吉野山の吉水神社では、後醍醐天皇のエネルギーがあるのか、すごいものを感じることができると言われたが、涼気と静寂以外に特になかった。(それで充分)
ある本山を取材に尋ねると、大日如来と名乗る年配の女性が、職員を辟易させていた。
寺社に参拝すると、しばしば、こうした「不思議ちゃん」に遭遇することがある。
いってしまうと悪いが、特定の地場にそんな特殊な”エネルギー”なるものが発生しているのなら、奈良や京都はとっくに浄化されつくしているはず。
信仰の自由は保証されるべきだが、オカルトの自由は信者さんの心を踏みつけていないか。(一度、祖師のことを宇宙人だと評した、ヒッピーまがいの権威学者がいたが、どつたろかと思った)
霊場と呼ばれるところは、レアな”パワー”があって、路傍のお地蔵さんは素通りする。そんなものはオカルトでしかない。軽薄すぎる。
あることに気がついた。
そうした不思議な力を感得することができる「不思議ちゃん」。しかし彼らが”エネルギー”や”癒しのパワー”を感得できないが、有名な神社がある。
伊勢神宮と靖国神社である。
皇室や保守系のややこしい話題のところには、なぜか”エネルギー”を感じる人がいないのだ。
まさか日本の神々で一番尊い神様や、国の安寧に命を捧げた英霊たちが、現代の我々に無力だというのか。結構、主観混じってないか? と。
どこのお宮であろうが、寺院であろうが、そこを維持してくださった人たちの篤志がある。本尊と並んで尊いものがあるとしたら、それ以外に何がある。
供養する人、回向する人、接待する人。みんなが良かれと思って集う場所だからこそ、意味があるのであって、誰がいたとか、由緒書きは単なる権威付けでしかない。
「不思議ちゃん」に共感できないのは、そうした権威をいともたやすく受け入れるくせに、戦後民主主義にのっとって神仏を好き勝手に分別していることである。そこの信心を雑に踏みつけていることの無自覚さだ。
インドのシーク教寺院 こうしてみると、平等院鳳凰堂のアイデアもパクリやったのか。。。 |
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