2014年11月30日日曜日

だが、それがいい『一夢庵風流記』

十代のヒーロー

実は結構バブリーな世界に発表された作品である。『一夢庵風流記』。実際に前田慶次郎が晩年が使っていた号がタイトルに入っているところもいい。

 経済成長や、イデオロギー対立ではなく、自分らしさ。それも反社会的な反抗ではない。清清しく、潔く、高い美意識で世俗の打算を喝破する。

 そこまで考えて読んではいなかったが、夢中になって読んだ作品である。

 この作品で隆慶一郎は一躍有名になり、漫画化された『花の慶次』でそれが拍車をかける。

 だが、デビュー前からの構想であった『影武者徳川家康』は結構散漫なプロットであったし、『捨て童子松平忠輝』や『花と火の帝』では、エスパニア出征や柳田の民俗学など、異説を盛り込んだ壮大なものであったが、設定落ち感を否めない。

 作中でも紹介しているが、司馬遼太郎原作の『城盗り』は彼の脚本である。作中でも書いている通り、納期を石原プロが迫ったためか、粗雑で、主人公の万能感の割りに大した盛り上がりがない。

 やはり『吉原御免状』シリーズと、本作である。

来てくれるんだろうね


 悪人をやっつけるような、現実社会の代償を時代劇ではひんぱんに行う。しかし本作では、そんなことを一切しない。

 善悪の価値基準だけではなく、それぞれが精一杯にせめぎあう。

 冒頭、相当力んだ文体で始まるが、漫画の冒頭エピソードになった、松風のあたりから急に加速していく。壮大な歴史絵巻ではなく、ヒーロー像を彫りこんでいく。

 秀吉との対面は、可観小説にも書かれた事実であり、彼を主人公にした先行作品はいくつかあるが、本作が一番面白い。

 連載前、隆慶一郎は周囲に着想を自慢していたそうだ。

「馬と話せる男って、いいだろ?」

 関ヶ原にいたるまで、若干中だるみするが、印象的なのは、小雨の庭に現れる直江兼続である。(この作品のあと、隆慶一郎の劣化コピーともいえる火坂雅志によって大河ドラマの主人公になる)

 勝った東軍が慶次郎の活躍を記憶して、仕官を誘いにくるが、彼はそれを断る。

 かつて戦国の覇権を争った上杉家が、関ヶ原の合戦に負けて、今や小大名である。

 その家臣で、惨めな敗軍の将となった直江が、突然、慶次郎に会いにくる。

「明日、会津に向けて経つ。来てくれるんだろうね」

 これが男女なら、メロドラマである。

 だが「士は己を知る者のために死す」(史記)というロマンからすれば、当然である。自分を知ってくれている兼続が、助けを求めるのなら、慶次郎は果敢に敵陣に飛び込み、決して振り返らない。

戦うヒーロー像


 気分が優れないときに読むべきは、こうしたヒーローものなのではないだろうか。水滸伝では短絡的すぎるし、罪と罰では全然楽しめない。

 『ナヴァロンの要塞』では、キース・マロリーやミラーではなく、アンドレアが際立つ。ひたむきで、愚直で、粘り強く、タフである。最後に誰かが十字架を背負わないといけない人間がいるとしたら、それが自分だと直感している男。

 そればかりでは飽きるが、それぞれに適した読み方があっていいのではないか。

 逆境にあり、見栄えがせず、惨めな境遇。無様ではないか。だが、それがいい。

 そんな書き方である。

 漫画化されたときには、華やかな活躍をした前田慶次郎としてスポットが当てられる。

 しかし小林秀雄の薫陶を受けた著者が、書きたかったのは、もっと哲学的な深みをもった人物であったろう。それをしばしば散見することも、小さな発見である。

 仮面ライダーではないのだ。ちょっと淡白かもしれないが、ちゃんと陰影のある作品である。

2014年11月29日土曜日

菜根譚の地味な味わい

まぜっかえし処世訓

ゲーテは詩を書く秘訣は何かということに対して、結構シンプルに答えている。

お題を決め、そのイメージにちなんだ、言葉を並べて、韻を踏むことを考えていけば、自ずと仕上がっていくと。

イメージが深まっていけば、ちゃんとした詩なのだろが、彼以前も以後も、対句を並べただけのつまらない、いわば「詩っぽいもの」はいくらでもあるのではないか。

大乗の経典も、唐詩も、しばしばこうした対句を見る。一つのテーマを繰り返しているならまだしも、単にまぜっかえしているようなものを見ると、うんざりする。

自分の好きなように、やりなさい。でも、周りに迷惑をかけないように。

うん? 人に迷惑かからない程度に、好きなようにやりなさいって? わざわざ人にいうことか? やりたいことがあるなら、とっくにやってるし、人に迷惑がかからないように配慮するのは、人間なら当然だろう?

論語を好む人に、しばしばこうした月並みな説教を勿体つけて言いたがる傾向があるように思う。

少なくとも、論語を愛読している人の意見を、何人か聞いた限りの主観であるが。

一歩踏み込んだ菜根譚


人に裏切られても、人を信じていたい。

いいフレーズである。武田鉄也がそんな感じで唄ってたような気がする。しかし、どっかお人よし加減は否めない。

人を信ずる者は、人未(いま)だ必ずしも尽(ことご)くは誠ならざるも、己(おのれ)は則ち独(ひと)り誠なり。
人を疑う者は、人未だ必ずしも皆は詐(いつわ)らざるも、己は則ち先ず詐れり。(前集159)

人を信じた場合、他人が全て誠実ではないが、少なくとも自分には誠実である。
人を疑った場合、他人が全て不誠実ではないとしても、まず自分をいつわっている。
ゆえに、自分は人を疑ってかからない。

お人好しだからなのではなくて、自分を偽り、苦しめないために、人を疑ってかからない。

しっくりくる。納得がいく。臆病でなくていい。正しい、正しくないという二元論ではなく、ちゃんと腑に落ちる気がする。

逆にまぜっかえしているだけの処世訓が、軽薄に見えてくる。

一回、ちゃんと考えている。そんな気がする。

小説も奇なり


翻訳もののミステリが好きな先輩がいた。 映画も好きだったので、すぐに意気投合した。

酒席ですっかり話し込んでいると、別の先輩が冷ややかに言った。自分は星進一を読んできたが、紙に書いてあることより、現実のほうがはるかに面白いと。

おいおい、ショートショートを基準に語るか? と思ったが、薄ら笑いでお茶を濁した。

五年後、自分探しが大好きだった、彼の奥さんは二人の子供をおいて、隣町に移り住んだ。男性の影の有無はきかない。しかし、そのことを聞いてから、寒々とした気分になって思った。

小説の方が、まだ面白いと。

紙に書いてあることに意味がないと、まるで文革の解放軍か、焚書をしたナチのような意見は感心できない。観念をもてあそぶテキストも多いことは事実だが、それをもって全体を図るのは、軽薄である。

菜根譚は派手さにかけるが、熟読に値する内容なのではないか。そんな期待を持っている。

2014年11月26日水曜日

泣き虫卒業

怖い話にうなされて


 怖い動画を夏場に見てしまった。葬儀場での怖い打ち明け話を、画面に表示させるものだった。

 悪いことに夜見てしまった。就寝前である。見事にうなされた。

 夢うつつになって、身もだえしながら、考えた。反作用を使うのだと。

 チベットの瞑想の中で、意識がふさぎこんだときは、頭上に金色の釈尊像を乗せる観想を行い、気持ちを明るくするという。眠たいときにコーヒーを。落ち着きたいときにホットミルクを、である。

 その反作用を考えた。

子猫くん泣き虫卒業


 子猫くんはもうすぐ一歳。もう自分で体を全部なめるし、ご飯もしっかり食べています。

 その日もいっぱい食べて、眠たくなったので、いつものようにママと一緒にお昼寝をしていました。

 ところが目が覚めてびっくり。

 さっきまで一緒に寝ていたママがいないのです。ママと一緒に寝ていたふかふかのお布団に、子猫くんだけが、独りだけで取り残されてしまったのです。

 右を見ても、左を見ても、やっぱりママがいません。いつもなら、起こしてくれるママがいないのです。

「ママ?」

 子猫くん小さな声で鳴きました。

「どこにいったの? ママ?」

 ママに限って、意地悪に隠れん坊をしたりはしません。どこかにママだけ連れ去られていってしまったのでしょうか? ママだけ、追いかけられて、逃げてしまったのでしょうか?

 子猫くんはだんだん寒くなってきました。どんどん怖くなってきました。

 でも、ぐっと我慢です。子猫くんは、ママが言っていたことを思いだしたのです。

(独りになっても、絶対、鳴き声をたててはいけませんよ。悪い野良犬や、大きなカラスがやってきて、子猫を食べてしまうからね)

 野良犬はどんなに乱暴なんでしょう。カラスはどんなに怖いんでしょう。子猫くんはますます怖くなってきました。ぶるぶる震えてきました。

「ママ? どうしていなくなったの?」

 野良犬が牙をむいて襲いかかってくるかもしれません。カラスがくちばしで、突き刺してくるかもしれません。

 もう、涙がぼろり。右の目にも、左の目にも、おおつぶ一粒、あふれて、今にもこぼれそうです。

 ママァ。

 すると、そのときです。

「子猫、もうおきてたの?」

 なんと、いつものように、ママが目の前に立っていました。

 子猫くんはうれしくて、ママの足に抱きつきました。何回も、何回も、匂いをかぎました。間違いありません。ママの匂いです。

「あのね、ママ。ぼく泣かなかったよ」

「偉いわね、子猫」

「もう大きくなったからね」

「大きくなったものね、子猫」

「でも、ママとは、ずっと一緒だよ」

「はいはい、ずっと一緒ですよ」

「ぜったい、ぜったい、ぜったいに、一緒だからね」

「はいはい、ぜったい、ぜったいに、一緒ですよ」

 ママのお腹にもぐりこんで、子猫くんも丸くなりました。ふかふかのママのお腹に包まれて、子猫くんはぽかぽか。すぐに眠たくなってきました。涙のあとも、もうなめてありません。

「ママ、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

 子猫くん、ママが帰ってきて、よかったね。おやすみなさい。

反作用の効果


 という話を考えて、絵本をイメージした。水彩画がやはりいいなとか、子猫はどんな柄なのだろうか、とか。

 一番ラストを繰り返して、やっと眠りにつけた。夜に怖いものは、やはり体に良くない。夏でも、冬でも、うっかりみてしまうと、後がしんどい。

 そして、我ながら、小心者である。

2014年11月24日月曜日

知らないことが多すぎる

宿題のギリシア神話


 映画『タイタンの戦い』を見る。めちゃくちゃおもろかった。現代の3D表現で、人間のイマジネーションをここまで表現できるのかと、驚いた。

 二十代からギリシャ・ローマ神話を勉強しようとしたかったが、いまだに勉強できていない。ゲーテであったり、ニーチェを読むのに、これらの神話を知らないと、味わい半分である。知っていたら、この映画をもっと楽しめたのではないかと焦る。

 初見でも楽しめるが、どうせなら存分に堪能したい。映画館でパンフレットを買ってしまう派である。原作と比較して、(まあ、もうちょっと原作の面白さを再現できたんちゃうかな)としたり顔で言いたい派である。

 ギリシア神話と、三国志と、アラビアンナイトと、万葉集は積年の宿題である。テレビなんか見てる暇ないのに。

仏教文化は面倒くさい


 仏教文化は奥が深いが、神話の体系として見ると、結構面倒くさい。ブルフィンチやバートンのように体系化した人がいないからだ。

 その点、聖書はシンプルである。教会会議で四つの福音書が選定されて、オリジナル(内典)とスピンオフ(外典)作品が明確に分けられている。

 コーランに至っては、スピンオフの企画すら許されない。

 その点において、仏教はスピンオフと、パロディのオンパレードである。

 近代仏教学では、仏教の祖についての表記をブッダとか、仏陀とかにして、彼が語った言葉のみが正しい仏教であるかのような扱いをしている。しかし実際の仏教文化は(保守的な上座部仏教すら含めて)ヒンドゥや北インド遊牧民の信仰文化とのリミックスで構成されている。

 それらを全て否定し、オリジナルだけに頼ろうとすると、実に貧相で、不自由なモデルしか成立しないし、厳密なオリジナルすら本当は明確になっていない(経・律・論は正確に翻訳できても、どのように信仰されていたのかは現存の信仰形態から類推するしかないからだ)。

 伝承では、お釈迦さんは悟った瞬間、天上の世界にいったり、悟った後も悪魔と問答するし、経典も龍の言葉で伝えられたりする。日本の近代仏教学が嫌う、ファンタジックな内容なのだ。

 だから面白いが、一つずつを理解するのに時間と労力は半端ない。(諸経の王と称される『法華経』すら、スピンオフ。お釈迦さんが説いたという設定だが、その中に仏像を祭れと説いている。仏像はヘレニズム文化が流入してから、ギリシア彫刻を模して作られるようになるのだから、もちろんお釈迦さんの時代ではなく後世のスピンオフ)

 その点、シンプルなのが、論語である。オリジナル版が正確に伝わっており、伝承は孔子周辺だけで、彼自身が嫌ったように、怪力乱神を語らないため、スピンオフはない。せいぜい諸星大二郎ぐらいではないか。

 だから逆に、勉強したいとは思わない。正しいことを言っているが、それ以下でも以上でもなく、深みが感じられない。

 ギリシャ神話に登場するヘラクレスが棍棒を持つが故に、お釈迦さんの護衛たるヴァジュラパーニも金剛杵を持って描かれる。誕生を祝福するレリーフに、天女のイメージが出来上がっていないから、天使が描かれるなど、文化的な影響を垣間みることができる。それが面白い。

 知らないから面白いし、知りたくもなる。

長いものには


 指輪物語とハリー・ポッターは実はドロップアウトした。

 それでも指輪物語は安くまとめ買いをすることができたので、にわかに欲目が出てきている。(徳川家康だけはどんなに安くても、買わないといつも決心している)。

 壮大なもの。奥が深いもの。その深淵の深さをのぞくだけで、取り込まれてしまい、しばしば寝不足に陥る。こんなことではいけない。クルマやゴルフ、阪神とアイドルの話ができる、ただのスケベ親父であったら、どれだけいいだろうと、ふと思ってしまう。yahooのトップ画面を眺めてさえいれば、事足りるような生活であったら、どれだけ気楽だろう。


 長いものには、巻かれるな。壮大なものほど、戻って来れなくなる。そう肝に銘じながらも、いつかドカ読みできる日が来るとか、夢想している。不健全な妄想である。

2014年11月23日日曜日

三国志に学べるのか

遅咲きの三国志ファン

三国志をいくつも読むことがある。横山光輝の漫画を十代の時に読む機会はあったが、例の、もう一つな描き分けに、混乱して早々に断念した。

 どっちかというと、水滸伝派である。

 董卓を暗殺しようとして、剣を抜いたのに、バレて、「あ、献上しようとしてたとこっス」と言い逃れた曹操みたいなことは決してない。

 九紋竜史進にしても、黒旋風李逵にしても、とにかく強い。そして弱きを助け、強きを挫くことにおいて、誰一人として揺らぎがない。エピソードは結構単調だが、百八の星というところが神秘的でいい。後世の馬琴が八犬伝でパクリをしたくなるのも分かる。

 だが、遅咲きの三国志ファンである。

 きっかけは映画『レッド・クリフ』。三国志ファンに何かと批判されるが、それでも、映画を見てから、吉川英治版を読んだ。それ以来、古今の作家は一通り集めた。集めただけである。 

宮本武蔵と日本人って

そうした中でうさんくさいのは、たくさんある。曰く『三国志に学ぶ人間術』。曰く『三国志でみるビジネス必勝法』みたいなのだ。

 厳密に三国志というのは、歴史資料であり、それを楽しめるようにアレンジしたのが、三国志演義である。実際、三国志の中に、劉備や曹操はちらっと出てくるが、全然キャラが立っていない。ましてや、成功体験や人間関係など、何一つ描かれていない。

 つまり後世の人間が、面白おかしくデフォルメしたものに対して、何やらお役立ち情報を見つけようというのだ。ちょっと無理がないか。

 宮本武蔵と日本人、というようなタイトルで、五輪書を、さも日本人のメンタリティとつなげて語る輩もいるが、あれは完全に吉川英治以降の作品を前提にしている。

 彼の作品以前の宮本武蔵といえば、父無二斎の仇、老人佐々木巌流を討ち果たす、塚原卜伝の弟子というキャラでしかない。五輪書は魅惑的なタイトルだが、中身は柳生石舟斎ほど、造詣もなく、少々観念的。柳生宗矩の兵法家伝書の方が、武蔵以上に物理的。

 だから、吉川英治の作品キャラを前提に語るのは、後だしでしかない。そして吉川英治の作品イメージに便乗しているのだ。

フィクションとノンフィクションのはざま


 それでも面白ければいい、というのは実はまずい。

 大阪の人権啓発系列では、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、連れ帰ってきた虎を養うために、民衆の犬を取り上げたという話を、さも事実であったかのように喧伝している。

 あんなに世評に怯えて、逆に世論を巧みにしていた秀吉が、なぜか虎を飼うために、肉として効率の悪い犬を、まるで大戦末期の赤犬狩りのように徴収するのだ。合理的戦略を得意とした彼が、わざわざコストのかかる、効率の悪い、民間の犬を集めるという矛盾。

 要は権力者が、愛情深い庶民をいじめるという図式を作るために必要な、暴君フラグでしかない。事実はどうあれ、それで盛り上がるならいいだろう。

 だが、それはお話であるという、前提でないといけない。

 信長はしょっちゅうタイムスリップしたり、転生しているが、それは全てフィクションなのだ。そして百パーセント、史実を含めていない。

 それをさも、史実であったかのように語るのはブー。三国志から人生訓は学べないし、面白いこと以上を求めるのはいけない。

 それをしてしまえば、まるで旭日旗を連想させる新聞社の発行物と同じことになってしまうのではないか。

 それは真実を知ったことにならないし、フィクションであることを自覚しないといけない。

 戦前に連合艦隊総司令部は、映画『暗黒街の顔役』を見て、あ、ヤンキーって、短絡的だし、追いつめたら簡単にやっつけられるよね。真珠湾いきなりって、どう? ということになってしまった。

 これはいけない。あれは悲劇で終わらせようと、脚本家が雑な仕事をしている。それを事実だと真に受けるほうが、すでに煽動されたことになる。そんなもんにあおられてたまるか。近代民主主義国家の主権者は、そんなおばかさんであってはならない。

2014年11月22日土曜日

スプラッシュ!

効率よく正確に合理的な方法で

毎週ほうぼうから、メールマガジンが届く。Facebookであったり、twitterであったり。何か買い物したところからとか、覚えがないのとか。

 ろくに見ないで、削除していることが多い。削除しながら、作成する労力を思うと、痛ましい気分になる。それでも読まないときは、全然読まない。

 しかし一方で、ふと思う。

 サイトを自分で立ち上げて、自営業を行うときに、宣伝用にメールを配信しようと考えた。簡単な挨拶でも送るべきだと。

 ところが案を出した段階で、猛烈に反対された。メールは絶対読まない。むしろ印象を悪くするだけ。内容のある、充実したものだけをメールしろと言われた。

 結局、ハードルの高さが、高いということ以外に何も分からずうやむやになった。そして色々と失敗した。あの時、いくつかやっておけば。そんなことをいくつも抱えたまま終わった。

畳水練

 大好きな小説の一つに、富田常男『姿三四郎』という柔道小説がある。

 『明治の風雪』を除く、オリジナル版で姿三四郎は柔術家に入門し、彼らが矢野正五郎を襲撃する段取りを打ち合わせているのに参加する。

 この矢野が姿の師匠になるのだが(矢野は嘉納治五郎を、姿は西郷四郎をモデルにしている)、この打ち合わせで、彼らは矢野の柔道を批判してこういう。

「学士の畳水練か」

 確かに後世の合気道ですら、流派によって、観念的であったり、感覚的な師資相承を重視する。講道館柔道が登場する前の柔術は、もっと感覚が重視されていただろう。

 彼らに言わせれば、未経験の学者がろくに稽古もせずに柔術を冒涜しているのだと。

 畳の上で泳ぎを学んでも、それは実践では何の役にも立たないという比喩表現である。

近道を探す間に日が暮れて

 格闘技や武道に関しては、様々に意見が分かれるだろう。

 しかし少なくとも、畳水練という蔑称は強烈に印象に残る。あの水圧や、抵抗や、浮力は語れるだろう。だが、飛び込んだ方がはるかに早い。

 本を好きで、よく読む。

 ただ苦手なのは、正しい方法が書かれた、ハウツー本である。

 本を情報を仕入れるために、読むという姿勢である。それはそれで、意味はあるのだが、それが全てであるというのは、いささか合理的というか、短絡的というか、貧乏臭いというか、浅ましいというか。

 大好きなマクリーンの『ナヴァロンの要塞』なんて、何の役にも立たない。ただキース・マロリーたちの戦いに夢中になれるだけである。そこに合理的な目的も、役立つ方法も何も描かれていない。読むのが面白いだけだ。

 だが、そこに意味があるのではないか。

 いいものを、確実に、合理的に。ビジネスの基本中の基本である。

 しかしその文法が、生きていくことや、悩むことにおいて、全くそのまま適用できると思ったら大間違いだ。世の中は矛盾に満ちあふれているし、不条理なことが圧倒的に多い。合理的、論理的なものなど、断片でしかない。

 恥ずべきは、最初から完璧を期していくために、何も実行しないでいることだ。そうすれば成功はしないが、同時に失敗もしない、などとうそぶく怠け者もいるらしいが、とんでもない。

 完璧を期して、何もできなかった、という大失敗をしていることに、自覚がないだけなのだ。

 畳水練。まさに飛び込んでみない、臆病者の観念論。

 その失敗をメルマガを削除するときに、ふと思い返し、胸の小さな疼痛に眉宇を寄せる。

 同じ失敗はしない。失敗するとしても、何もしないという怠慢ではない。それ以外の失敗をしてやる。

 そうでもしないと、失敗は報われない。

 スプラッシュ。飛び込んだしぶきのきらめきは、飛び込んだところからしか見られないのだ。

おもろいポーズ

可愛くない理由


 奈良の東大寺にいったときのこと。

 若いお母さんが、娘に呼びかけて、カメラを向ける。

 小学校低学年の娘さんはとっさに、彼女なり、イケてるファイティング・ポーズで、メンチをきる。しかし、お母さんはシャッターを押してから、がっかりして、低いトーンでつぶやく。

「全然可愛くないねんなぁ」

  娘さん、苦笑い。そっちのオーダーでしたかと。

  実家にあるアルバムの中に、兄と二人で、父の職場のクリスマス会に出た時の写真がある。(会場にあった、バターケーキがげろまずかったのを、思い出した!)

 兄は気をつけをしてたっているのに、自分は片足を上げて、そこに下から手をくぐらせてピースをしている。

 実は覚えがある。

 写真撮るよ、と声をかけられて、せっかくとるのに、兄が普通に気をつけしているのに驚いた。クリスマスパーティの楽しい印象を記録するのに、ガキが棒立ちで伝わるかよ、考えろよ。ここはなんか、おもろいポーズだろう。あ、待って、逆立ち? でんぐり返り? あ、もう撮るの? えっと、とりあえず片足上げてみました。。。


おかわり

それは今いいから、と時々注意されることがある。

 おっと、やっぱり、そうか。確か、シャッターを押した後、父も軽く笑っていたような気がする。満足したか? 納得したか? とかいっていたような気がする。

 いやいや、俺はむしろサービスして、臨場感演出しただけだし。おもろいポーズをしたいなら、もっとしっかり考えてたし!

 いや、今はよかったのだ。そこまでは今いらない。というか、おもろいポーズは今はいらない。

 なんとなく、オーダー間違い。彼女のファイティング・ポーズに一票である。

絡まれた話

地下鉄に現れた人

手違いがあって、急遽、休日に出勤しないといけなくなったときのこと。

 急いで地下鉄に乗るが、そこで絡まれた。

 向こうの車両から、結構な勢いで入ってきた男性が、目前に立つと、行く手を阻む。彼は背後を指し示し、こう言った。

「こっちの座席に座ろうとしたんですか。邪魔して、すいません」

 休日であったので、ほかにも座席はある。相手の気迫に圧倒されかけたが、首を振って脇の座席に座る。

 しかし彼はそれが気に入らなかったのだろう。なおも食いついてくる。

「お前なんか、向こうの車両にいってしまえって、怒鳴ってください」

 はあぁ? 怒鳴られたいのか? ドMな人なのか?

 そういう傾向の人だったとしても、それは対価を支払うことで、構ってもらえるところにいくべきなのではないか。

「早く、お前なんか、出て行けって怒鳴ってください」

 かなりな大声である。ちょっとイラッとした。イラッとしたから、怒りに任せて応えた。

「もう少し、小さな声でも充分聞こえますよ。どうぞ、向こうの車両も空いているので、お使いになったら、いかがですか?」

 ドSを期待して絡んできたなら、馬鹿丁寧で、優しく、穏やかに話しかけてやる。

 彼はもどかしそうに首を振った。

「この車両から、出ていけって、いってください」

 気持ち悪!!

がっかりマン

どうやら怒鳴りつけられたかったのだろう。こうなればと、決意した。超ジェントル作戦である。

「ほかのお客さんも、驚くので、もう少し声を下げていただけませんか? どうぞ、お好きなお席をお使いになってください」

 しばしば、轟音を立てて、バイクを走らせる若いのがいてる。自分は若い頃から、あの手に連中が嫌いだった。

 大人が舗装した道路を、親からもらった金で買ったバイクを乗り回し、税金以上の働きをしている警察官たちをからかって、アウトロー気取り。その美意識と、構ってちゃん加減は失笑ものである。

 田舎で暴走族を見たことがあるが、警察に放っておかれた無様さは、むしろ痛ましかった。これぞ、ヤンキーがモテる環境の、ザ・いなかもんではないか。

 警察に追われることを求めているのなら、本来はそれをしないべきである。暴力に訴える輩がいれば、暴力を振るうような現場を演出して、刑事法で戦うべきである。

 決して同じ文脈で戦わない。目には目ではない。目には歯をだ。

 電車は次の駅に到着する。彼は業を煮やしたのか、ホームに降り立つと、こう言ってきた。

「もう二度と、お前はこの線を使うなって、こうやって、通せんぼうしてください!」

 彼の言葉を正確に聞き取り、答えることにした。

「扉が閉まりますので、足元に気をつけてくださいね。もう少し下がっていただけますか?」

 それでも何か言いたそうにしたが、やがてあきらめたのか、彼が下がり、扉が閉まる。にらみつけてくる彼に、笑顔で会釈しながら、出口を示した。

「お気をつけてお帰りください」

 がっかりさせたった。と思ったが、逆にそれはこれはこれで、加虐的であったのか。そう思うと、背筋がちょっと寒くなった。

2014年11月20日木曜日

小見出しの効用

テキストもデザインの印象

  コピー書きの仕事をしていたときのこと。

 もっとたくさん、文字があるほうが、お得感があるから、もっとテキストでブロックを埋めてほしいとしばしば、あんぽんたんなディレクターに言われた。ライター同士でよく失笑していた。

 つまりお得感とは、感覚であって、それっぽいだけのこと。情報価値を高めるのではなく、情報価値が高いように見せる演出に過ぎないこと。コンビニ弁当の平べったいのとか、CM前の大げさな引っ張りみたいのとかみたいな。

  そこに何が書かれてあるか? ではなくて、どんな風に印刷されているのか、が問題になったとき、論点は中身より見た目にすり替わっている。そこにフォーカスしていった結果、情報誌と呼ばれる雑誌媒体のほとんどは、リクルートの広告媒体にたちまち駆逐されていった。

 「いちびり」。軽薄で、調子にのった人や、その言動。

 まさに、情報誌のディレクションはいちびりやったのではないか。

広告に荘重さはいらない

仕事で、ある会社のチラシを資料としてみることがあった。

 A4の一色なのに、二段組で、文字も小さく、ほとんど改行がない。びっしりと書かれたテキストに目を凝らすと、結構フランクな口調で読みやすさを強調していた。

 製作経緯を想像するに難くない。ああだこうだと、意見を集めて、情報を沢山盛り込んだ上に、楽しく親しみある文体にしようと誰かが言い出す。そうですよねぇ。じゃあ、こんな言い方どうですか? いいねぇ。さすが国文学部。。。みたいなくだりを想像してしまう。

 しかし読み終わって、結局ほとんど頭に入ってこなかった。いや、要約すれば二行にも満たない内容であった。

 だが、きっと作った人たちは大満足だったのだろう。何週間も前に用意したり、土日に出勤して、文面を遅くまで読み返す人がいたり。

 彼らは思ったに違いない。客が読みやすいかって? そんなのあとにしろ、と。

 ううん、いちびっとったら、いかんぞ。

ブログを書こうとする反面

何か面白いことを書こうとか、楽しませるようなものを実現しようと、考えあぐねて、しばしば放置してしまう。

 これもこれで、結局いちびっている。

 見た目にこだわって、読み手に大した情報を提供できない情報誌や、企業の広告。

 読み手よりも、自身の虚栄心を優先して書けないでいるブログ。

 どちらも似たようなものなのかもしれない。唯一救いは、ブログには小見出しをつけて、読みやすくできることぐらいか。

 本質はなんなのか。

 コミュニケーションである以上、時に失敗してでも、もっとシンプルであるべきなのではないか。そんな自戒をふと思った。