2016年1月21日木曜日

もっと気楽に

何かに追われていたり、ずっと気がかりになっていたり、まるで長患いしているかのようになっていること。

例えばブログである。

本来、気晴らし程度にしてみたいとか、書かずにはいられない衝動のために、更新していこうと思っていた。

しかし結構な頻度で忘れている。更新を忘れたことを思い出して、書いていないことが悔やまれる。

書いていないことがまるで、自分の怠け癖を公表しているようで、なおさら考えたくなくなる。

もともとは書きたくなることを、気ままに書いていこう、という程度にしていたことが、いつしか書いていないことへの呵責に追い立てられている。こんな矛盾はない。

ましてやお金をもらっているわけでもない。何一つ、儲からないどころか、時間は持ち出しである。

持ち出しである以上、楽しくないとバカバカしくてやっていられない。

そうだ。楽しいから、なんとなく続いていく。

儲かるのだから、頑張るというのは、結構ハードル高いのではないか。書くだけで金になる。作家じゃあるまいし、そんな上手い話、アフィリエイトのセミナーの常套句みたいではないか。

こんな、ぼやきみたいなことを、書かずにはいられない。罪業である。
フリー素材でタバコの煙
夢中になったドラマ『ブレイキングバッド』のオープニングみたい。



2016年1月5日火曜日

UFOは存在する説

八十年代のUFO番組を、ケーブルテレビで放送していたので、思い出した。
アメリカの天文学者、作家のカール・セーガンの著作を読んだ時のこと。

その中で、紹介している一つが、天文学者の見解として「UFOは存在する」という主張であった。
なぜなら、「Unidentified Flying Object」(アンアイデンティファイド・フライング・オブジェクト)=確認されていない飛行物体のことを、存在しないというのは、馬鹿げているからだ。

それが宇宙人の乗り物であるか、どうかは別として、未確認の段階で、その飛行する物体はUFOなのだ。

なぁんだ、と思った。

しかし、彼は明確に主張している。

逆に、天文学からいって、知的生命体が地球にしかいないということの方が、天動説を頑なに信じるぐらい無知なことである。

ただ、現在、科学者を納得させるだけの証拠が出ていないだけだと。

彼はほかにもオカルトや、胡散臭い科学について、いたって理性的に反論、説明してくれる。

特に面白かったのは、八十年まで核戦争による人類の危機を警告してくれていた宇宙人が、我々より進んだ文明を持っていたのなら、なぜ九十年代の環境破壊を予見していなかったのだと。
まさに目撃証言者と同等の、現状認識や知識しかなかったのだ。そんな宇宙人が本当に、地球人より進んだ文明を持っているとは思えないと。

面白い。腑に落ちる。

宇宙人がいると確信しているから、いい加減な納得をして、うやむやにしたくないというのが、彼の考え方だ。(SFファンで、彼自身の小説『コンタクト』は映画化されている。)

健全な反証にも耐えうる先にある真実。それを結構、ユーモアを交えて(ここが一番大事)語ってくれる。

建国の父たちや、我が国に啓蒙思想を持ち込もうとしていた人たちは、野蛮な入植者の末裔ではなく、彼のような、近代的理性の持ち主だったのではないか。

いいことが書いてあるからと、本を読む人がいるが、飽きないのだろうかといつも心配になる。

いい言葉を文字にしようなんて、論語の時代から何一つ変わっていないし、目新しいテクノロジーではない。

それより反証する方法、着眼点、思考のアイデアを身につけ、より深く理解できることの面白さを、提案してくれる本の方がはるかに面白いのではないか。
 『エイリアン』の翌年に『E.T』(80)が公開された。
宇宙人を怖がらせないための戦略なのでは、などと聞いたことがある。
今はそれどころではない。地球人同士がますますやばい。

2016年1月3日日曜日

素人仕事

力士の四股名に、山とか海といった描写が多い。

もともと地方の力持ちを、宮廷の庭に招き、相撲を行ったのが、起源である。当然、地元の地名を取り込んで名乗っていた。地域の代表という意味もあったのだ。

古代のオリンピックも、各地から選手を集めて、練習の成果を競い合う祭典であった。

人類最初の娯楽は、ローカルのアスリートたちが努力を積み重ねることで、実現したのだ。

現代のボクシングも、様々なテクニックがあるが、黎明期においては単なる殴り合いであった。

ガタイの大きな男が、小さい男をリング上でなぐりたおす。グラディエーターのような世界であった。

しかし逆転が起こった。

体格差で劣る選手が、ちょこちょこと周りを飛び跳ね、不意をついて顎を殴ってくる。

最初は馬鹿にしていた、相手の大男は、ある瞬間、相手のグローブが飛んでくるを避けられなかった。次に気がついたら、マネージャーに抱えられて、マットの白さを眩しく感じることになった。

小柄な男が、大男を拳だけで倒す。ゴリアテが倒れるのを、目の当たりにできると、客席は沸騰した。

体重があるものが強いのではなく、普通の体重とスキルを持ったものが強い。ルールがシフトしたのだ。

現代のボクサーといえば、力石が絶食したように、ストイックの象徴でもあるのは、当然だろう。

ジャズがいいといって、何でも即興性やアドリブばかりを重視するのは、素人考えなのではないかといつも思う。

ジャズは自由だといいながら、実は音の出し方にルールはあるし、もちろんある程度の演奏スキルがなければセッションなど不可能である。

根性論で、怨念がましく修行すれば、何でもできる、というわけではないが、準備や下ごしらえなしに、何かを作ったとしても、それは決していいものにならない。

数年前から、動画配信サービスを使って、自前の動画を作っている人たちがいる。

見ていたテレビ番組と、見劣りしないような品質の動画を作ることができる。

しかし、内容はどうだろう。

混ぜたり、食べたり、投げたり。見せ場がまるでぬるい。

古代のオリンピック。円盤を投げるスキルの高い選手に、ひたすら練習させて、さらに遠くに飛ばさせるようにして、当日を迎える緊張感があったはずである。

素人仕事で作った動画に、それほどの緊張感があるだろうか。時間があっただろうか。

配信者自身が、そのことに薄々感付いて、いずれは配信に飽きてしまう。

そういうものなのではないだろうか。

見せるに足るもの。少なくとも、そう自問して準備されたもの。

結構、手厳しいが、見る側に立てば当然だろう。

決して、素人の動画配信が、既存のテレビを凌駕するようなことはあり得ない。理由は準備の手数を持つか否かだ。

(ちなみに、このブログもできるだけ、メモ書きを整理している。深夜に書き始めたものは、話題が散漫で内容も浅くなるので、アップしていないつもり。自信ないけど)

女性ボクサーらしきフリー素材。
ピンク色は闘争心を萎えさせる、という作戦が裏目に出てるぞ!


2016年1月1日金曜日

玄奘三蔵とお猿さん

新年なので、干支の話。

申年だから、お猿さんのことについて。

アジアでもっとも有名な猿のヒーローといえば、西遊記の孫悟空だろう。

中国ばかりか、韓国や日本において、古くから親しまれてきた。

お師匠さんこと、玄奘三蔵は仏教史のなかで、非常に評価が高い。というのも、経典をサンスクリット語から翻訳する際、それまでの翻訳より、言葉を補って、ニュアンスを拾い上げたからである。

それまで、”誰でも”という表現に、”有”(存在する者)と表現されていたが、玄奘は”有情”(感情を持つ者)と翻訳して理解を深めることに貢献した。

詩的な才能に溢れた翻訳ディレクターであり、自らも翻訳家であり、自らインドまで走破した、筋骨隆々とした偉丈夫であった。

決して、なよっちい臆病者ではなかったのだ。

そんな玄奘になぜ、お猿さんの従者がついてきたのか。

海賊の頭目でもあるまいし、なんで猿なのか。

キンシコウという、毛並みのいい種類の猿がいるとか、南方熊楠のように『ラーマヤーナ』のハヌマーンという猿の神様がルーツかと思っていた。http://goo.gl/9ARAUu

しかし、昨年2014年、龍谷大学ミュージアムでの展示http://goo.gl/2IeQYGをみてわかった。

猿は人の真似をしたり、他の動物の面倒をみる姿がよく観察された。=厩舎の守り神として、猿の絵を掲げることすらあった。

つまり馬、移動手段の守護神として、猿が起用されたのである。

(玄奘以外にも、シルクロードを歩く取経僧という題材は、古くからあり、虎を釣れた僧侶という絵画も現存する)

お猿のキャラはほとんどが、人間の真似をする、おバカキャラなのに、悟空だけが玄奘を心配して、やきもきする。やはり守護神としての役割が基本設定にあるからなのだろう。

ちなみに、猪八戒=富の象徴。唐代の玄奘には馴染みがないが、元朝以降、遊牧民族の文化が流入して、猪(中国語ではブタの意味)は家畜であり、貨幣がない時代の富を意味する。西遊記自体が清朝に完成していくから、遊牧民族の文化が入っている。

沙悟浄=玄奘の道中を守った、仏教の守護神・深沙大将(ドクロの瓔珞を首にかけている)と、インドで問答したのちに、同行してくれるバラモン教の僧侶(子供のドクロの瓔珞を首からかける=人は生命力のある子供時代にも死ぬことがあるのはなぜか? と問う)のイメージが混ぜ合わせてできたキャラクターである。

流沙河(流砂河という記載で、緩い砂地であるのが、河と誤読されるようになった)で悟空たち一行と出会うが、川辺にいる妖怪というイメージで、日本でのみ、河童という設定になる。

単なるドタバタではなく、それぞれのキャラが文化的な背景を背負っているのだ。しかしそれらを反映しなくても、作品にはあまり影響しないし、関係ない。だから、人気なのかもしれない。

さらにいうと、大河ドラマになった真田幸村(本当は信繁)の家臣である、真田十勇士の一人、猿飛佐助も、悟空をモチーフに明治時代、立川文庫が作ったキャラクター。さすがに大河ドラマには出てこないみたいだけど。

(上方講談の講釈師が猿飛佐助の子孫という人を見つけて、印を結ぶように、寿司職人になっていたと高座で語っていた。まさに”見てきたような”類の話である)。

今年も、こんな感じで、だらだらと。
ヒンドゥ寺院のハヌマーン。彼が守っているのは仏教ではない。


2015年12月30日水曜日

寒空の暦

お坊さんを顧客に印刷物を制作する仕事をしていた時のこと。

暦の編集、校正も担当しているということで、地方から来社されたお坊さんに注意された。

「暦には六曜が掲載されている。これは迷信であり、非科学的なことだから、掲載するな」

はあ。また、好き買ってなことを。

迷信とは正に、迷いをまことと信じることであり、それを助長するのは厳に慎まないといけない。

しかし、非科学的とはいただけない。

まるで、オウム事件後に盛んに言われた、お釈迦さん=ナチュラル・ハイ説(悟った瞬間は断食明けだったため、高揚感があったというだけの、俗説なんちゃって科学)ではないか。

どの面さげて、回向だとか、功徳を説いて、檀家から布施を巻き上げてらっしゃるのだろうと不思議に思ったが、問わなかった。

責任者に相談するとか、しのごの言って、ごまかした。

六曜はとかく目の敵にされる。

彼の言い分も間違いではない。明治新政府は迷信を取り締まるため、暦に様々な記載をすることを禁じた。

しかしまだ農耕が主要産業であった時代、田植えが分からないような暦など、充電切れしたスマホなみに役に立たなかった。

そうした中で、最低限の情報として六曜だけは掲載が許され、(むしろ行政が黙認した)現代に至っているという。

室町以後に始まり、江戸時代に大枠ができ、実は明治以降に作られたという説もある。

だから、良くも悪くも、六曜を執拗に気にする人を見受けると、いただけない。もっとたくさんのイベントやタブーが神社の暦にはたくさん記載されているのに、なんてものぐさなんだろうと思ってしまう。

いくらいい日を選んでも、離婚するときは離婚してしまうのに。

カレンダーを作る会社で面接を受けたことがある。

ご多分に漏れず、不況であるが、特にインターネットの普及でカレンダー自体が売れていないという。

初詣客相手の露天で、カレンダーを売っているところを見たことがある。

干支や風景写真のものに混じって、「今から、お風呂ですか?」と見まごうばかりの、マッパのお姉さんを撮影したものも広げられていた。

年末になると、カレンダーを受け渡しするが、ふと思い出す。あのカレンダー印刷会社も、露天商も懐は寒いのだろう。マッパの姉さんも、寒がっているのではないか。

六曜を気にするより、彼らの仕事のあり方を工面してやることの方が、大事なのではないだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。


古代では、自国の言語で暦を作成できてる
=文明国だったからマヤ文明も相当進んでいた。

2015年12月29日火曜日

達人の話

神経学の話。

視覚で認識した情報を元に、攻撃あるいは防御の動作に移るべく、筋肉を伸縮させる。

この知覚、動作の流れに、個人差はあまりない。特に緊張状態にあると、人間はだいたい同じで、その違いは秒数ではカウントできない。

つまり殴ってくることを感知し、それを避けたり、払おうとすること自体、人間にできることは同じスピードでしか対応できない。

つまり強さとは、その限られた速度で、どう処理しているか、なのだ。

最短距離で加速し、重量あるパンチをくりだせるか。あるいは避けられるか。

ジークンドーでは、その答えを明確にしている。予備動作を最小限に抑え、拳に体重を乗せるような打ち方をする。

筋肉そのものが強さなのではなく、つきの動作一つを正確に出せるように、筋肉を組み立てる。

ブラジリアン柔術はもっとロジカルである。人体の可動方向を整理し、相手の動きを封じながら、いかに優位な体勢を構築・維持するのか。

気合いとか、根性とか、気迫は余り役にたたない。必要なのは、酸素の吸引力と集中力である。

そうした戦術が、正攻法の臨界点を迎えると、次は別の方向に向かっていく。

例えば剣であれば、上段に構えた方が、刀の重さの分、早く振り下ろせると信じられている。下段に構えると、振り上げる筋力が必要なため、遅くなると。

しかし柳生新陰流では、これを逆手にとった。

逆風という技である。

わざと下段に構えて、上段を誘う。上段から打ってくる相手の太刀筋を避けながら、その小手を狙う。

すると相手の拳は早く振り下ろされてくるから、おのずと早くなくても切り上げることができるというのだ。

(考えてみれば、重みがあるだけで、早いというのも、おかしい。実際には遠心力を使うので、上段も、下段も、人間が使う以上、筋力の違いでしかない。)

はっきりいって、ずるい。

スポーツマンシップなど、微塵もない。(なぜなら、スポーツではないから)。

正攻法ではない方法を考えたのだろう。ずっと秘伝として伝えられた。(そのせいで、巌流の燕返しという技法と、かぶっていることは二十世紀後半になるまで分からなかった)

こういうことを見聞するのが面白い。

だから、筋肉や精神論しかないような、メソッドの整備されていないものが、さも古来のものであるかのようにいわれると、なんとなく興ざめしてしまう。

ましてや時代劇で、お面お小手と、殴り合うような殺陣をしていると、がっかりする。

映画のスタントでは、派手なポーズをしたあとは、カメラが表情にズームできるように、特に頭部は動かさない。

その点、演武を見ていると、居合以外は結構揺れている。別に新体操ではないのだから、止まる必要はないのだし、美的なものは結果論だからだ。

『燃えよドラゴン』なども、ズームするが、結構、ブルース自身は揺れている。全身の筋肉を使って、打撃した以上、波紋が起こるように揺れていたのは当然だろう。

強さは見えるし、強くみせることは、特殊効果でも簡単に作れる。

しかし強さに至るための、ロジックは簡単には作れない。

そこが最大の魅力である。

現代の道着は明治の嘉納治五郎考案のもの
居合などでは余り用いないのは、説明に適さないため。

2015年12月28日月曜日

鉛筆のぬくもり

寅さんが映画のなかで、甥に鉛筆の魅力を語るくだりがあった。

「いいだろう。木の温かみがあって、書き味に味わいがあるだろう?」

甥はボールペンにはないなんとか、かんとかこたえていた。

この手の”昔は良かった”説はあまり好きではない。

自らが相対的であることに、無自覚だからだ。

鉛筆を懐かしむ世代にとって、万年筆やポールペンよりも、体温が伝わるような気がするのかもしれない。

しかし冷たい言い方をしてしまうと、それは気のせいだ。

もしも、樋口一葉が聞いたら、嘆くことだろう。彼女の原稿は全て筆で書かれている。当時、前衛的な芥川龍之介が、鉛筆で書いたが、当時としては相当なショックだった。

マジ、鉛筆で書いちゃったんすか? 夏目先生にバレたら、やばくないっすか? 当時のリアクションはそんなところだろう。

当時は鉛筆で名文が書けるわけがないと思われていた。

もちろん、樋口一葉が原稿用紙を使っていたということを知れば、滝沢馬琴は嘆いていただろう。鉄眼和尚が経典の筆者に整理する際に用いただけの、400字という単位を用いて、自由な創作を制限するなどと、到底クリエイティブなことではないと。

しかし馬琴の書いたものを読むことができたなら、新井白石は失笑しただろう。。。

というように、時代によってアイテムや姿勢はどんどん変わっていく。変わって当然だろう。

今時、手書きで、丁寧に書かれても、というような状態ではないか。

タブレット端末に、指でサインをして証明とまですることが、現代では行われつつある。

チャールトン・ヘストンの『十戒』では、封蝋に指輪でスタンプして、自分の文書であると押印していた。

その時代から、基本的な考え方は変わらず、アイテムが指輪から、タブレット端末に変わったのだ(ちなみにモーゼの十戒を記した石板を英語ではtablet。カタカナ表記すると、ありがたみが半減。しかし英語圏ではシナイ山から持って降りてこられたのと、同じ名称をリンゴマークのものに使っているのだ)

本質は変わらないが、手段やアイテムが変わる。

やっぱり日本語はパソコンではなく、ワープロでないと、と主張する人がいるとしたら、今や滑稽である。

鉛筆にぬくもりを感じるのは、自由だが、シャープの恨みを無駄に買うようなシャープペン批判や、ボールペン軽視などは、全然自由ではない。

ジープに乗ったアメリカ人にせがめば、チョコレートを投げてくれると思い込んでいるのと変わらない手あいの、単なる思い込みだ。

パソコンだからといっても、アイデアは手書きがやっぱり便利。