2018年12月8日土曜日

人間の可能性(くしゃみ編)

1ブロックほど離れたところから、大きなくしゃみをするのが聞こえてきたことがあった。

ずっと以前に、テレビで見ていたことを思い出す。

一般女性がテレビのインタビューに対して、コメントしていた。

「可愛らしくくしゃみをしているオンナをみると、練習してるなと思ってしまう云々」

確かに結構たくましいガタイの女性が、子犬のようなくしゃみをされていることを見かけたことがある。なんと、あれはたゆまぬ修練の賜物なのだ。

待て。1ブロック先の男性は、時間を問わず、加藤茶も驚くほどのくしゃみをしていた。生理現象なのだから、それはどうしようもないものだとばかり思っていた。(結婚式場の配膳担当をしている加藤茶が、ウェディングケーキの前で大きなお盆ともどもひっくり返るのも、生理現象が原因だと思っていた)

しかしインタビューの証言を元にするなら、改善することができることになる。くしゃみそのものは生理現象だとしても、そのボリュームを変えることはできるのだ。

だとするなら、何という福音だろうか。人間はいつでも変わることができるのだ。アドラー心理学万歳ではないか。

あの、周囲をどっきりさせてしまっているくしゃみも、深夜早朝に顰蹙を買うくしゃみも、工夫次第で変えられるのだ。

本人だけが気にしていないことも多い(そのため、大きなくしゃみをする人はデリカシーがないと誤解されることが多い)。

自分は地声が低い。低周波は人間の耳に入りにくい。だから、高い声を心がけるようにと昔、上司に言われてから、ずっと高く発声するように心がけている。いつしか、それが自然になった。

まさに精神を凌駕するのは、理性や信念でなく、習慣である。

と、ここまで書いてみて気になった。くしゃみが大きい人はそもそも、そのことを気に病むのだろうかと。

2018年12月2日日曜日

『ボヘミアン・ラプソディ』を観てみた

前評判抜きに、予告のクリップを観てから、ずっと観たかった。これは劇場でないと。

楽曲がいいから、どうやっても盛り上がるに決まっていると思っていたし、アイマックスシアターで観て、やっぱり感動した。

振り返ってみる。おヒゲ同士のチューを、そんなにいるのかと思ったり、全米ツアーがイメージクリップのように、片付けられたこと、ドラマとして父親との葛藤などが、ほぼ描かれなかったことに、物足りなさは残る。

しかしドキュメンタリー的な要素として、楽しみは尽きない。以下、ネタバレ。

ボヘミアン・ラプソディが発表当時、各紙で酷評されていたこと(フラッシュやバイシクルレースではなく、このタイトルだから、四十年後の我々がチケットを買ったのに?)や、当然それが覆されたこと。

We will rock youの誕生秘話も良かった。観客が参加するというアイデアに、取り組むという、好奇心が見事に成功している。(観終わったら、最初に知ったかしようと思った。)

そのルーツとなり、映画の象徴といえるのは、フレディのスキャットである。

マイクを通して、澄んだ声が呼びかける。エーオ。

スクリーンいっぱいに映し出された”群衆”が、うねりとなって応える。エーオ。

普段、テレビの向こうに映し出されている”群衆”は、悲鳴をあげ、殴られ、逃げ惑う。怒りと、混乱しかない。しかし、スクリーンに描かれた群衆は興奮と喜びに満ち溢れている。そうか、彼らもステージ側も、同じ人間なのだと気づく。

パフォーマーであるフレディが実現する、美しい歌声の世界に、群衆が熱狂する。美しいものに、人は惹きつけられ、共鳴し、感動する。

そんなテーマを凝縮した二時間であれば、見ていて、誰だって感動するのは当たり前である。現代へのシンプルなアンチテーゼだ。ライブでも、四十年後も、人を動かすのは、偏狭なヘイトスピーチではなく、美しい歌声であると。

さらに、ライブ資料さながらに再現された、ステージシーンで、字幕にしばしば見入ってしまう。

特にラストのWe are the chanpion。我々は勝利者だ、友よ。敗者はいない。最後まで戦い抜くんだ。まるで福音書を思わせる歌詞だった。曲も歌声も素晴らしいが、歌詞も良かったのだ。この曲をもし、母国語として聞けたなら、どんなに感動できただろう。

君がどうしたとか、彼女がどうしたとかを、サビだけリズミカルな曲を、延々とコンビニでも食堂でも聞かされる日常とは、だいぶかけ離れている。

クイーンの全盛期よりはるかに、便利で快適な世界に住んでいるはずなのに、クイーン以上のアーティストが登場していないことに、もっと憤慨していいのではないか。

そんなことを思うと、劇場から出たあと、日常がちょっと変わってしまう。

またクライマックスでフレディがソロ活動として、アメリカのCBSと契約をしてしまう。その金額にメンバーは驚く。400万ドル。メンバーとともに、観客も驚いてしまう。

当時の日本円でいくらなのか分からないが、現代のレートでも億単位の額だ。

今年(2018年)性的マイノリティは生産性がないなどと、コミカルな発言をした人がいるらしい。

わお。生産性って、お金を稼ぐってことじゃなかったっけ。フレディの稼ぎが足りないなら、そういう彼女はいくら稼いでるつもりなんだろう? 性的嗜好と生産性は無関係であると、道徳抜きにしても、経済学的に証明済みではないか。(我々の代表を名乗る連中が、いつも通り無知であることに、やっぱり傷つく。もうちょい、社会勉強しようぜ)

ましてやフレディの両親は、かつての大英帝国の植民地であったインド出身。人種とか、性別とかが、楽曲のクオリティに関係あるというのは、誤解どころか、ただの妄想でしかないのだ。

何より、一人の天才フレディ・マーキュリーがクイーンを牽引したのではないと理解できる。アーティスト同士がぶつかり合い、意見を出し合い、議論し、磨き上げたからこそ、どの楽曲もいいのだと、改めて認識できる。

楽曲に向き合い、メンバーに向き合い、観客に向き合った。そうやって掘り出され、磨かれた宝石が輝きを放つ。

その美しさに共感できるのだから、やっぱり贅沢な映画である。

2018年12月1日土曜日

謎の言葉『パッド』

社用として購入したi-padをどう活用していくのか、という話題で話し合っている途中で違和感を感じた。

数人が固有名詞でもなく、タブレットpcとも言わず、「パッド」と呼んでいたのだ。

なんとなく感じた程度の違和感であったが、人それぞれの癖だと思っていた。

ところが別の日。

タブレット端末を手にして、その利便性について話しているのに出くわす。

昔日のノートPBなら、マウス操作が必要だった。場合によっては

「パッドが必要だった」

なに? よく聞くと、彼はマウスパッドのことを略して、「パッド」と呼んでいたのだ。

一つの単語に複数の意味があることは、よくある。

しかし一つの名詞に、別々のものを意味しているとしたら、すでに混乱なのではないか。しかも同時代の、同じIT周りの道具に対してである。
使っている当人たちは混乱しないのだろうか。

2018年9月23日日曜日

御朱印ばやり

田中公明さんのエッセイに記載されたと思う。

チベット人は愛国心はないが、愛法心は深いという。

一口に、チベット人といっても、チベットの西と東とでは、民族的に随分違いがあるから、一つの国という概念も希薄なんだとか。

では彼らの愛法心とは何か。

法とはダルマ、仏教である。熱心に彼らは観音菩薩のマントラを唱えるし、仏像を供養する。

特にこだわるのは伝授である。

「いつカーラ・チャクラの伝授を受けたのか、受けてないの? ああ、俺はもう何年も前に受けたよ(ドヤ顔)」というように。

ところが日常たるや、喧嘩もするし、口汚く言い争うことはすくなくないという。

およそ仏教徒らしからぬ性格のまま、決して改めようとせず、そのくせ、伝授をうけたことを競い合うように自慢するという。

伝統的な大乗仏教の考え方では、呪術を行って、人々の願いを叶える力が仏教に、そもそもある。それが現世利益(げんぜりやく)である。だが、それが目的になってはならない。

あくまでそれは手段であり、目的はそうした験力をもって、人々を教化することであると。

こうした主張はチベットでは、実現していないのではないかと疑わしく思えてしまう。

しかるに、仏教の正統を自認してやまない日本である。

150年前に開国して以来、アジア文化の代表を自負しており、チベットに対しても、長く無理解であった。

彼らと違う。様々な祖師が登場して、大乗仏教の本質を理解している。

そう言いたい。

本当に、そう言いたい。

ところがどうだろうか。昨今はやりの御朱印ばやりである。
本堂に参らず、本尊に手を合わせず、参拝記念のスタンプを集めるのだとしたら、笑止である。信仰の入り口ではあるが、信仰の玄関先でしかない。

ひどいものになると、無宗教や不信心であることを恥じず、寺社の権威や余得にだけはしっかり預かろうとするいかがわしい者までいる。
もっとひどくなると、ただのトラベリズムのくせに、そこにいった経歴を周囲に自慢する。般若心経を暗唱したと豪語する者までいる。

供養や回向という、大乗仏教の根拠となる部分が欠落しているのだ。

諸仏にぬかずき、詫び、人々の救済を願い、それによって自分が報われるようにすがる。この恥じらいとも、謝罪とも似た行為でやっと安心が得られる。

そういうもので十分ではないか。

いや、それを求める側だけではない。

中には、本当に版で押した紙に、日付だけをスタンプで押すところもある。

どうも、胡散臭い。

参拝の記念を求めるものも、与えるものも、最初から何も信じていない。いや、信じているとするなら、マルクスの経済学なのではないだろうか。

2018年9月8日土曜日

おしゃれmacをdisるな

AppleのテレビCMがかっこいい。

MacBookを使って、何か一生懸命に取り組んでいる人の、真剣な表情が映し出される。光るリンゴマークの裏で、何か世界を変えるような”何か”が作られているようなイメージである。

実際、macbookはSSDなんで、とにかく起動が早い。

カバンの中に入れておいたはずのメモ帳を探し出して、最後のページまでめくって、ボールペンのお尻を押して芯を出すという一連の流れよりも、確実に早く作業をはじめられる。

快適である。

色々と準備や待ち時間なしに、ダイレクトに使い始めることができる。

自分は快適だから使っている。快適で低価格なら、winマシーンでも、chromeosでもいいと思うが、コスパに見合うものに出会ったことがないだけのことである。

快適だから使っているが、そうでもない人も中にはいる。

おしゃれだから。

まるで90年代のvaioを使う人たちがそうだったように。

Let'sノートのスチームパンクのような頑丈さなものではなく、おしゃれ女子が小脇に抱えて使えるものこそいい、という時代がかつてはあった。

そのノリでリンゴマークをおしゃれアイテムとして持つ人がいる。

何度か、実在を確認したことがあるし、繁華街のスタバの窓際でそうした人を見かけない日はないだろう。意外とキーボードを使わず、トラックパッドに四苦八苦しながら、(macでショートカットを多用しないなんて)使っている。

トラックパッドのジェスチャーと、ショートカットでほとんどのことができるのに、わざわざwindowsマシンと同じような操作をして、もたもたとしているのを見ると、

(この人はおしゃれアイテムでmacを持ったんだな)

というのは、一目瞭然である。

ところが最近あることに気づいた。

おしゃれアイテム万歳である。

結局、おしゃれmacユーザーは、macbookが便利だから使っているのではない。おしゃれだから使っているのだ。

ということは型落ちしたものは、ダサいのだ。(macユーザーからすると、そっちの方がはるかにダサい)

つまりAppleが新しいものを作ると、そっちに買い換えるのだ。

Appleにとって、本当に優良なお客さんとは、おしゃれmacユーザーなのではないだろうか。

彼らが中古品として処分する、結構いいスペックのものを、鵜の目鷹の目で狙っているのが、利便性優先のユーザーなのだ。

型落ちしても、スペックがそんなに大きく遜色ないのだが、新しくない。このことは、もっと喧伝してほしい。おしゃれmacユーザーよ、君のmacはとっくに古びたものなのだ、振り返らずに中古取扱店舗に二束三文で売っぱらってしまえ。

スタバでそんなものを使っていたら、笑われるぞと。

おしゃれmacユーザーを決してディスらない。彼らのおかげで、中古がもっともっと供給されればいいのだ。使っていないmacがあれば、それもどんどん売り払えばいいのだ。

macbookは欲しいが、Airで充分である。

早く11.6インチで安い中古品が、出てこないかなぁ。

2018年8月30日木曜日

史劇を借りて

東映の『新撰組』を見た。

かなり早い段階で、鞍馬天狗が出てきたのには、びっくりした。ほとんど天狗のおじちゃんは活躍しないくせに。

月形半平太も登場してくる。大真面目に演じているが、虚実入り乱れて、ドラマとしてどこでどう盛り上がりたいのか、さっぱり伝わってこない。

そして、致命的なのは、びっくりするぐらい内容が薄い。片岡千恵蔵をみせるための映画。これでも映画なのだ。

香港映画でブルース・リーが登場したときの存在感は圧倒的であったという。

今の感覚で見たら、彼の動き以外に大した衝撃はないが、当時は違った。

主人公が親孝行で公明正大な性格ではなく、ただのふてくされたような、生意気な若造なのだ。生意気な若造が強いという設定に、香港の青少年たちはおどろき、劇場を後にするときには、みんな親指で鼻を弾いていたという。

それまでの香港映画は、様式美を守った、活劇の延長でしかなかったのだ。

この現象は日本でも同じで、長く様式美を遵守した作品が続く。大正時代の映画などは、舞台をそのまま撮影していた。

映画という独自メディアのアイデンティティなど、誰も理解できていなかった。

ブルースのリアリティも、アメリカンニューシネマと呼ばれる表現手法も渡来してきていない。

そんな牧歌的な時代劇である。

ただし、若い恋人二人を助けたい。感謝されたい。感心されたい。

寺田屋事件もなければ、清河八郎も登場しない。

史実を軽んじた、茶番である。

こういう俳優を見せるための映画が、長らく"活動屋"の文化だったのだ。(まあ、ストーリーの代わりに、タレントの大げさな表情と会話を撮影したものが作られることも少なくないようだ)

しかし、正月になると思う。

バブル期に制作された、長編時代劇のことである。

十二時間にも渡って、白虎隊や西南戦争、忠臣蔵を描くのである。

ところがこうしたものを、よく見てみると、結構大味で、制作の納期を急かされていたのだろう。脚本も衣装も粗雑さが目立つ。

展開の速さも、セットの寂しさも、俳優の声音と効果音で濁す。

太閤記を見たときは、明治以降、あれだけの文芸作品が書かれているにも関わらず、講談を映像化しただけだったのだ。
歴史好きな人がしばしば、二つに別れることがある。

一つは細部に過剰にこだわる。一つは少年期に見たもの以外に評価しない。

前者は聞いたことも無いような西洋史や、中国史を思い込みたっぷりに話してくれるが、原典を辿ったのではなく、権力闘争史観などに基づいた、本人の思い込みであったりすることが多い。

後者は保守的で、多様性を認めないから、新説をいち早く知りたがるが、いち早く批判したがる。

新撰組から脱線した。

しかし、こうもいえる。

しばしば思い込み(有名俳優を善人として描きたい、昔ながらのプロットをみたい)で作られることにおいては、実は伝統からブレていないのかもしれない。

2018年8月29日水曜日

廃業の贖罪

足繁く通っていたわけではないのに、覚えに行っていた店が閉店すると、贖罪意識が働く。

もっと足繁く通うべきではなかったか。味が単調ではないかとか、時々バイキングのデザートに規格外の酸味があったよとか。

都市部に住んでいると、立地がいいだけの店をよく見かける。客には製品やサービスではなく、賃料を払わせているようなもので、品質は粗悪極まりない。

それに対して、一生懸命、創意工夫をしている飲食店が閉店するのをいくつも見てきた。

どうしたよかったのだろう。どうすべきだったのだろう。次から、どうしたらいいのだろうか。

結局、何も結論を出すに至っていない。

最終的には、自分の責任ではないと割り切るしかない。自分が失敗したときのように、経営者は経済的に苦境に立たされるだろう。

それは決して、客の一人がどうこうできる問題ではなかったのだ。

いわば運命であったのではないか。そう思うことでしか、折り合いがつかない。

納得など、まるでできないが、折り合いをつけることで、贖罪意識から逃れるよう努めている。

だからといって、新しい店に移り気に次々とたずねるようにことはできない。

やっと気に入ったところを、見つけたとしても、またそこが閉店になるのかと思うと、気が重い。

気楽に食事をしようとして、こんな有様である。

やだなぁ。。。

とりとめないので、聞いた話。

ビートたけしがラジオ番組で、飲食店を紹介することになった。

番組内で紹介した合言葉をいうと、お会計時に割引になるというキャンペーンをするというのだ。

では、合言葉は何にしましょうかと問われて、彼は応えた。

「合言葉は『この店、食中毒事件起こしたんだって? もう大丈夫なの?』」

悪ふざけにも、ほどがある。これで潰れた店もあるのではないかと想像すると、いたたまれないような、バカバカしいような。

2018年8月28日火曜日

記事がかぶる

酒の場で、同じことをリフレインしたり、朝礼で同じことをぐるぐると語ってしまう人。

酩酊している人が、同じ話題をリフレインしているのは当然である。

しかしシラフで、同じ話を堂々巡りしているのはいただけない。発した端から、記憶が飛んでいるのでないか。そんな気がしてくる。

ブログ記事として、あれこれと書いている時に、実は似た経験をする。

ふと思いついたことを、メモにして、テキストを小一時間書いた挙句、そっくりの内容を過去の記事から見つけてしまう。

書籍を制作するのなら、こうした時に、編集者がしっかり監督してくれる。

ところが、素人でのんびり書いていると、こういうことは起こり得る。

電子書籍は誰でも自由に自己表現ができる、編集者がピンハネしない、自由なものであるとか、浮ついたことを語る人がいたが、随分である。こうした監修者を持つがゆえに、製品の品質が担保されるのだ。

逆にいうと、無料で公開しているブログはそうしたものではないのだろうか。

たまに古本市で、結構な同人雑誌が並んでいたりするが、奥付をみると、出版元は小金持ちの住む街の住所である。随筆と称しているが、内容たるや今のブログ記事程度でしかない。

それが個人単位で気楽に作れるようになったのは、ブログの最大の魅力ではないか。

気楽にできるから、気楽にやめられる。だから、手軽さのせいで、内容が被ったりするのではないだろうか。

まあ、ダ・ヴィンチコードも他の作品とかぶることがあるのだから、ご愛嬌ではないか。いいすぎか。

と、ここで書いてきて、不安になる。

こうした話題すらも、実は先に書いていたのではないかと。

(大丈夫。電子書籍の件は書いた記憶がないぞ)

2018年8月26日日曜日

A4をB5に

編集の仕事をしていた時のこと。

同業の人が、大手の気難しいクライアントに嫌われて出入りできなくなっていたのを見た。上司と彼が話したあと、上司が教えてくれた。

クライアントの担当者が彼に言った。

「冊子の判型を小さくするから、値段を安くしろ」

聞けば、従来A4サイズだったものをB5サイズに小さくする。その分、印刷代を安くしろというのだ。

無茶言うなぁ。用紙の価格から言っても、大差はない。印刷機にいたっては、同じである。

そればかりか、小さくなった分、情報量が少なくなってしまう。

本来、用途によって、判型を分けるべきなのだが、頓珍漢なクライアントはそれを理解できなかった。

あんぽんたんをてなづけるのは至難の技である。

論理的に整合性が取れている、矛盾点がないといった意味を表現する時の、日本語の慣用句は「道理で」である。

仏教用語であり、論理的に正解であることを指すから、正しい使い方である。

この「道理で」というのは、日本の近代的社会システムや工業製品の発展に、多いに貢献した。

筋道が正しく、整合性が取れていることは、正解であり、それを否定することは、不正解であり、不条理であり、恥であるという意識が育った。

もちろん、先の判型については、非論理的である。いわば紙を小さく斬れば、内容が凝縮されるのだと主張しているような、支離滅裂さである。

紙が小さいからといって、値段が下がるとしても、小銭程度。印刷や加工に至っては同じである。

そういう説明をしても、まるで通じないのだ。論理的ではない。

保守的で、日本文化や伝統だのと口にするクライアントではあったが、”伝統的な”フレーズ「道理で」については、まるで通じないのだ。

”日本文化”が聞いてあきれる。

だから、愛国を口にしたり、伝統だの、文化だのと口にする人を、今一つ信用する気になれない。不寛容で、横柄で、大体において勉強不足だからだ。

2018年8月25日土曜日

人権なのに

 祖山で仕事をしていたときのこと。

 夏場、山内の数少ないコンビニに、急激に、まるで降って湧いたような人だかりがレジに並ぶ。

 大量に団体参拝があったのかと思ったが、そのほとんどがネクタイ姿である。会社の研修にしては、結構年配の男性たちばかりであった。

 取材先から帰ってきた先輩が教えてくれた。

「人権教育の研修だね」

 人権を教育する立場の教員たちが、研修として祖山を選ぶなのだとか。

 夏休みの大学校舎を使って、研修をするのだ。

 そこで講義を受けたり、質疑をしたり、議論を重ねるのかと思いきや、冒頭の挨拶のあとは、みな自由解散。

 参加者ー受講者=山内お散歩。

 山内お散歩するのは多いに結構である。避暑地としても名高いではないか。

 だが、である。

 人権を学ぶ機会を踏みつけにして、山内の喫茶店で談笑したり、うたた寝をしていたのだとしたら、どうだ。

 怠けることもあるだろう。人間だもの。

 だが、しかし、である。

 人権を口にして、人間の生存のなんたるかを考えもしないで、テキトーに口頭でガキどもをだまくらかせばいいのだとしたら、三つ冒涜である。

 未来ある生徒への冒涜。人権という近代の叡智への冒涜。そして自身の人権に対する冒涜である。

 こっちは痛くもかゆくもない。人権派を標榜する連中のことを、これからもシラフでは聞かないだけのことである。あほんだらが。

2018年7月27日金曜日

毎朝ブログなど

 毎朝、ブログを書いていくと、頭を整理していくことができるというような話を聞いた。以前にも聞いた覚えがある。

 読んだ本の話題であったり、身近なことを書いていくことで、脳を活性化していくのだとか。アウトプットすれば、情報を整理していくことができるのだとか。

 最近読み終わった本について、考えるが、どれも途中で投げ出したものではないだろうか。

 ある読書会に出た。ほかの参加者がいなくて、主催者と二人で話すことになってしまった。

「今まで、何冊読んでますか?」

 何? 今月? 今年? まさか、現世?

 本を読んだことを、いちいちカウントしてこなかった。読んだものの、退屈な本をがんばって読んだこともある。面白い本は内容を結構覚えているものだ。

 読書体験を冊数でカウントするのは、本を読むことで知的活動をしていると過剰に身構えているようで、あまり好きではない。

 くだらないビジネス書や、自己啓発本を何冊読んでも、いいものをじっくり読んだものとは程遠い。もちろん”いいもの”の定義はそれこそ、自由であるべきだ。

 確かに読んだ内容を簡単にまとめていくことは、理解を定着させるのにいいのかもしれない。

 しかしどうしても思ってしまう。

 読むに値する内容を書かないといけないのではないかと。

 つまらない内容のブログを読んでいると、どうしても考えてしまう。

 考えたのに、こんな記事になってしまうなんて。という矛盾。

2018年7月14日土曜日

臆病者は壺を売られる

 職場の近くに海外留学を紹介するカウンターができた。

 その前を通り過ぎた時、若い男性二人の会話が聞こえた。

「壺を売りつけられるのではないか」

 いい。実にいい、臆病ぶりである。憶測と、貧相な想像力だけで世界の危機をいつも感じている臆病加減がすこぶるいい。

 彼らの頭のなかでは、常に陰謀と恐怖が渦巻いているのだ。

 オウムによるサリン事件が報道された時、阪神・淡路大震災で炊き出しの小学校に寝泊まりしていた。

 そこでさも、事情通の人が語っていた。

 テレビ放送で公共広告がやたら目立っている。

 震災によって、人々が動揺している。

 その感に、国家は支配体制を強化するために、公共広告を入れて、国民を都合よく洗脳しようとしていると。

 ほんとかなぁと思っていた。

 案の定、あとから違うことが分かった。

 震災の報道を行うにも、スポンサーが必要である。しかしスポンサーが作るCMはもちろん、商品を告知するのが目的である。当然、浮世離れした演出もある。楽しさを表現したものもある。

 そうしたものを放映していたら、この緊急時に何を気楽なことをしているのかと、顰蹙を買ってしまうことがある。

 だから、スポンサーの降板が相次いだし、名称を流すが、CMを流さないということも起こった。その合間をうめるための、放送局にとってフリー素材的なものが公共広告だったのだ。

 これは現に、のちの東日本大震災でも同じことが起こる。

 菅直人のボンクラさは到底、隠しおおせるものではなく、国家権力の求心力はだだ下がり。その間に挨拶しましょうという公共広告が結構な頻度で流れたのだ。ポポポ、ポーンのアレである。

 阪神・淡路大震災の時、村山内閣は長く続かなかったし、批判にさらされた。国が国民を洗脳しようとしているのなら、どう考えても大失敗である。

 なんとなく、したり顔で語る事情通。憶測で現象を付け足しているだけなのだ。何も分かってはいない。

 しかし、そういう人を見ると、たまらなく嬉しくなる。世界の真実を知ったふりで、まんまとテロリストの手先となって恐怖を煽るような輩は、こうした事情通なのだ。

 壺を売りつける側は誰を狙っているのか。その商品価値は恐怖や不安を和らげること。つまり怯えるものほど、格好の餌食なのだ。

 売る方も、売りつけられる方も、本体はただの臆病者。恐るに、強烈物足りない。

「早すぎた。腐ってやがる」の巨神カエルなんだとか。

2018年2月10日土曜日

節分のドラキュラ

 『魔法修行者』という随筆の中で、幸田露伴翁はいう。

 魔術という言葉と、magicという言葉には、音が似ている。これが後世の研究によって解明されるのを待ちたいと。


 この手の言葉遊びは近代、よく研究対象にされたらしい。


 研究がつたない時代と想ってはいけない。


 加持祈祷で用いる閼伽水(あかすい)の語源は、aquaであり、インドを発祥として水を意味する上で、洋の東西が同じ音を用いていたのだ。


 しかしこの例は、なかなかレアである。同じような事例はなかなかない。


 だから、何でもかんでも、世界の文明(特にヨーロッパ)と繋がっていると曲解を急ぐようになる。


 天皇(すめらみかど)という敬称は、統める、澄める、と諸説あるが、統治する聖なる王という意味の言葉で、万葉集や古事記に使われる言葉である。


 しかし近代の叡智は、そうは解釈しない。


 シュメール文明の末裔であることを意味しているのではないか。そんな奇説が登場したりもする。歴史学の中にも、雑草が多かったのかも知れない。


 そうした潮流の中で、露伴翁の指摘は自然に発生した物であろう。


 魔術は、魔・術と分解できるため、magicとの関連性は成り立ちにくいだろう。


 そう想っている。


 しかし、密かに腑に落ちないことがある。


 ルーマニアで行われるドラキュラ除けの風習。


 ドラキュラが現れるという日の前日に、遠く離れたところから村まで、子どもたちは昼間に豆をまくのだ。


 伝承では豆のように、細かいものに、ドラキュラは目を奪われる。つい豆を拾ってしまう。それが多いため、拾っている間に、村にたどりつけず、夜が明けてしまうというのだ。


 魔物除けに豆を用いるという点において、節分と類似しているが、鬼には直接ぶつける。煎った大豆の堅さに鬼は逃げ出す。


 豆のもつ生命力に対して、死やケガレは効力を発するという点においては類似しているのではないか。


 一つの神話や伝承が東西に伝わったとはかんがえにくい。


 しかし何かの文化が伝わったのだろう。


 皮肉なもので、生物学的に生存が確認されていない、魔物や鬼、吸血鬼の生態が共通の対処方法をもって望んでいることで、実は共通した生態が見えるのではないか。


 これこそ、後世の研究で解明されるのを待ちたい。

2018年1月2日火曜日

書き初め

書道の素養はない。というか、悪筆加減は絶望的である。

達筆な人をみると、羨ましくてならない。

十代で読んだ宮本武蔵で、幼少の武蔵が書道で集中力を高めたという描写があり、そんなものだろうかと感心していた。(そうした説話は一切なく、その本の作者の啓発であったのだろう)

書は人なり、という俗諺はあまり好きでは無い。

書に人格が表現されるというのは、にわかには信じられないからだ。

書家の師僧の末席にいて、こんなこというのもいけないのだが、書の表現と人徳とは必ずしも比例しないのではないかと思っている。

孫文の書はほとんど残っていないという話を聞いて、いかにもと思う。

近代の革命家に、中世の書は似合わない。

いや、高校時代の書道の先生が、人徳者と思えなかったことに起因しているのかもしれない。

書がきれいだが、猜疑心と虚栄心の塊のような人がいた。

恐ろしく悪筆だが、冷静沈着に仕事をする人も見た。

達筆であるから、人徳者であってほしいというのは、やはり願望である。

と、いうことをもって、安心して汚い字を書いている。

多分、今年も汚い字を書いているだろう。