2015年4月10日金曜日

VS狩猟民族

日本人論のぶれ幅

日本人論そのものに興味はない。ほとんどが曲学阿世であるし、読み手が欲するものを上目遣いに書きなぐった程度の稚拙さしかないからだ。

しかし、それだからこそ、日本人論の変遷が本当は面白い。
例えば、大正時代に書かれた文芸作品のなかで、日本人男性は弱きを助け、強きくじく、勇猛果敢を美徳として登場する。その強さは、わずか百年にして日清日露戦争に勝ったんだぜ、えっへんと。

単に文芸作品かと思いきや、同じ論調で時局を語ることが行われ、三国干渉に負けた政府の臆病さを痛罵する。

俺たち日本人がアジアを助けないでどうするのだと。

これが一転するのが、戦後である。

私たち、罪深い日本人ごときが申し上げるのはおこがましいのですが、ぐらいの卑屈さである。手のひらの裏返し加減は半端ない。

実はどっちも軽薄。極端に振れただけで、実際は娑婆のムードに便乗してるだけ。

チャラくても、全然いいっショ。なんつーか、考えんの、何か、だりーし。

そう。この軽さが魅力なのだ。本質とかって、ウザくない? なのだ。


農耕民族

しばしば狩猟民族VS農耕民族という対比で語られるのを目にする。(幸いテレビで、ごくまれに)

ハレとケを、文化理解のキーワードに定義したのは、折口信夫である。

日本人の起源が南方にあると考えたのは、柳田國男である。
では、狩猟民族は?

戦後の和辻哲郎である。

これは実は一番欠陥アイデアなのだ。

狩猟民族は厳しい自然環境に生きてきて、時に非情になるが、それが現代では緊張に強い性質に生きる。

農耕民族は牧歌的な環境にあったため、温厚な性質をもっているが、それが現代の緊張した国際関係では弱さになる。

そんなことをまことしやかに語られるのを、聞いたことがある。

何となく違和感を感じた。

そして、それは正解だった。

狩猟民族が緊張に強く、国際競争に強いというのであれば、13世紀に東西の文明を始めてつなぎ、世界史を誕生させたモンゴルは、なぜ世界一の経済大国になっていないのだろう。

かぼちゃの語源であるぐらい、我々と同じ農耕民族であるカンボジアでは、クメール・ルージュがナチなみに粛正をしているし、あの本家では文化大革命当時に知識人を虐殺していたではないか。

全く、これらについて説明ができないのが、狩猟民族と農耕民族という対比なのだ。

つまり、戦後、日本が負けた理由をスケーブゴートするのに、こうした日本人論が分かりやすかったのだ。俺たち日本人は植木等演じる、お気楽な社員であればいいのだ。だって田子作だったもん、と言いたかっただけなのだ。

およそ、この太鼓持ち程度のあさはかさがたまらなく面白い。もったいつけた物言いだが、実はガムを噛みながら、前髪を掻き揚げて、女の子に指差すようなものだ。

「君ぃ、カワうぃね?」

まさか、彼が何か深いことを言っているとでも?
「いいね」押しときましたというタイトルの写真素材
こういう気遣いができる大人になってみたい。

2015年4月4日土曜日

通とあくび

両切りピースならぬ

ピースは葉の香りに酸味の強い特徴があり、ニコチンも多い。

しかしフィルタが現代のように開発されていなかった時代は、ピースやハイライトが主流であり、昔からどちらもフィルタがない、(フィルタ付きも販売されているが)紙巻きの状態であった。

フィルタの製造技術があがり、マイルド・セブンやセブンスターに主流の地位を明け渡すが、年配の愛好家の間では根強い人気があった。

フィルタでニコチンを少なくして、喫煙の有毒性を緩和しようというのが、浅しいと主張する古老もいた。死ぬ時は死ぬのだと。

そうした中で、リバイバルに90年代後半に発売されたのが、両切りのゴールデンバットであった。

価格が圧倒的に安かったのは、フィルタを使わないからだと思っていた。

しかし違った。

実際はタバコを銘柄ごとに製造する際に、こぼれる葉がある。これらを集めて、作ったという。だから、ピースのような酸味も、ハイライトのような辛みもはっきりしない。いわばブレンドなのだと。

そうとは知らない人が、紙巻きを湿らせないように、渋い顔で唇をすぼめながら、ゴールデンバットを吸って言った。

「色々試したが、一番これが気に入ってる」

 ほんとに? エスプレッソでも、カフェオレでも、ブラックでもなく? 香料を足しただけの缶コーヒーが一番うまいって?

目黒とさんま

三代将軍家光は庶民の生活を知るために、お忍びで江戸を徘徊していたという(後の八代将軍”暴れん坊”吉宗も含めて、どうも鎌倉時代の執権北条時頼をモチーフにした伝承臭いが)。

そのイメージで作られたのが、古典落語の『目黒のさんま』。

お忍びで将軍が江戸を徘徊し、目黒で安い、脂の少ないさんまを食べたのが気に入った。江戸城に帰って、思い出してさんまを所望した。

すると脂の乗った、上等なさんまが出される。殿様がっかり。

「ううん、さんまは目黒に限るな」

というのがサゲ。

食通ぶっているが、おバカ、という揶揄である。間違いなく明治以降の作品。

ゴールデンバットを吸うのもいい。目黒でさんまを食べるのもいい。

しかし、それで通を気取っていると、何とも空しい。

もう一つ、古典落語のお気に入り『あくび指南』。

本当に”粋な”あくびを教えるというところに、行こうと、くま五郎に、連れて行かれる八五郎。

「本当に、風情のあるあくびというのは、春先のうららかな隅田川で釣り糸を垂れて、こくりこくり、ふぁあぁ」

などと、師匠に習っている。その稽古を眺めて、退屈し切った八五郎が思わず、ふぁあぁ。

「おや、お連れがお上手」

というサゲ。食欲にしても、あくびにしても、無心なものかなう訳が無い。

お上手なあくびにございます

2015年4月2日木曜日

失恋よりも手厳しく

アブもはちもなく

長らく更新していなかった、ブログサイトがあった。

サービス元からのメールで思い出した。今年の分まだ払ってないよ? と。

慌てて、カードで支払い、確認する。完全に書いてきたデータが全て無くなっていた。ちょっとへこんだ。

ライター仕事をしていた時のことを思い出した。連日、深夜まで残業して、フラフラになっていた。最後に書かないといけないテキストを、何とかまとめた。

集中力ががた落ちだった。本来なら、ちゃんと保存して、閉じる。しかし本当に集中力ががた落ちだった。目の前で、保存せずにワープロソフトが閉じていくのをぼんやりと見ていた。

壁紙をみて、やっと自分が最後の仕事を、台無しにしたことに気がついた。

アメリカの心理学者が研究した結果、データを消失してしまったフラストレーションは、失恋よりも深く傷つくということが分かった。

(あんなに最後までがんばったデータが、一瞬で消失する>「他に好きな人ができました」という手紙を受け取る)

わお。その通りではないか。


バックアップ

教習所で見せられた映像のなかで、保険に入らない兄さんが事故を起こす話があった。

運転が下手な人が入るもんでしょ? そういって入らなかった兄さんは事故を起こして、気を失う。

気がつくと、病室に妹が見舞いにきてくれている。何となくくらい表情。ごめんな、事故起こして。お母さんたちは? お前も春から大学で準備忙しくないのか?

そう気楽にいう兄さんに、妹がうつむき加減にゆっくり話し始める。

「お兄ちゃんが保険に入っていなかったから、全額支払うことになって、お父さんとお母さんは、親戚中に頭を下げてるところ。私も、春から就職することになったの」

家族にも、迷惑をかけてしまうので、保険には入りましょう。強烈に印象に残っている。午後からの教習だったが、眠気は吹き飛んだ。

サイトやデジタル機器で、一番大事なのは何か。

保険である。それも自分が思いの丈を注ぎ込んで、丹誠込めて作り込んだものを、はした金であきらめさせるようなものではない。バックアップだ。

直前までには戻れないにしても、ちょっと前なら戻ることができる。

バックアップ。予備。控え。弓道でいう二の矢。古武道でいう残心。タンス貯金。

ああ、手痛い失恋は時間でしか癒せなかったが、消失してしまったブログは時間だけでは報われない。かくしてスキルを少しずつのばせるのかの、瀬戸際である。

フリー素材で見つけた写真。
macbookairそっくりのノートPCには旗印キーが。すごいなぁ。

アートはよく分からない

ブロンズが怖い

御堂筋にブロンズ像がある。(ここ

しばしば目にする。どうもロダンやら、キリコやらと聞いたことのある名前もあるが、よく分からない。

時々、ぽっちゃりしたお姉さんが、ほとんどマッパな状態のものもあるが、さっぱり分からない。

何かを表現しているのだろう。しかし渋滞している車より手前に、重たそうなブロンズ像がとびとびに置いてある以外に、何を表現しているのか分からない。

シュール・レアリズムとかはもっと苦手で、置いてけぼり感が半端無い。何か、自分が酷く芸術について、無理解であるような気がしてくる。現代アートとか言われると、半泣きになる。

難解は不毛か

疲れたとき。仕事で緊張状態が続き、金曜日の夜なのに脳の中身がこわばったまま、解きほぐせないことがある。

できるだけ、美術や面白いものに触れるように心がけている。長らく気に入っているのは、ノーマン・ロックウェルである。

表情があり、動きがあり、ユーモアがある。

旧約聖書の中で神様が、愛情の対象として人間を作ったと語られるが、分かるような気がしてくる。

分かりやすいからいい、というのではない。それをいうなら、ラッセンのイラストだっていいはずだが、まるきり魅力が感じられない。(なんばのギャラリーで法外な値段で売りつけられるからかもしれない)

表情や躍動感、臨場感、共感性。時代背景も、社会も、経済観念も異なっていただろうが、彼の描く世界と自分が知っている社会は地続きであるような気がする。

そう確認することで、何となくほぐれてくる。

ブロンズ像で練り上げられ、表現された何かはよくわからない。反面、描かれたロックウェルは色んな音すら聞こえてきそうな気がする。

要は好みの問題なのだろうが、この違いを説明できない。


危ないところで泳ぐ恐怖よりも、怒られることの緊張感
身に覚えがある。

Norman Rockwell [Public domain], via Wikimedia Commons


2015年3月31日火曜日

ディズニー商法

ポップの回収率

長編アニメ『白雪姫』のセル画を書く段階で、どうしても健康的な感じにならなかった。
そこで女性スタッフが頬にチークを入れたところ、いきいきとした表情になった。。。という話を聞いた。
さすがディズニーと思ったが、はて。白雪姫って、童話だったんちゃうか?
白雪姫、シンデレラ、いずれもグリム童話だった。
いってしまうと、フリー素材なのだ。
フリー素材を取り込んで、オリジナルのキャラクターをデザインし、作品を作って宣伝する。クリップとして取り出しやすいように、音楽を盛り込む。絵本を作る。
いつしか、ディズニー作品こそが『白雪姫』であると錯覚させるのだ。他社がアニメ作品を作っても、完全にパッチもんに見えるようにする作戦である。

ソフトウェアのモデル

ルーカス・フィルムがディズニーに買収された時、心配する声があった。
「ルーカスのクリエイティブな姿勢が、ディズニーの商業主義に毒されるのではないか」
まさか。
ルーカスこそディズニーの信奉者であったではないか。彼自身が脚本を担当した一作目より、監督に徹した『帝国の逆襲』のほうが人気であったではないか。自分で作らず、基本コンセプトだけ作って、後は外注なのだ。
キャラクターを作り、派手なプロモーションを繰り返す。
さすがにフリー素材を取り込むような真似はしないが、ジョセフ・キャンベルの神話学から、古典的なモチーフを充分にリサーチしていたではないか。
実は全然商業主義であって、作品と称したパッケージの売り方を、ディズニーのメソッドに沿って丁寧に再現したのが、ルーカス・フィルムなのだ。
ディズニーが好きとか、嫌いとかいうのとは別に、商業主義を否定することが正しいと思うことが嫌いである。
ミッキーだって、戦中には眼鏡をかけた出っ歯のちびたち(当時、アメリカに敵対していた黄色人種の兵士をモチーフにしたもの)を次々やっつけている。必要とあらば、簡単にプロパガンダに引火する。いや、プロパガンダそのものになる。
たまたま、夢や冒険にあふれたものが、興行的に成功することもあるだけで、それが本質だとか、本質ではないとか、タブーを設けること自体が、滑稽ではないか。
そう割り切って、楽しむのが、適切な距離なのではないだろうか。とか、いうときっと色々嫌われるから、あまり言わないようにしよう。。。

シンデレラもこんなビジュアル。ディズニーがいかにカラフルでポップなデザインか。

2015年3月28日土曜日

Cow and Buddha

ヨーグルトNGなご老公

水戸黄門こと徳川光圀は好奇心旺盛な人であった。

清朝に滅ぼされた明朝の知識人を、水戸徳川家がスポンサーとなって領地を与え、生活支援したこともあって、文物が大量に集まってきた背景もある。

そうした文化土壌にあって、現代に近いラーメンを食べたり、陶器の工房を建てたりした。

その中で乳製品を発行させて、ヨーグルトを食べたが、生臭くて食べられなかったと言われている。ご老公、ショック。

現代の食生活は動物性タンパク質に大量に囲まれている。

一度、動物性のものをほとんど摂取しない生活をしばらくしたことがあるが、パンに塗ったバターの香りだけでも、目眩がするほどである。

もともと人間の味覚や嗅覚は、本来それほど鋭敏なのだと知った。

そう考えると、光圀のがっかりも分からないではない。何せ乳製品を発酵させたものこそが、”醍醐味”と涅槃経に書いているのだから、めちゃくちゃ期待していたはずである。

悟りの幸福の例えが、生臭くて食べられなかったというのでは、比喩として失敗である。


ヨーグルト祭り


仏教文化と乳製品は本来、因縁が深い。

仏伝によれば、お釈迦さんは苦行の座を降り、村娘スジャータが捧げたミルク粥を食べる。そして座りなおして、その晩に悟る。

施しの例え話によく引用されるエピソードである。悟りに近いフード=乳製品なのだ。

生き物を殺さずに、動物性たんぱく質を摂取できるため、仏教的に、戒律を犯さない、めちゃくちゃ便利な食材であったともいえるだろう。

チベットやモンゴルなど、中央アジアではバターランプで仏壇を飾ったり、ヨーグルトで僧侶をもてなす。生臭さの沸点が、全然違う文化だからだろう。

また臨済宗の一部では、軟酥(なんそ)の法を伝えている。

卵の大きさの乳製品を頭上に想像し、それが溶け出して、身心をリラックスさせるという瞑想だが、光圀公に言わせれば、生臭さすぎてくつろげるか、だろう。


乳製品を実際に食べてみようとしたら、がっかりまずかった。しかしイマジネーションの中では、豊穣な香りを放つ、高カロリーでおいしいもののまま。


京都の醍醐寺は、上醍醐と呼ぶ山中で沸く水を”醍醐水”としている。


以前、登ったことがある。


京都市内から外れて、修験道場らしく、ちょっとした山登りである。確かに登った者には、乳製品よりはるかに甘露であった。


しかし本当に、醍醐味といえるのだろうか。今度はカルピス持参で登るべきかなどと、どうでもいいことを企んでいる。


イエス様も聖徳太子も、厩で生まれたのだから、牛や馬とカリスマとの関わりは深い。
100円以下のミートパテとか食うたらバチ当たるような気分になってきた。

2015年3月27日金曜日

ちょっち社会的

東側文化

wordpressについて、話を聞く機会があった。

世界のCMSの六割がwordpressで設計されており、今や人気どころか標準になっているという。

しかし自由に追加できる機能、プラグインのうち日本人によってつくられたものは、海外のものに比べて圧倒的に少ない。

(当然だろう。アメリカ生まれのwordpressなんだから)

そう思ったが、違った。

ドイツで作られたプラグインが圧倒的に多いという。 しかも旧東ドイツと呼ばれるところで、生活している人たちが設計者に多いというのだ。

どういうことか。

共産主義圏といえば、80年代にこちらに流れてきた報道といえば、ピロシキを求めて雪の積もる中で、震えている行列であったり、天安門に集まった学生たちを殺害する戦車に連想がつながるはずだ。

貧乏で、気位ばかり高く、官僚は賄賂を受け取るが、庶民をいじめぬく。その挙句に暴動した国民を粛清するだけの独裁国家。

兵士は第二次大戦中の兵器しか支給されず、半ばカルトのように共産主義を信奉しているが、人権の意識がまるでなく、臆病な薄らバカ。

そんなイメージでしかなかった。

ところが現代では、事情が少し違う。

国家のため、もっという、社会・文化のために、自分のスキルを提供し、問題解決や問題提起をはかっていきたい。そう考えて、wordpressのプラグインを設計するというのだ。

およそ我々西側とは違う文化である。個人がスキルを高め、それによって、経済的な成功をする。19世紀からの近代資本主義の伝統は我々のほうが引き継いでいる。

 ところが。

ベンチャーという焼き栗


PHPのカンファレンスに参加することがあった。

日本人が登壇するなかで、数人アメリカ人も登壇することがあった。その一つに座ってみて、驚いた。

彼は登壇するなり、翻訳者を介して呼びかけてきた。

「皆さんはPHPを使って、どんなビジネスモデルを考えてるんですか?」

会場は水を打ったような沈黙。ほぉら、きた。沈黙と曖昧な笑みを浮かべる日本人と、肩をすくめるアメリカ人の図である。

プログラマー、デザイナーといった人たちはいるだろう。下請け、孫請けで仕事をしている人たちである。決して、ガレージでピザを食いながら、昼夜コードを書いて騒いでいるような、ベンチャーの卵などは、ただの一人もいないのだ。

一張羅をきて、ちょっと滑り感を否めないジョークを交えたプレゼンを、スムーズに話し、公的機関からの融資を自慢する、ちょっと強気か傲慢なのか、その両方なのかが分からないようなベンチャーの社長など、一人もいない。

そうなのだ。

スキルがあって、ベンチャーを起こそうなどとは、誰も思っていない。ベンチャーなど、多重債務と自己破産の紙一重であり、いくら一攫千金だといわれても、親類縁者の鼻つまみになるリスクを、わざわざしょいこむ必要などないのだ。

講演はやはり日本人好みに、居眠りするか、メモに終始するかである。積極的に手を上げて質問したり、正面切って喧嘩を売るなど、絶対しない。粛々と、おきているように勤める、退屈なものになってしまった。

それ以来、なんとなく、興醒めしてしまっている。

アメリカやドイツでは、コミュニティの力として、会場費用と飲み物だけを頭数で割って、スキルアップや情報交流するは、なじんでいる。

日本でもそうした試みはあるが、ほとんどがセミナービジネスであったり、プレゼンであったり。しかもそこから得られるものは、粛々と授業を受けるだけの内容である。

そういうものなのだろうか。

できるだけ最前列で話を聞き、首を振る。にやける。うなづく。手を上げる。拍手をする。 本音で参加する。

電車賃を貰わない限り、こちらの持ち出しではないか。卒業してまで、黙ってきいてろ式の授業など、御免である。

だが、そういう姿勢自体が比較的マイノリティであったりする。カンファレンスが面白かったが、少し興醒めしているような気がする。

かつての東側共産主義圏の文化を軽蔑し、西側資本主義の一員であると思っていたが、そのどちらでもなかったことを、現代では思い知らされているのではないだろうか。

いや、むしろ利益だけを追求する方法論は、不安定なOSを更新続けてきた旗印メーカーで、限界を迎えたのではないか。彼らのポップに乗せたクリップを見て、本当に欲しいものが見つかるのだろうか。

左だろうが、右だろうか、イデオロギーなど、今やなんの役に立つのか。というか、そもそもイギリス議会の座席位置で、全てが判断されるという、社会認識自体、大丈夫か?

社会のために。そんなちょっと高潔な姿勢が、我々の日常を少しずつ快適にするのだとしたら、決して侮ってはいけない。

チェ・ゲバラを探してみたらlinuxのデザインに。ちなみにカストロ議長はない。w