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柳生新陰流の宗家だった柳生延春氏の演武を、映像で見たことがある。戦国時代末期から、江戸時代初期にまとめられた、諸書の文献に登場する技を次々と繰り出すが、動きが精緻な割に、現代撮影されるような立回りとは、少々趣が違う。
ふらふらと袋竹刀を何度か構えなおし、不意に始まる。居合の所作に見慣れていると、結構粗雑な印象すら受けてしまう。
しかし現代の剣道では考えられないような、秘術が飛び出す。全く予備動作を見せずに太刀を投げつけたり、えびぞりになって小手だけを精確に斬りつけたり。
見栄えにかけるが、習得すれば、確実に相手を討ち果たすことができる技法を、丁寧に継承している。
こうした 型を持っている文化は面白い。そこからの伸び代が際限ないからだ。型を惜しげもなく捨てている。
逆にフルコンタクトの空手や、プロレス ・ショーに全く興味がない。抽象的な精神論以外と筋肉にしか頼るものがなく、深みにかけるからだ。
しばしば月並みな道徳を、口にする人がいる。
もうびっくりするぐらい、朝礼の校長先生みたいなことをいう。
校長先生が話していて、覚えていることは何もない。(唯一覚えているのは、風があらぬ方向から吹いて、バーコードのように撫で付けた髪が、妖怪アンテナみたいに立ち上がっていたことだ。担任の先生も笑うなといいながら、満面の笑みであった。)
老子や公案で、しばしば孔子や社会道徳がバカにされる。そんなわかりきったものにすがって、生きられるほど、人間は単純な生き物ではないぞと。
娼婦を石打のリンチで殺そうとする人々にイエスはいう。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
わお、ジーザス、かっくいー。
一般的に善か悪か。そのことを全否定するのは単なる、反社会的精神疾患だ。
しかし社会通念の善悪だけが、全てだという稚拙さに気付けない無神経な人に、何を語られても、聞けたものではない。
フォームを知っているだけで、フォームを使いこなせないような秘技など、秘技と呼ぶに値しない。
いわんや、型通りに収まりそうにないから、何もしないなんて。
ブログの記事っぽくないから、書かないなんて、という自戒である。
明治の頃の写真か。後ろ足のかかとが 戦後の剣道のように、飛び跳ねないのも注目。 |
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