2014年11月29日土曜日

菜根譚の地味な味わい

まぜっかえし処世訓

ゲーテは詩を書く秘訣は何かということに対して、結構シンプルに答えている。

お題を決め、そのイメージにちなんだ、言葉を並べて、韻を踏むことを考えていけば、自ずと仕上がっていくと。

イメージが深まっていけば、ちゃんとした詩なのだろが、彼以前も以後も、対句を並べただけのつまらない、いわば「詩っぽいもの」はいくらでもあるのではないか。

大乗の経典も、唐詩も、しばしばこうした対句を見る。一つのテーマを繰り返しているならまだしも、単にまぜっかえしているようなものを見ると、うんざりする。

自分の好きなように、やりなさい。でも、周りに迷惑をかけないように。

うん? 人に迷惑かからない程度に、好きなようにやりなさいって? わざわざ人にいうことか? やりたいことがあるなら、とっくにやってるし、人に迷惑がかからないように配慮するのは、人間なら当然だろう?

論語を好む人に、しばしばこうした月並みな説教を勿体つけて言いたがる傾向があるように思う。

少なくとも、論語を愛読している人の意見を、何人か聞いた限りの主観であるが。

一歩踏み込んだ菜根譚


人に裏切られても、人を信じていたい。

いいフレーズである。武田鉄也がそんな感じで唄ってたような気がする。しかし、どっかお人よし加減は否めない。

人を信ずる者は、人未(いま)だ必ずしも尽(ことご)くは誠ならざるも、己(おのれ)は則ち独(ひと)り誠なり。
人を疑う者は、人未だ必ずしも皆は詐(いつわ)らざるも、己は則ち先ず詐れり。(前集159)

人を信じた場合、他人が全て誠実ではないが、少なくとも自分には誠実である。
人を疑った場合、他人が全て不誠実ではないとしても、まず自分をいつわっている。
ゆえに、自分は人を疑ってかからない。

お人好しだからなのではなくて、自分を偽り、苦しめないために、人を疑ってかからない。

しっくりくる。納得がいく。臆病でなくていい。正しい、正しくないという二元論ではなく、ちゃんと腑に落ちる気がする。

逆にまぜっかえしているだけの処世訓が、軽薄に見えてくる。

一回、ちゃんと考えている。そんな気がする。

小説も奇なり


翻訳もののミステリが好きな先輩がいた。 映画も好きだったので、すぐに意気投合した。

酒席ですっかり話し込んでいると、別の先輩が冷ややかに言った。自分は星進一を読んできたが、紙に書いてあることより、現実のほうがはるかに面白いと。

おいおい、ショートショートを基準に語るか? と思ったが、薄ら笑いでお茶を濁した。

五年後、自分探しが大好きだった、彼の奥さんは二人の子供をおいて、隣町に移り住んだ。男性の影の有無はきかない。しかし、そのことを聞いてから、寒々とした気分になって思った。

小説の方が、まだ面白いと。

紙に書いてあることに意味がないと、まるで文革の解放軍か、焚書をしたナチのような意見は感心できない。観念をもてあそぶテキストも多いことは事実だが、それをもって全体を図るのは、軽薄である。

菜根譚は派手さにかけるが、熟読に値する内容なのではないか。そんな期待を持っている。

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