効率よく正確に合理的な方法で
毎週ほうぼうから、メールマガジンが届く。Facebookであったり、twitterであったり。何か買い物したところからとか、覚えがないのとか。ろくに見ないで、削除していることが多い。削除しながら、作成する労力を思うと、痛ましい気分になる。それでも読まないときは、全然読まない。
しかし一方で、ふと思う。
サイトを自分で立ち上げて、自営業を行うときに、宣伝用にメールを配信しようと考えた。簡単な挨拶でも送るべきだと。
ところが案を出した段階で、猛烈に反対された。メールは絶対読まない。むしろ印象を悪くするだけ。内容のある、充実したものだけをメールしろと言われた。
結局、ハードルの高さが、高いということ以外に何も分からずうやむやになった。そして色々と失敗した。あの時、いくつかやっておけば。そんなことをいくつも抱えたまま終わった。
畳水練
大好きな小説の一つに、富田常男『姿三四郎』という柔道小説がある。
『明治の風雪』を除く、オリジナル版で姿三四郎は柔術家に入門し、彼らが矢野正五郎を襲撃する段取りを打ち合わせているのに参加する。
この矢野が姿の師匠になるのだが(矢野は嘉納治五郎を、姿は西郷四郎をモデルにしている)、この打ち合わせで、彼らは矢野の柔道を批判してこういう。
「学士の畳水練か」
確かに後世の合気道ですら、流派によって、観念的であったり、感覚的な師資相承を重視する。講道館柔道が登場する前の柔術は、もっと感覚が重視されていただろう。
彼らに言わせれば、未経験の学者がろくに稽古もせずに柔術を冒涜しているのだと。
畳の上で泳ぎを学んでも、それは実践では何の役にも立たないという比喩表現である。
近道を探す間に日が暮れて
格闘技や武道に関しては、様々に意見が分かれるだろう。
しかし少なくとも、畳水練という蔑称は強烈に印象に残る。あの水圧や、抵抗や、浮力は語れるだろう。だが、飛び込んだ方がはるかに早い。
本を好きで、よく読む。
ただ苦手なのは、正しい方法が書かれた、ハウツー本である。
本を情報を仕入れるために、読むという姿勢である。それはそれで、意味はあるのだが、それが全てであるというのは、いささか合理的というか、短絡的というか、貧乏臭いというか、浅ましいというか。
大好きなマクリーンの『ナヴァロンの要塞』なんて、何の役にも立たない。ただキース・マロリーたちの戦いに夢中になれるだけである。そこに合理的な目的も、役立つ方法も何も描かれていない。読むのが面白いだけだ。
だが、そこに意味があるのではないか。
いいものを、確実に、合理的に。ビジネスの基本中の基本である。
しかしその文法が、生きていくことや、悩むことにおいて、全くそのまま適用できると思ったら大間違いだ。世の中は矛盾に満ちあふれているし、不条理なことが圧倒的に多い。合理的、論理的なものなど、断片でしかない。
恥ずべきは、最初から完璧を期していくために、何も実行しないでいることだ。そうすれば成功はしないが、同時に失敗もしない、などとうそぶく怠け者もいるらしいが、とんでもない。
完璧を期して、何もできなかった、という大失敗をしていることに、自覚がないだけなのだ。
畳水練。まさに飛び込んでみない、臆病者の観念論。
その失敗をメルマガを削除するときに、ふと思い返し、胸の小さな疼痛に眉宇を寄せる。
同じ失敗はしない。失敗するとしても、何もしないという怠慢ではない。それ以外の失敗をしてやる。
そうでもしないと、失敗は報われない。
スプラッシュ。飛び込んだしぶきのきらめきは、飛び込んだところからしか見られないのだ。
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