが、それが全てに当てはまるのだとしたら、実は幼稚な世界観というべきだと思う。

オバマ大統領に好感が持てるのは、生真面目さである。

彼が禁煙に失敗していることを、揶揄しようと、インタビュアーが尋ねる。

「健康のために、禁煙して、国民に手本を示すべきではないのですか?」

「そう思います。私も禁煙に失敗することもあり、完璧とはいきません。成功はまだしていませんが、その日まで努力を続けていきたいと思っています」

失敗したことを後ろめたく感じたり、ましてや挫折なんかしない。心がくじけても、立ち上がろうとする。

なんでも出来てしまう(もしくは自分は何でもできると、吹聴しているだけの)人間の言葉が軽薄に聞こえるのは、彼のように誠実な人と、異なるからだろう。

ほとんどブログが書けない。通年で読もうと思っていたことも、半年を過ぎて、結局ほとんど達成していない。

100ではない。

しかし0でもない。

だから、続ける。書こうと思うこと自体、煩わしくなって、続けてみる。

100ではないから、諦める。それは全然クリエイティブなことではない。

アメリカの少年野球チームの写真
彼らもきっと千本ノックとか。。。するわけない。

2015年7月7日火曜日

国の定めるところの国民の祝日

市の運営する施設の利用について、案内している書類を見たことがある。

「祝日とは、国の定める国民の祝日のことです」

そんなことが書かれてあった。

最初は何のことか分からなかった。

しかしあとで、はたと膝を叩く。

国が定めた”国民の祝日”だから、特定の宗教や宗派に偏ったものではなく、慣習的に国が定めているものに準拠するという表明なのだ。

なるほど。

祝日のルーツとなった祭りは、民俗学(宗教学ではない)によって分析され、変遷をたどることができる。

春分の日は田植えの豊作(秋分の日は豊作感謝の祭り)であったり、太陽神ミトラスの再生祭りがクリスマスになったり。

純粋に宗教文化というより、民俗学ないし歴史学の分野で解明されているのが、本来の祭りであり、祝日である。

しかし特定の宗教や宗派を起源に、祝日を設けてはいけないというのが、現代日本の正しいあり方なのだ。

だからこそ、公共施設も、特定宗教の休日にちなんで休館するのではなく、「民主的に選ばれた代表で構成されている、国会が立法した国民の祝日に基づいて」とまわりくどい言い訳をしないといけないのだ。

文明開化を国是としていた当時は、必死にキリスト教文化に馴染もうとしていたのに。

大変だなぁ。個人の信教の自由を守るために、伝統文化よりも個人の権利や、主張を遵守しないと民主国家ではないのだ。(ワーキングプアの生存権など、糞食らえなくせに)

なんとなく、無機質で、人口的で、乾いた感覚。誰でも定着できるようで、誰一人迎えてくれない距離感。

断食明けにはしゃいで、お腹いっぱいになる人々。感謝祭だからと、肉の切り分けに忙しい人々。祖先の霊を川辺で見送る人々。

祭りと祝日は渾然としていて、なおかつ騒がしいという世界が、心底羨ましい。

2015年7月5日日曜日

アカウント皿屋敷

どの記事が、どの程度アクセスがあるのか。ざっくりしか見えていないが、アクセス解析ができるようになっている。

google bloggerは広告が表示されないで、それらが標準装備なのである。(もちろんgoogle analyticsも使える)

アクセス状況を見て思うことは、やはり、毎日少しずつでも書くこと。まるで共振反応するかのように、少しずつが次第に大きな振幅になっていく。

大した内容ではないと思いながら、なんとか、少なくと読めるものにはしたいと焦るから、一度心が折れると、なかなか戻れない。

mixi華やかかりし頃など、マイミクの登録をしたとか、記事を書いたとか、国産のIT用語をしばしば耳にしたし、なんとか追いつこうとした。

社長もやっていると聞いて、探したが、顔写真だけで一切更新がなかった。営業ツールとか、同業組合の話題で、アカウントをとっただけだったのだろう。

本人も気にしていたらしく、冗談めかしていうと、赤面して笑っただけだった。

mixiのアカウントは残しているが、一体、どうなっているのだろう。ホグワーツ魔法学校の会員パスはどうなっただろう。msnやyahooのアカウントはどうなっているのだろう。

番町皿屋敷の映像をみて、朽ち果てた庭や井戸のビジュアルを見るたびに、ふと思い出すのは、それらのアカウントである。

職場で個人情報を取り扱うことについて、よく問題になる。問題はユーザーが神経質になっているだけではなく、ユーザーが不要になった情報を削除していなかったり、更新していなかったりすることも、ややこしくなる。

本来、利便性を高めるべきことが、一方でどこかに不自然な負荷をかけている。

正義さんや、ビルさんに、ご迷惑をかけているのだろうか。

googleで全部代用できているから、本当はアカウントを削除しないといけないのに。。。

なんとなく、後ろめたい。放置したアカウントが化けて出て来られるとか。
番町皿屋敷ではなく,原型は播州皿屋敷。
戦後の姫路城に人の呻きが聞こえると騒がれ、
すわ、お菊さんの怨念か恐れたが、
実はヒキガエルだったというオチ。

コーヒーちりとてちん

そば通がやたら言いたがるのは、ざるそばの魅力であろう。

天婦羅などの揚げ物でも、丼のセットにするでもなく、そばとしていかに、品質を保っているのか。一番安いが、一番、店のスキルが現れるのが、ざるそばであるという。

もっというと、ざるそばのまずい蕎麦屋は、何を頼んでもまずいと。値札が高くても、それは家賃と内装維持費でしかない。

同様のことを、コーヒーに感じる。

スタバでホットコーヒーを頼んでみた。コーヒーが眠気覚しを目的にする飲み物であるとするなら、大成功である。

しかしくつろぎ、リラックスした状態で、集中力を高める飲料だとするなら、大失敗である。

酸味と、雑味が舌に突き刺さり、飲み込むと、香りではなく、苦味が停滞するのだ。全部飲まないといけないのだろうかと、二口目で不安になってくる。

シアトル系と呼ばれるコーヒーは、パッケージと内装で売れているだけで、使っている豆自体は実に凄惨なのものである。

香りも味も、オプションを足さないと、到底飲めたものではない。エビやちくわの天婦羅や、温泉卵があって、初めて食べ物として、成立する蕎麦屋である。

鳥取にスタバの店舗ができたというニュースがあったが、それを喜んでいること自体、鄙の特徴なのかと思ってしまった。

反面、通を気取る人がいただけない。

その心情を描いた、古典落語ちりとてちん(江戸落語の酢豆腐)は面白い。

腐ってしまった豆腐を見咎める旦那。そうだと、いたずらを思いつく。あの、いつも通ぶった男を呼んで、食べさせてやろう。こっちか素人でわからないといえば、喜んでたべると。

「長崎で人気のちりとてちんだそうだが、食べ方がわからなくて。あんたなら、教えてもらえるとおもって」

「なに? あの、ちりとてちんを知らないのか? しょうがないな。教えてやるから、持っておいで」

下げにいたるまで、演者が酸味にいかに苦しむかが、見所である。

通を気取る人へのしっぺ返し。

はたと思い直す。

逆にスタバで飲んだ、ホットコーヒーが実は、それであったのか。
茶屋町のシアトル系カフェの窓際で、
光るりんごマークを見せびらかす”いちびり”。
いけすかんわぁ。

2015年7月4日土曜日

論語読み

とある宗派に関連した報道機関で仕事をしていたことがある。

人脈のある、年配の僧侶のそばで仕事をする。

高祖の言葉や故事に造詣が深く、先達として慕う人も多かった。

彼の執筆部屋に購入したマンションの一室は、普段使われることがなく、その清掃に駆り出された。

無人のベランダに鳩が巣を作ろうとしていた。彼はそれを箒で追い払った。

その鬼のような形相。

自前のベンツを愛撫し、使わない物件を自慢し、気難しく、意に染まない人を平気で糾弾し、従業員の社会保険は払えない甲斐性なし。

ウザいな。当時思った感想である。今、思うことはただ一つ。本当にウザいな。

夢窓疎石の逸話が好きである。

師僧への帰依を厳しく説く宗派にあって、師僧が臨終の床についた時に、こういう。

「死にたくない」

戦後のポピュリズムで考えれば、”人間らしい”ということになるが、鎌倉時代ではそうはいかない。

そもそも、いつか死ぬことなど、自明中の自明だったではないか。それを自覚し、伝道し、生きることの豊かさを告げるのが、仏弟子ではないのか。相対的な死をもって、怯える無明こそ、仏教のもっとも軽蔑するところではなかったか。

師僧の没後、疎石はその宗派を離れ、禅門に入り、修行し、印可を授かる。

北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏がその膝下で教えを乞うようになっていた。

しかし時の権力者に慕われながら、決して迎合しない。南北朝時代において、北朝側の京都にありながら、南朝の後醍醐天皇を追善する寺院の創建を認めさせている。それが世界遺産として残る、天龍寺である。


論語読みの論語知らず。高圧的な物言いで、慈悲を語るのと、同義語である。

ダライ・ラマやティクナット・ハーンが、ゆっくりしたトーンと、思慮深く、優しく語りかけてくるのを見ると、きっと釈尊の語り口はこうだったのではないかと想像できる。

論語を読んでも、正しいことができない論者。哲学を研究はするが、学閥争いに暮れる俗物。

ウザいなと、感じるのはここなのではないだろうか。

ビジネスマンなら、利益と見るや、たちまち手のひらを返して仇敵の肩を抱く。クリエイターというからには、収入が割に合わなくても、創造にのめりこんでいく。

そこに虚栄や、生半可な道義心などが紛れ込むのは、論語知らずではないか。

法論争どちらが勝っても釈迦の恥。江戸時代の川柳である。

争うことの不毛さを説いた人の末徒が、互いに正統を争うなど言語道断である。

論語読みをたくさん見てきた。その時の嫌悪感はまだ胸中で疼く。彼らの歳までには、せめてまともでいたいと、焦る。
スリランカの仏像というフリー素材。
花を持っているから、多分、観音菩薩。
Canonの語源にもなった。

2015年7月3日金曜日

おばけ

夏の風物詩として、怪談が語られていた。心霊写真の番組も、そういえば夏休みであった。

本来、年中無休で霊は現れていいし、彼らなりの主張は季節に影響されないはずである。しかし冬場の息が白い中で、恨めしがられても、興ざめである。

怪談はやはり夏のものだろう。

おばけが見えるという人の話を聞いたことがある。自分はそういう体験がないので、不気味に思う。羨ましいと思ったことはない。

得意げに話す人もいたが、見えないに越したことはない。

ところが江戸時代の国学者にして、神秘主義者の平田篤胤は幽霊が見えるのは、むしろ自然だと主張した。

人間が生きている世界と別に、死後の世界(幽界)があるのではない。現世からは見えないが、紙一重のところに幽界はあり、向こうからこちらは見えている。

こちらの祭祀を見て、向こうから働きかけてくるのだという説をとっている。

つまり幽霊は、幽界から立ち現れた現象であって、それを認識する人がいても不思議ではないというのだ。

幽霊は遍在するという、物騒な見解なのだ。それも年中無休で。

あんなに宜保愛子が語っていたことも、自然の一つだとするなら、なんかちょっとつまらない。やはり特別な人が、特殊能力でもって初めて、そこに何がいるとか、見えているとか言われた方が、ぞっとできる。

なんとなく、先入観で、幽界を設定し、おどろおどろしく、期待してしまう、この浅ましさ。

むしろ、幽霊にすら、こちら都合を押し付けてしまう。

実は人間の方が恐いのかもしれない。

抵抗すれは死であるという意味の、海賊の側。
仏教では人間存在が永久でないことの象徴として、
しばしばドクロを用いる。海賊の旗も実はそういうメメント・モリであったのかも。


2015年7月2日木曜日

舌禍のいわれ

それまで第二次世界大戦を主題にした作品を描こうとすると、マクリーンに象徴されるように、連合国側が主人公であり、ドイツ人はステレオタイプに極悪人のカルト教団のように描かれていた。

しかしイギリス人作家ジャック・ヒギンズが描いた『鷲は舞い降りた』は、ナチスドイツの落下傘部隊クルト・シュタイナ大佐を主人公に、チャーチル誘拐作戦を描く。

ユダヤ人の娘を助けた罪で、激戦地においやられたクルトに、父はいう。

「俺たちは、あのハインリッヒ・ヒムラーのような殺人鬼を守るために、戦わないといけないというのか」

狂気の時代にいて、自らの美学に殉じていこうとする兵士たちを、ヒギンズは描こうとする。(晩年は現代版のデブリンものとして、ショーン・ディロンがアメリカに雇われたりと、結構大味な作品で人気を失速させている)

つまり簡単に正義と悪を作っていない。ル・カレほどではないが、大人が読むに相応しい、世界観を背景に描いている。

少年は単純なものを好む。ゆえに、正義を特に愛するとは、確かシェークスピアであったと思う。

その通り。クラスの女子の気をひく前は、地球の平和を守る話題に、夢中になっていた記憶がある。

ある、日本人の作家の作品が、数年前ベストセラーになった。先の大戦を題材にしたものである。

戦前から続く、石油会社を題材にした作品もあったので、すすめられるままに読んでみたが、ひどかった。そして、その大戦を取り扱ったものを読んで、思った。本当にひどいと。

要は悪人と正義が明確になっており、ほとんど水戸黄門状態なのだ。驚くほど、稚拙な文体に、単調な展開で読み終わるのに、予想以上の滞留があった。

問題は正義と悪が単純に色分けされているため、悪者に対して、ステレオタイプの理解しかないこと。奥行きがまるでないことだ。黒い仮面をかぶった、黒い服の男が、黒い銃を取り出して、黒い弾丸を撃ってくる、といった調子である。

案の定、歌手の晩年を題材にしたものを描いて、悪役にされた人たちから名誉毀損で訴えられた。

さらには与党の何がしかの会に参加して、舌禍を招いた。

その軽薄さに、いつも驚いている。不勉強で、孫引きで、時流に乗れば、それでいいというチャラさ。

何か、ひどくバカにされた気分を拭えない。本来の議論を空転させる、声の大きな人。彼が本質をわかっているとは、にわかには信じがたい。

空からみれば国境なんてないさ、
とかいう前の時代は、敵地に送り込むために
落下傘は便利だったみたい。

2015年7月1日水曜日

ボンドの息子と父親

一作目のスター・ウォーズ(厳密にはepsode4 新たなる希望だから、四作目という設定らしい)の制作を終えた、ジョージ・ルーカスはハワイで休暇をとった。

『猿の惑星』でSF大作も収益につながるということに、味を占めたFOXにも、ちゃんと顔を立てるような成果となって、ほっとしたのだろう。

そこで『ジョーズ』で成功を納めた、同じ映画学校出身の男と会う。スピルバーグである。


二人は娯楽映画について、意気投合し、話が盛り上がった。

ジェームス・ボンドみたいな、世界をまたにかけた冒険ものって、どうよ?

アメリカ人の探検家。秘密の宝物。強大な敵。そんなコンセプトで、最終的に作品として仕上がった。

『レイダース 失われた聖櫃』である。

そう。インディ・ジョーンズは”ボンド”をヒントに生まれた。

方や日本。

ショーン・コネリー演じるボンドは、日本でも人気を博し、一人の漫画家を大いに創作意欲をかきたてた。

彼は考えた。週刊誌連載で、一話完結だが、ちゃんとエトンネ(驚き)があり、まさに”ボンド”のような世界をまたにかけた男。

主人公を泥棒に設定した段階で、名前は決定した。

ルパン三世である。

つまりインディ・ジョーンズとルパン三世は、同じ”ボンド”をルーツに持つ、兄弟なのだ。

では、ボンドはどうやって生まれたか。

チャンドラーの『長いお別れ』を読んだ、イアン・フレミングがめちゃくちゃほれ込んだ。

自分も主人公サム・スペードのような、気の効いた台詞をいう、ストイックな暗黒街の貴公子を描こうとした。

ところが、書いても書いても、ただのコピーでしかなく、しかも面白くなかった。

フレミングは考えた。殴られて、ぼろぼろになり、雨に濡れる、汗臭い男を書くの辞めたらどうか。

そうだ。ワイン通でタキシードが似合い、美女をはべらせるヒーローは?

こうして、イギリス史上もっとも高級なスーツを着こなし、殺人も免除されたスパイが誕生する。ジェームズ・ボンドだ。

では、サム・スペードはどうやって生まれたかというと。。。

というように、ルーツを探したり、そこから誕生したものを整理するのは楽しい。

ホームズとワトソンだって、実はポーの『モルグ街の殺人』に出てくる探偵オーギュスト・デュパンと、語り部の”私”そっくりである(この形式は後にルブランによって、アルセーヌ・ルパンによって継承される)

有名どころでも、ルーツは必ずある。スター・ウォーズと黒澤映画を云々はいくら語っても、足りないぐらい。

相互に影響しあっていると考える方が、実は自然なのだ。

日本の大衆文芸だって、負けてはいない。

眠狂四郎の話し方といい、ネーミングといい、ニヒリストの剣士『大菩薩峠』の机龍之介を元ネタに、柴田錬三郎が考えたもので。。。

ああ、溺れるように、読んでみたい。。。。
スパイで検索したら、出てきた画像。
こんな目だったスパイに情報は預けたくないかも。。。