実際に長野県下伊那郡に存在する大鹿村。そこにだけ伝えられているのが、大鹿歌舞伎。
全然知らなかった。
それを取り扱ったNHKドラマに出演したことがきっかけで、原田芳雄が企画。脚本段階から、制作に参加して実現のが本作なんだとか。
面白かった。
長野県のことは詳しく知らない。大鹿歌舞伎どころか、歌舞伎自体、全然知らない。
知らないが、伝統文化として、いかに愛されてきたのか。現地エキストラが三百人参加したことを考えれば、自明である。
その大鹿歌舞伎を五日後に控えた、その日。
原田芳雄演じる、食堂の店主、風祭善のところに怪しげな老夫婦が来る。
小さい村のことである。すぐに二人のことは知られてしまう。
その二人が夫婦ではないこと。女性は善の妻であった貴子。男性は善の親友だった、能村治。十八年前の嵐の日、手を取り合って、駆け落ちした二人であること。
「なんで帰ってきた」
「貴子さんが、俺のことを、善さんって呼ぶんだ」
貴子は高齢による、記憶障害になっていたのだ。治では面倒を見ることができなくなり「返す」という。
駆け落ちして、精一杯がんばったが、後ろめたさに苦しみ、実家の五十回忌に出られなかったことに泣き出す治。
記憶障害の自覚がなく、暴れたあと、ふっと元の人格に戻ったかのように、晩御飯の相談をしてくる貴子。
彼女に戸惑いながら、それでも彼女を愛さずにはいられない善。
本当なら、悲痛で、惨めで、行政の無能っぷりをさんざん罵るような内容にもなるが、そんなのはつまらない。
とことん、コミカルに、楽しく見せてくれる。
嵐の事故で、役者の一人が怪我を負い、大鹿歌舞伎が公演できないことになる。
ところが記憶障害であった貴子が、かつて演じていた段の台詞だけはしっかり覚えていた。善と貴子という、かつて共演した二人で、もう一度、舞台に。。。
許されないこと。贖罪。それらを負った果てにある、舞台袖の貴子の台詞。芝居の中の善の台詞とが、ぴったり符号するという、粋な趣向。原田芳雄、かっこいい。
罪の意識に苦しみ、過去をいかに悔やんでも、もうどうしようもない。それが老いである。
一貫しているテーマは、許しでありながら、許し、許される関係では清算されない。
許されないことの苦しみを克服してくれることが、お互いの唯一の救いなのではないか。
そうやって、はじめて過去と折り合いがつくのではないか。そんなことを考えてしまった。
2011年の、公開三日目にして、原田芳雄は死去した。本作が遺作となった。
ギラギラした若者が、気難しい親父になり、生きることに精一杯しがみついた老人を演じた。
好き放題を気ままにしてきたわけではない。悔しい思いもしながら、それでも目の前の日常を生きてきた。そんなキャラクターを見事に演じている。
彼が演じる風祭善のように、ちょっと惨めだったが、夢中になることに夢中になり、精一杯そこで生きていけるのだとしたら、老いることも、まんざら悪くない。
若造の立場で、そんな生意気なことを思ってしまえる映画である。
高齢者が生産性の無い、社会的負担だと思ったら大間違いである。ましてや、それに便乗して、思春期みたいな、ありもしない”自分らしさ”とか”セカンドライフ”とかを売りつけるヤカラも、ヤカラだ。買いつける高齢者がいたとしたら、あまりに低俗である。
行政がどうしたとか、善は言わない。
「三百年だぞ、三百年。三百年続いた大鹿歌舞伎、俺たちで止めていいのかよ」
ふたことめには、全員これである。最初からアテにしていないし、そんなものが自分たちの文化を助けてくれるとは、思っていない。
自分たちで耕し、働き、はぐくむ強さは現役なのだ。
行政を批判して、足腰をさすって、泣き言をいうような、若造が期待する老人は一人も出てこない。
長老格たる三国連太郎がラストに、円空仏を思わせる仏像を手向ける場面などは絵画と見まごうような色彩で描かれている。
三国連太郎に許しを乞うような台詞があり、対照的に佐藤浩市はコミカルな部分をしっかり担う。奇妙な親子共演も注目。楽しみの尽きない映画だろう。
クランクインのときのタイトルが『いつか晴れるかな』。本当に雨上がりの空を、見上げるような気分にさせてくれる映画である。
多分、もう二回はみると思う。
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