2015年6月30日火曜日

Game over

任天堂DSを中古販売しているのをみかけた。

どの種類が、どう販売されいていたのか、さっぱり分からないが、かつてテレビCMで映っていたものが千五百円程度で販売されていた。

今から、およそ5年ほど前のなのではないだろうか。通信ができるとか、人気ソフトの続編が登場したとか、当時、話題になったはずである。

ゲームをがっつりやっていれば、それなりに楽しめたのだろう。

それより、思い出して、ソフトコーナーを覗く。確か、脳トレやパズルが充実していたはずだ。それらは本体よりも随分な値段で販売されていた。

しかしそれらを見ていて、思った。

冷蔵庫の中身を入力するだけで、献立を教えてくれるソフト。日々の出費を入力すると、会計としてまとめてくれるソフト。適正な運動量をアドバイスしてくれ、ダイエットをゲーム感覚で演出してくれるソフト。

待てよ?

現代ではそれらは全て、スマホで代用されているではないか。

つまりユーザーのニーズは変わらず、店頭ではなく、通信を介してフリーソフトとして、アプリケーションをインストールし、使ってみて、グレードアップとして課金するという、消費の仕方が今や主流である。

ブランドが何やらの先生監修で、下請けプログラマーに作らせた、結構お高めなソフト(お試しなし)という販売方法とは圧倒的にことなる方法である。

ましてや、当時からgmailアカウントで、カレンダーやdocsを使っていると、機能が拡張されていくのを目の当たりにするし、不便さがgoogleに送られて、どんどん改善していくのを目の当たりにしている。

(結局、それらのニーズはgoogleappsに反映されて、ビジネスとして活用されている。)

ウェブの利便性を最大限に生かしているだけではなく、消費しているのか、モニターに参加しているのか、よく分からなくなる。

販売してやるから、買え。そういう、旗印ブランドのような売り方はとっくに終わっていたのだ。その過渡期にあって、まさに任天堂は通信を取り込みつつはあったが、舵を切るにいたらなかった。

日本製のゲームは世界で通用するという、90年代の消費行動を今でも妄信しているとしたら、時代錯誤もはなはだしい。

任天堂から販売の下請けをしていたという人の話を聞いたことがある。

「今期はいくら売ってほしいんだ?」

任天堂さまから、お商品をおゆずりいただかないと、ワシらなんぞ、おまんまの食い上げでごぜぇますだ。どうか、いくらでもお申し付けくだせぇ。どうか、後生でごぜぇます、マリオカートをお目こぼしぐだぜぇ。

花札とトランプを作っていた会社が、80年代の成功を経ると、そうなるのだ。

かつてi-phoneを宣伝する際に用いられた、ギターのコードを押さえて音を出すというアプリは、確かルクセンブルクの個人プログラマーが開発したのではなかったか。

価値観が変わったり、社会体制が変わったり、何かとんでもない時代が来たと、何かにつけて、騒ぐ人をテレビで散見する。

本当にそうか?

消費の仕方や、販売方法が変わっただけなのではないのか。売られているものパッケージは変わったが、本質は同じなのではないか。
子供の対戦カードゲームは原色で印刷するから、
色のブレ幅が大きくてもOKで、数を印刷するから、
印刷屋さん的にチャリンチャリン。

2015年6月29日月曜日

No 不思議ちゃん

京都の仁和寺に行った時、何かそこにエネルギーを感じて、離れられないとか宣う女性が、熱心に周囲に話していた。

吉野山の吉水神社では、後醍醐天皇のエネルギーがあるのか、すごいものを感じることができると言われたが、涼気と静寂以外に特になかった。(それで充分)

ある本山を取材に尋ねると、大日如来と名乗る年配の女性が、職員を辟易させていた。

寺社に参拝すると、しばしば、こうした「不思議ちゃん」に遭遇することがある。

いってしまうと悪いが、特定の地場にそんな特殊な”エネルギー”なるものが発生しているのなら、奈良や京都はとっくに浄化されつくしているはず。

信仰の自由は保証されるべきだが、オカルトの自由は信者さんの心を踏みつけていないか。(一度、祖師のことを宇宙人だと評した、ヒッピーまがいの権威学者がいたが、どつたろかと思った)

霊場と呼ばれるところは、レアな”パワー”があって、路傍のお地蔵さんは素通りする。そんなものはオカルトでしかない。軽薄すぎる。

あることに気がついた。

そうした不思議な力を感得することができる「不思議ちゃん」。しかし彼らが”エネルギー”や”癒しのパワー”を感得できないが、有名な神社がある。

伊勢神宮と靖国神社である。

皇室や保守系のややこしい話題のところには、なぜか”エネルギー”を感じる人がいないのだ。

まさか日本の神々で一番尊い神様や、国の安寧に命を捧げた英霊たちが、現代の我々に無力だというのか。結構、主観混じってないか? と。

どこのお宮であろうが、寺院であろうが、そこを維持してくださった人たちの篤志がある。本尊と並んで尊いものがあるとしたら、それ以外に何がある。

供養する人、回向する人、接待する人。みんなが良かれと思って集う場所だからこそ、意味があるのであって、誰がいたとか、由緒書きは単なる権威付けでしかない。

「不思議ちゃん」に共感できないのは、そうした権威をいともたやすく受け入れるくせに、戦後民主主義にのっとって神仏を好き勝手に分別していることである。そこの信心を雑に踏みつけていることの無自覚さだ。
インドのシーク教寺院
こうしてみると、平等院鳳凰堂のアイデアもパクリやったのか。。。


2015年6月28日日曜日

googleカレンダー通知機能

Gmailが一般公開になったときから、感心していたのはgoogleカレンダーである。

それまでのyahoo のカレンダーを使っていたが、デザインといい、操作性といい、機能性といい、全てにおいて、googleカレンダーは惚れ惚れする出来であった。

スケジュールの通知機能を久しぶりに使おうとすると、不意にこんなメッセージ。


うわお。

Googleはnote(docsに淘汰された)といい、igoogle(サイトで代用できるという説明)、buzz(google+で代用)といい、装備されるのも早いが、効率悪いと判断されたサービスは他のものに統廃合される。

無料で使っているのだから、文句もいえない。yahooやMSN(?)に比べて、はるかにたくさんの恩恵にはありつけているのだ。

今回のSMS通知サービス終了は、すでにあるメール機能で充分だから、ということである。

つまりガラケーのメール受信で、スケジュールを見るより、スマホのメール受信の方が多いから、ガラケー向けはやめとこか? ということ。

そうである。日本ではもはやスマホが主流であり、ガラケーをメインに使う人はマイノリティなのだ。(シニア世代のなかには、ボタン操作がいいとかいう人がいるが、要は慣れの問題。手元の小さなボタンより、画面の方がいいと、あっさりスマホに切り替えた、シニアを何人か見た事がある)

だが、willcom03を使っている身としては看過できない(というか、スマホという日本語を最初に使っていたのは、当時のwillcomである)。

オリジナルのドメインに対して、やはりメールさせておきたい。

食べるパンがないなら、ケーキを食べればいいじゃない、だ。(そんなに甘いもんばかりは食べられない。例えがよく分からないか)

そこで思いついた作戦。

メール通知を転送する。(今さら紹介が必要なのだろうか)


1.転送先を登録する。


Gmailにログインして、右の歯車ボタンから「設定」を選ぶ。
「メール転送とPOP/IMAP」のタブの中から「転送先アドレスを追加」ボタンをクリック。
追加するメールアドレスに、メアドを入力して、「次へ」ボタン。
すると、送信するアドレスの確認表示が出るので「続行」。
9桁のコードが送信された通知が出るので「OK」。
画面が「メール転送とPOP/IMAP」に戻るので、登録したいメアドに届いた9桁のコードを、入力して「確認」。

転送先のメアドの追加が完了。


2.カレンダーからのメールを転送設定する。

隣のタブ「フィルタ」に移動。




「新しいフィルタを作成」をクリックすると、フィルタの条件入力画面に。
ここではcalendar-notification@google.com(カレンダーからのお知らせ)全てを転送したいので、Fromにこのアドレスを入力。

「この検索条件でフィルタを作成」をクリック。
設定の画面に移動するので、「次のアドレスに転送する:」にチェックを入れる。
「アドレスを選択」の候補に、今回登録したアドレスがあるので選択して「フィルタを作成」を押す。

もちろん、Gmailにメールが届くので、既読にする、削除する、などを必要に応じて選択する。

これでカレンダーを設定する際に、通知に「メール」を選んでも、大丈夫。ガラケーだろうが、サブのアドレスだろうが、そこに転送される。

そうこうしているうちに、Gmailの「送信取り消し」が正式機能に追加という一報。

(これで安心して、うっかり送信しかけてしまえる。)

Labsから使っている人には、今さら感は否めないが、メジャー昇格で、久しぶりに話題な機能ではないだろうか。

と思ったが、話題になっているのだろうか。。。Boomerangなみに、便利な機能と思うんだけど。

(画像取り込みや、キャプションの整理など、一時間半ぐらいかかってしまった。マニュアル作る仕事してる人みたいに、疲れた)

2015年6月27日土曜日

国産ボールペンよ、永遠に

軍事用飛行機に機関銃を積載するのは、第二次大戦から行われていた。

重たい機関銃を乗せるだけではなく、運転手とは別に狙撃手が左右に回転させて撃たないといけない。

その時に必要な技術が、ベアリングである。

均一の大きさで、限りなく完全に近い球体のものを製造できないと、戦局に大きく影響してしまう。

この技術が日本では良かったらしい。

戦後、この丸い玉を作る技術は別々の用途に進化していく。

多少荒くても、大量に作れる技術は、ランダムに玉を弾く遊戯パチンコに進化していく(だから、日本にしか、あの遊具はない)。

精確な球体を再現していく技術は、さらに小さくなっていく。

そしてできたのが、ボールペンである。

どういう角度から、どう動いても安定してインキを供給するためには、小さく、精確な球体が必要なのだ。それを実現したのが、国産のボールペンである。

気取った成人男性向けの雑誌で、万年筆を紹介していることが多いが、なんのことはない。ボールペンを作る工業的なインフラとスキルが、海外にはないのだ。

海外旅行にいき、特にアジア圏にいった人に話を聞くと、日本製のボールペンの効果は絶大だという。チップの代わりに重宝したという話もきく。

インキが最後まで出るように長く使える。書き味がいい。軽い。それが日本のボールペンなのだ。

台湾でボールペンを売りつけてくるのを見たことがあるが、結構太い玉で、重たいものを自慢していた。

日本に来た、フランス人がフランス料理店で料理に苦笑いしたり、イタリア人がナポリタンに肩を落としているのだとしたら、我々日本人は海外で書類にサインするときは肩をすくめていい。うわ、こんなぶっといペンで書けってか? みたいに。

”失われた10年”が20年になったり、30年になったり、半世紀になったりするのだろう。まるでヘミングウェイを気取ったような言い方だが、何を失ったというのか。成長神話と猛烈社員が失われたというのなら、大歓迎ではないか。

それと同じようなトーンで、日本の製造業がダメになったとか、なんとか言われても、にわかには信じない。

国産のボールペンが書きやすく、安価で、コンビニで何かを買うついでに手に入るのなら、日本の製造業と流通産業がダメになったとはいえない。

国産ボールペンよ、永遠に。日本の技術の旗印であり、敵機を撃ち落とす必要がない社会の象徴である。剣より強く、永遠たれ。

2015年6月26日金曜日

幸せだけでは生きていけない

結婚情報誌の下請けをした時のこと。

元請けのディレクターの出入りが激しいことが、まことしやかに囁かれていた。

今回入社した、と紹介される人が半年後にはベテラン風な口ぶりで周囲に指示を出し、一年たつとアルバイトを顎で使い、さらにすると、物凄く考えが浅い人間であることを露呈するか、退職するかであった。

とにかく人がいつかないという。

その理由は?

朝、出社する。朝礼のあと、昨日の作業の続きと、数ヶ月先の企画準備というスケジュール。

その企画というのも、見出しの派手さに牽引される、お得感や好印象とか。ひたすらご結婚おめでとうと、乾杯している情景を思い浮かべて、そこに関する記事や広告を考えないといけない。

幸せな風景をイメージしている割に、短納期、深夜残業でヘトヘトという不幸な実態。

そりゃあ、辞めるだろうなぁ。

幸せばかりでは、人間はいきていけないのではないか。ふとそんなことを思ってみたりした。

幸せを想像し続けていると、幸せになれる、とかいう、「ぼんやり幸せ」信仰はあまり好きではない。これにビジネスバージョンも同様である。

はっきりいって、そんなに世の中甘くない。高度経済成長期ならまだしも、努力という積立預金をしていれば、高利回りで幸福が舞い込んでくるなんて屁理屈、今時の中学生でも騙せないだろう。

幸福な情景を思い描く苦痛。なんという矛盾か。

幸福だけでは、生きていけない。パンのみでは生きていけないのと同じ道理なのかもしれない。

結婚情報誌の吊り広告を見るたびに、思ってしまう。

購入者と、編集者の、見えざる深い深い溝。その深淵をふっと覗いてしまったのかもしれないと。

18歳人口が多かった時代は、
ご祝儀目当てに、業者という業者が。。。

2015年6月21日日曜日

データを作成するときに気をつけておきたい3点

消えた。

言い訳がましいことだが、一時間かけて書いたテキストがうっかり消えてしまった。久しぶりである。

ちょっといつもと違うものを使って、テキストを作ったために、少し不安定なものがあったのだろう。

しかしこうした喪失感について、いつも考えてしまう。

Microsoftのofficeを昔に使っていて、深夜に何枚もの原稿を仕上げたのに、疲弊しきっていたために、保存に失敗。

二、三時間の努力を数秒で紛失させたことがある。

(それ以来、ctrl+Sのショートカットは習慣付けした)

Oficce2010以降だろうか。

文書を開いても、すぐには編集できなくなっている。編集するかどうか、画面上のボタンを一つ押さないといけない。結構慣れるに時間を要している。(現在進行形!)

どうして、こんな機能が追加されたのか。そんなことを考える。

きっと、うっかり開き、うっかり追記したり、削除しないように、閲覧モードと編集モードなるものを、考えたのではないだろうか。そんな薄らバカがリアルにいるのだろうか。

そう思っていたが、結局その機能は2013でも、なくなっていないように聞く。ニーズはあったのだ。(どうせ、編集モードでうっかり削除したら、それきりなのにと思ってしまうが。)
こんな話を聞いたことがある。ちょっとさぶい話。

イベントでUSBメモリにプレゼン資料を持ってきた、年配の部長が、自前のノートPCで中身を確認する。
大丈夫、ちゃんと入っている。

そのまま、引っこ抜く。ブチッ。

受付に差し出して、確認してもらうが、データが壊れていると告げられる。

「あんたが、壊したんじゃないのか。俺のパソコンで見れたぞ」

そう息巻いたが、では、そのノートPCで見てみようとなって愕然。

外す時に、読み込みを解除していなかったから、中のデータは正真正銘、破損していたのだ。

慌てて携帯電話で自社に電話し、震える声で部下に檄を飛ばす。データをなんとか持ってこいと。

持ってこなくていいように、USBをもたせたのに、これである。

そそっかしい上司の尻拭い。ヘルプでも、フォローでもなく、本当に、拭っている感を否めない仕事。最悪だろうなぁ、と思った。

自分で、パソコンを使う上で、心がけているルール。
・ctrl+Sかそれに代わる操作を逃げ道として、用意しておく。
・人をアテにしない。(あてにする癖をつけると、間違いなく、身にしみない)
・失敗に懲りない。

Macosが8以前であった時の、データ破損頻度を思い出せば、なんということはない。

2015年6月14日日曜日

仕入先に引きずられ

自社の商品や、キャンペーンを告知するために用意する、ペンやメモパッドなどの消耗品のことを、なんというか?

正解はノベルティ。

どういうわけか、この単語だけが、出てこない。

出力センターを使うときに、サイトをみる。ときどぎこの単語を見ると、決まって新しく知ったような気がして、不思議である。

ふと思い出すことがある。

印刷会社で働いていたときのこと。

鶴橋の辺りにある、木型屋さんだったか、製版屋さんだったかに用事があって、車で移動した。

信号待ちをしているときに、ふとラブホテルの看板が目についた。

「アメニティ・グッズも各種取り揃えて、云々」

ああ、歯ブラシとか、宿泊時に消耗するもののことを、アメニティっていうんや。

しかし覚え方がまずかった。

本来、衛生的なものであるが、仕入れた情報先が情報先だけに、記憶の引き出しを間違えた。

アメニティという言葉そのものに、何か卑猥な意味があるかのように錯覚してしまったのである。

無論、日常でアメニティという単語を使うことは、まずない。使用頻度が少ないから、使用方法もよく分からないまま。

そのまま引き出しにカギをかけたのだろう。アメニティなんて、言葉知らない。うっかりしても、言わない。

そこで間違いが続いた。営業部の古株が、前後して社内でぼやいていた。

「ノベルティの仕事でも取れれば、色々提案できるのに」

なぜか、鶴橋の入り口が分かりにくい宿泊施設の外観が脳裏にちらついた。

まとめてしまいこんでしまったのかもしれない。

時々、自信がなくなる。

自社のキャンペーンを告知するためにと息巻きながら、うっかり周囲がドン引きするような単語を言い出すのではないだろうか。

自分が言ったあとで、誰かがひそひそ話したら、ものすごく気になる。

いや、そもそもアメニティに、そんなにピンク色の意味はないはずなのに。。。

仕入先を間違えた。

2015年6月13日土曜日

老いるのも悪くない。『大鹿村騒動記』

実際に長野県下伊那郡に存在する大鹿村。そこにだけ伝えられているのが、大鹿歌舞伎。

全然知らなかった。

それを取り扱ったNHKドラマに出演したことがきっかけで、原田芳雄が企画。脚本段階から、制作に参加して実現のが本作なんだとか。

面白かった。

長野県のことは詳しく知らない。大鹿歌舞伎どころか、歌舞伎自体、全然知らない。

知らないが、伝統文化として、いかに愛されてきたのか。現地エキストラが三百人参加したことを考えれば、自明である。

その大鹿歌舞伎を五日後に控えた、その日。

原田芳雄演じる、食堂の店主、風祭善のところに怪しげな老夫婦が来る。

小さい村のことである。すぐに二人のことは知られてしまう。

その二人が夫婦ではないこと。女性は善の妻であった貴子。男性は善の親友だった、能村治。十八年前の嵐の日、手を取り合って、駆け落ちした二人であること。

「なんで帰ってきた」

「貴子さんが、俺のことを、善さんって呼ぶんだ」

貴子は高齢による、記憶障害になっていたのだ。治では面倒を見ることができなくなり「返す」という。

駆け落ちして、精一杯がんばったが、後ろめたさに苦しみ、実家の五十回忌に出られなかったことに泣き出す治。

記憶障害の自覚がなく、暴れたあと、ふっと元の人格に戻ったかのように、晩御飯の相談をしてくる貴子。

彼女に戸惑いながら、それでも彼女を愛さずにはいられない善。

本当なら、悲痛で、惨めで、行政の無能っぷりをさんざん罵るような内容にもなるが、そんなのはつまらない。

とことん、コミカルに、楽しく見せてくれる。

嵐の事故で、役者の一人が怪我を負い、大鹿歌舞伎が公演できないことになる。

ところが記憶障害であった貴子が、かつて演じていた段の台詞だけはしっかり覚えていた。善と貴子という、かつて共演した二人で、もう一度、舞台に。。。

許されないこと。贖罪。それらを負った果てにある、舞台袖の貴子の台詞。芝居の中の善の台詞とが、ぴったり符号するという、粋な趣向。原田芳雄、かっこいい。

罪の意識に苦しみ、過去をいかに悔やんでも、もうどうしようもない。それが老いである。

一貫しているテーマは、許しでありながら、許し、許される関係では清算されない。

許されないことの苦しみを克服してくれることが、お互いの唯一の救いなのではないか。

そうやって、はじめて過去と折り合いがつくのではないか。そんなことを考えてしまった。

2011年の、公開三日目にして、原田芳雄は死去した。本作が遺作となった。

ギラギラした若者が、気難しい親父になり、生きることに精一杯しがみついた老人を演じた。

好き放題を気ままにしてきたわけではない。悔しい思いもしながら、それでも目の前の日常を生きてきた。そんなキャラクターを見事に演じている。

彼が演じる風祭善のように、ちょっと惨めだったが、夢中になることに夢中になり、精一杯そこで生きていけるのだとしたら、老いることも、まんざら悪くない。

若造の立場で、そんな生意気なことを思ってしまえる映画である。

高齢者が生産性の無い、社会的負担だと思ったら大間違いである。ましてや、それに便乗して、思春期みたいな、ありもしない”自分らしさ”とか”セカンドライフ”とかを売りつけるヤカラも、ヤカラだ。買いつける高齢者がいたとしたら、あまりに低俗である。

行政がどうしたとか、善は言わない。

「三百年だぞ、三百年。三百年続いた大鹿歌舞伎、俺たちで止めていいのかよ」

ふたことめには、全員これである。最初からアテにしていないし、そんなものが自分たちの文化を助けてくれるとは、思っていない。

自分たちで耕し、働き、はぐくむ強さは現役なのだ。

行政を批判して、足腰をさすって、泣き言をいうような、若造が期待する老人は一人も出てこない。

長老格たる三国連太郎がラストに、円空仏を思わせる仏像を手向ける場面などは絵画と見まごうような色彩で描かれている。

三国連太郎に許しを乞うような台詞があり、対照的に佐藤浩市はコミカルな部分をしっかり担う。奇妙な親子共演も注目。楽しみの尽きない映画だろう。

クランクインのときのタイトルが『いつか晴れるかな』。本当に雨上がりの空を、見上げるような気分にさせてくれる映画である。

多分、もう二回はみると思う。

2015年6月12日金曜日

厳かな”遷”

画面が操作によってどう変化するのか、を表現するとき、「画面遷移」という。

この言葉を知ったとき、少しショックだった。

奈良から京都に、首都が変わる時のことを「遷都」という。(結構、グロいことを口にしてはいけない、あの”ゆるキャラ”の名前も、これに由来する)

そして何より、高僧の死亡記事を書いたときに使った言葉が「遷化」なのだ。

仏教的な表現で、奥が深いと思ったのは、うつる、かわる、という言葉を生物学的な死に対して、用いていること。

現世での救済を終了し、来世での教導に移動されましたよ。詩的な表現であり、悲壮感はない。大乗らしいニュアンス。

遷移化滅の略が”遷化”らしい。だとしたら、高僧の死を指す言葉と、画面が移り行くことを意味する言葉は、かぶっているのだ。

なんとなく、厳かな気分になる。一人だけ。会議中にこの言葉がでたら、誰も気付かれないのに。
こんな風に仕事してみたい。。。絶対怒られるだろうけど。

2015年6月7日日曜日

個人情報

軍事アナリストの小川和久氏が講演するのを取材したことがある。

当時から、北朝鮮の脅威について、情報が扇情的に流れていた。それに対して氏は面白い指摘をしていたのを記憶している。

「その国家のパイロットがいかに優秀であったとしても、地上部隊がそれを補佐していないと、戦闘は維持できない。もちろん、日本本土を狙うのであれば、地上部隊を輸送する、海軍が必須。これらを総合的に判断して、はじめて軍事力といえる」

トータルで判断しないと、しばしば断片情報に踊らされる。そしてそれこそが、相手の狙いだと。

なるほどなぁと思った。

社会保険庁から、年金受給者の個人情報が流出した事件。

結構、深刻な問題だろうが、結局は再発と成りすましを防いでいくことでしか、決着点はないだろう。

マスコミは、社会保険庁を槍玉にあげて、大臣の引責辞任の囲みを撮影したいだけだ。政治でも、社会問題でも、なんでもない。報道されるのは、ワイドショーなみの”政局”。

問題はそこなんだろうか。


個人情報とは、情報とは、ではないか。

個人を特定する情報。姓名、住所、年齢など。

それらは全て、何人も知ることなく、秘匿されないといけないという、ゆがんだ人権意識が一層、事件の深刻さを深めている。

もちろん、公的機関がこの情報を流出させたことは、法的にも、道徳的にも許されるべきことではない。

しかし個人情報という、万能のカギが奪取され、個人の資産がことごとく、詐欺師たちに吸い取られていくと怯えるのは、フィクションにしても、出来が悪すぎる発想だ。

個人情報といっても、いくつも種類は異なる。

住所、氏名、生年月日程度のものから、クレジットカードの利用履歴、病歴、給与や資産まで。

今回の流出は氏名、生年月日、住所までであった。決して、口座から全て奪われたわけではない。

それなのに、一切、個人情報ばかりか、名前すら誰にも教えないというのなら、羹に懲りてというのではないだろうか。臆病にもほどがある。

情報は漏れる。漏れない情報など、無い。

漏れないためにどうするか、など、今回の職員のうっかりミスを知れば、水掛け論にしかすぎない。

情報は漏れる。それをどの程度まで漏れないようにするのか。

逆にいうと、職員が全ての情報にアクセスでき、端末にダウンロードできるという運用フォーム自体が間違っていなかっただろうか。

個人を特定するのに、必ずしも全て必要であったのだろうか。本人確認であれば、ある程度のレベル以上は手元に置く必要はなかったのではないか。

それら日常業務を振り返らず、ぼんやり外注先に丸投げして、マニュアルを部下に読ませて仕事をしたつもりになっていたのだとしたら、問題はもっともっと深刻である。

何を改善すべきなのかが、まるで見えていないし、当事者でありながら、その意識が欠落しているのだ。

幼稚な責任論に逃げるほど、国民はバカではない。

2015年6月2日火曜日

カタチ

フォーマット

柳生新陰流の宗家だった柳生延春氏の演武を、映像で見たことがある。

戦国時代末期から、江戸時代初期にまとめられた、諸書の文献に登場する技を次々と繰り出すが、動きが精緻な割に、現代撮影されるような立回りとは、少々趣が違う。

ふらふらと袋竹刀を何度か構えなおし、不意に始まる。居合の所作に見慣れていると、結構粗雑な印象すら受けてしまう。

しかし現代の剣道では考えられないような、秘術が飛び出す。全く予備動作を見せずに太刀を投げつけたり、えびぞりになって小手だけを精確に斬りつけたり。

見栄えにかけるが、習得すれば、確実に相手を討ち果たすことができる技法を、丁寧に継承している。

こうした 型を持っている文化は面白い。そこからの伸び代が際限ないからだ。型を惜しげもなく捨てている。

逆にフルコンタクトの空手や、プロレス ・ショーに全く興味がない。抽象的な精神論以外と筋肉にしか頼るものがなく、深みにかけるからだ。

しばしば月並みな道徳を、口にする人がいる。

もうびっくりするぐらい、朝礼の校長先生みたいなことをいう。

校長先生が話していて、覚えていることは何もない。(唯一覚えているのは、風があらぬ方向から吹いて、バーコードのように撫で付けた髪が、妖怪アンテナみたいに立ち上がっていたことだ。担任の先生も笑うなといいながら、満面の笑みであった。)

老子や公案で、しばしば孔子や社会道徳がバカにされる。そんなわかりきったものにすがって、生きられるほど、人間は単純な生き物ではないぞと。

娼婦を石打のリンチで殺そうとする人々にイエスはいう。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

わお、ジーザス、かっくいー。

一般的に善か悪か。そのことを全否定するのは単なる、反社会的精神疾患だ。

しかし社会通念の善悪だけが、全てだという稚拙さに気付けない無神経な人に、何を語られても、聞けたものではない。

フォームを知っているだけで、フォームを使いこなせないような秘技など、秘技と呼ぶに値しない。

いわんや、型通りに収まりそうにないから、何もしないなんて。

ブログの記事っぽくないから、書かないなんて、という自戒である。


明治の頃の写真か。後ろ足のかかとが
戦後の剣道のように、飛び跳ねないのも注目。