十代のヒーロー
実は結構バブリーな世界に発表された作品である。『一夢庵風流記』。実際に前田慶次郎が晩年が使っていた号がタイトルに入っているところもいい。経済成長や、イデオロギー対立ではなく、自分らしさ。それも反社会的な反抗ではない。清清しく、潔く、高い美意識で世俗の打算を喝破する。
そこまで考えて読んではいなかったが、夢中になって読んだ作品である。
この作品で隆慶一郎は一躍有名になり、漫画化された『花の慶次』でそれが拍車をかける。
だが、デビュー前からの構想であった『影武者徳川家康』は結構散漫なプロットであったし、『捨て童子松平忠輝』や『花と火の帝』では、エスパニア出征や柳田の民俗学など、異説を盛り込んだ壮大なものであったが、設定落ち感を否めない。
作中でも紹介しているが、司馬遼太郎原作の『城盗り』は彼の脚本である。作中でも書いている通り、納期を石原プロが迫ったためか、粗雑で、主人公の万能感の割りに大した盛り上がりがない。
やはり『吉原御免状』シリーズと、本作である。
来てくれるんだろうね
悪人をやっつけるような、現実社会の代償を時代劇ではひんぱんに行う。しかし本作では、そんなことを一切しない。
善悪の価値基準だけではなく、それぞれが精一杯にせめぎあう。
冒頭、相当力んだ文体で始まるが、漫画の冒頭エピソードになった、松風のあたりから急に加速していく。壮大な歴史絵巻ではなく、ヒーロー像を彫りこんでいく。
秀吉との対面は、可観小説にも書かれた事実であり、彼を主人公にした先行作品はいくつかあるが、本作が一番面白い。
連載前、隆慶一郎は周囲に着想を自慢していたそうだ。
「馬と話せる男って、いいだろ?」
関ヶ原にいたるまで、若干中だるみするが、印象的なのは、小雨の庭に現れる直江兼続である。(この作品のあと、隆慶一郎の劣化コピーともいえる火坂雅志によって大河ドラマの主人公になる)
勝った東軍が慶次郎の活躍を記憶して、仕官を誘いにくるが、彼はそれを断る。
かつて戦国の覇権を争った上杉家が、関ヶ原の合戦に負けて、今や小大名である。
その家臣で、惨めな敗軍の将となった直江が、突然、慶次郎に会いにくる。
「明日、会津に向けて経つ。来てくれるんだろうね」
これが男女なら、メロドラマである。
だが「士は己を知る者のために死す」(史記)というロマンからすれば、当然である。自分を知ってくれている兼続が、助けを求めるのなら、慶次郎は果敢に敵陣に飛び込み、決して振り返らない。
戦うヒーロー像
気分が優れないときに読むべきは、こうしたヒーローものなのではないだろうか。水滸伝では短絡的すぎるし、罪と罰では全然楽しめない。
『ナヴァロンの要塞』では、キース・マロリーやミラーではなく、アンドレアが際立つ。ひたむきで、愚直で、粘り強く、タフである。最後に誰かが十字架を背負わないといけない人間がいるとしたら、それが自分だと直感している男。
そればかりでは飽きるが、それぞれに適した読み方があっていいのではないか。
逆境にあり、見栄えがせず、惨めな境遇。無様ではないか。だが、それがいい。
そんな書き方である。
漫画化されたときには、華やかな活躍をした前田慶次郎としてスポットが当てられる。
しかし小林秀雄の薫陶を受けた著者が、書きたかったのは、もっと哲学的な深みをもった人物であったろう。それをしばしば散見することも、小さな発見である。
仮面ライダーではないのだ。ちょっと淡白かもしれないが、ちゃんと陰影のある作品である。