2014年11月23日日曜日

三国志に学べるのか

遅咲きの三国志ファン

三国志をいくつも読むことがある。横山光輝の漫画を十代の時に読む機会はあったが、例の、もう一つな描き分けに、混乱して早々に断念した。

 どっちかというと、水滸伝派である。

 董卓を暗殺しようとして、剣を抜いたのに、バレて、「あ、献上しようとしてたとこっス」と言い逃れた曹操みたいなことは決してない。

 九紋竜史進にしても、黒旋風李逵にしても、とにかく強い。そして弱きを助け、強きを挫くことにおいて、誰一人として揺らぎがない。エピソードは結構単調だが、百八の星というところが神秘的でいい。後世の馬琴が八犬伝でパクリをしたくなるのも分かる。

 だが、遅咲きの三国志ファンである。

 きっかけは映画『レッド・クリフ』。三国志ファンに何かと批判されるが、それでも、映画を見てから、吉川英治版を読んだ。それ以来、古今の作家は一通り集めた。集めただけである。 

宮本武蔵と日本人って

そうした中でうさんくさいのは、たくさんある。曰く『三国志に学ぶ人間術』。曰く『三国志でみるビジネス必勝法』みたいなのだ。

 厳密に三国志というのは、歴史資料であり、それを楽しめるようにアレンジしたのが、三国志演義である。実際、三国志の中に、劉備や曹操はちらっと出てくるが、全然キャラが立っていない。ましてや、成功体験や人間関係など、何一つ描かれていない。

 つまり後世の人間が、面白おかしくデフォルメしたものに対して、何やらお役立ち情報を見つけようというのだ。ちょっと無理がないか。

 宮本武蔵と日本人、というようなタイトルで、五輪書を、さも日本人のメンタリティとつなげて語る輩もいるが、あれは完全に吉川英治以降の作品を前提にしている。

 彼の作品以前の宮本武蔵といえば、父無二斎の仇、老人佐々木巌流を討ち果たす、塚原卜伝の弟子というキャラでしかない。五輪書は魅惑的なタイトルだが、中身は柳生石舟斎ほど、造詣もなく、少々観念的。柳生宗矩の兵法家伝書の方が、武蔵以上に物理的。

 だから、吉川英治の作品キャラを前提に語るのは、後だしでしかない。そして吉川英治の作品イメージに便乗しているのだ。

フィクションとノンフィクションのはざま


 それでも面白ければいい、というのは実はまずい。

 大阪の人権啓発系列では、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、連れ帰ってきた虎を養うために、民衆の犬を取り上げたという話を、さも事実であったかのように喧伝している。

 あんなに世評に怯えて、逆に世論を巧みにしていた秀吉が、なぜか虎を飼うために、肉として効率の悪い犬を、まるで大戦末期の赤犬狩りのように徴収するのだ。合理的戦略を得意とした彼が、わざわざコストのかかる、効率の悪い、民間の犬を集めるという矛盾。

 要は権力者が、愛情深い庶民をいじめるという図式を作るために必要な、暴君フラグでしかない。事実はどうあれ、それで盛り上がるならいいだろう。

 だが、それはお話であるという、前提でないといけない。

 信長はしょっちゅうタイムスリップしたり、転生しているが、それは全てフィクションなのだ。そして百パーセント、史実を含めていない。

 それをさも、史実であったかのように語るのはブー。三国志から人生訓は学べないし、面白いこと以上を求めるのはいけない。

 それをしてしまえば、まるで旭日旗を連想させる新聞社の発行物と同じことになってしまうのではないか。

 それは真実を知ったことにならないし、フィクションであることを自覚しないといけない。

 戦前に連合艦隊総司令部は、映画『暗黒街の顔役』を見て、あ、ヤンキーって、短絡的だし、追いつめたら簡単にやっつけられるよね。真珠湾いきなりって、どう? ということになってしまった。

 これはいけない。あれは悲劇で終わらせようと、脚本家が雑な仕事をしている。それを事実だと真に受けるほうが、すでに煽動されたことになる。そんなもんにあおられてたまるか。近代民主主義国家の主権者は、そんなおばかさんであってはならない。

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