宿題のギリシア神話
映画『タイタンの戦い』を見る。めちゃくちゃおもろかった。現代の3D表現で、人間のイマジネーションをここまで表現できるのかと、驚いた。
二十代からギリシャ・ローマ神話を勉強しようとしたかったが、いまだに勉強できていない。ゲーテであったり、ニーチェを読むのに、これらの神話を知らないと、味わい半分である。知っていたら、この映画をもっと楽しめたのではないかと焦る。
初見でも楽しめるが、どうせなら存分に堪能したい。映画館でパンフレットを買ってしまう派である。原作と比較して、(まあ、もうちょっと原作の面白さを再現できたんちゃうかな)としたり顔で言いたい派である。
ギリシア神話と、三国志と、アラビアンナイトと、万葉集は積年の宿題である。テレビなんか見てる暇ないのに。
仏教文化は面倒くさい
仏教文化は奥が深いが、神話の体系として見ると、結構面倒くさい。ブルフィンチやバートンのように体系化した人がいないからだ。
その点、聖書はシンプルである。教会会議で四つの福音書が選定されて、オリジナル(内典)とスピンオフ(外典)作品が明確に分けられている。
コーランに至っては、スピンオフの企画すら許されない。
その点において、仏教はスピンオフと、パロディのオンパレードである。
近代仏教学では、仏教の祖についての表記をブッダとか、仏陀とかにして、彼が語った言葉のみが正しい仏教であるかのような扱いをしている。しかし実際の仏教文化は(保守的な上座部仏教すら含めて)ヒンドゥや北インド遊牧民の信仰文化とのリミックスで構成されている。
それらを全て否定し、オリジナルだけに頼ろうとすると、実に貧相で、不自由なモデルしか成立しないし、厳密なオリジナルすら本当は明確になっていない(経・律・論は正確に翻訳できても、どのように信仰されていたのかは現存の信仰形態から類推するしかないからだ)。
伝承では、お釈迦さんは悟った瞬間、天上の世界にいったり、悟った後も悪魔と問答するし、経典も龍の言葉で伝えられたりする。日本の近代仏教学が嫌う、ファンタジックな内容なのだ。
だから面白いが、一つずつを理解するのに時間と労力は半端ない。(諸経の王と称される『法華経』すら、スピンオフ。お釈迦さんが説いたという設定だが、その中に仏像を祭れと説いている。仏像はヘレニズム文化が流入してから、ギリシア彫刻を模して作られるようになるのだから、もちろんお釈迦さんの時代ではなく後世のスピンオフ)
その点、シンプルなのが、論語である。オリジナル版が正確に伝わっており、伝承は孔子周辺だけで、彼自身が嫌ったように、怪力乱神を語らないため、スピンオフはない。せいぜい諸星大二郎ぐらいではないか。
だから逆に、勉強したいとは思わない。正しいことを言っているが、それ以下でも以上でもなく、深みが感じられない。
ギリシャ神話に登場するヘラクレスが棍棒を持つが故に、お釈迦さんの護衛たるヴァジュラパーニも金剛杵を持って描かれる。誕生を祝福するレリーフに、天女のイメージが出来上がっていないから、天使が描かれるなど、文化的な影響を垣間みることができる。それが面白い。
知らないから面白いし、知りたくもなる。
長いものには
指輪物語とハリー・ポッターは実はドロップアウトした。
それでも指輪物語は安くまとめ買いをすることができたので、にわかに欲目が出てきている。(徳川家康だけはどんなに安くても、買わないといつも決心している)。
壮大なもの。奥が深いもの。その深淵の深さをのぞくだけで、取り込まれてしまい、しばしば寝不足に陥る。こんなことではいけない。クルマやゴルフ、阪神とアイドルの話ができる、ただのスケベ親父であったら、どれだけいいだろうと、ふと思ってしまう。yahooのトップ画面を眺めてさえいれば、事足りるような生活であったら、どれだけ気楽だろう。
長いものには、巻かれるな。壮大なものほど、戻って来れなくなる。そう肝に銘じながらも、いつかドカ読みできる日が来るとか、夢想している。不健全な妄想である。
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