葉隠のなかで、気に入っているのは、軍学の極意を紹介している一節である。
極意とは何か。覚えていたことを、忘れること。つまり正攻法も、反対の奇策も、全て学んだのちに、忘れることであると。
ところが、この忘れるという表現がしばしば誤解を生む。
すっかり忘れて、否定をするというのが、いかにも仏教の頓悟説をイメージして、豪放磊落な印象を受ける。
しかし決して、そんなことは言っていない。あくまで、忘れるというのは、戦略としての基礎を習得したのだから、その形式にとらわれることなく、流動的に戦略を立てよというのだ。
まさに機に臨み、変に応じよ。基礎、応用の知識習得プラス、柔軟なアドリブ精神。これが極意であると。
ところが今まで、何人か、早計な人を見受けた。
迷惑なクライアントは会議の思いつきを、インスピレーションと信じて疑わず、ダサい紙面に難解なテキストを、幾度も作り直しさせられた。
正攻法であろうが、奇策であろうが、いずれにしても、ロジックがある。
そうしたロジックを、全て否定して、ひらめきだけを信奉する。結果、軽薄で、斬新に思えるようでも、最終的には類型的なものに仕上がってしまう。
こういう場面の話に接してしまうと、中華人民共和国の文革について、いつも連想してしまう。
土木の専門知識を持った人間は、エリートだ。海外文化に傾倒する、反動分子だと、処刑してしまう。
その結果、素人仕事で何度も決壊するダムを作るし、人力で際限なく不毛な作業を繰り返す。厳しい身分制で(共産主義国家なのに?)、責任は末端に押し付けられる。
ナレッジメントをシェアして、合理的に目標達成するのが近代文明だとするなら、根性論に依存した素人仕事は文明とはいえないだろう。
文明開化を果たして、有色人種最初の近代国家樹立、我々
NHKの番組『100分de名著』をよく見ている。
今回、荘子を取り上げていて、一つ氷解した。ぼんやりした人の出典に、曲解されていたのではないかと、確信できた。
荘子の主張は大好きだ。論語が正否を糾す、世俗的な手本に引用されやすいのに対して、老子と並んで、何の役にも立たない。
経済効率を上げること不向きであり、癒されるほどの優しさもない。
飲酒は楽しみを以って主と為す=乾杯して、楽しく飲むのが目的で、説教垂れて仕舞いに割り勘とか、勘弁な。
窮も亦た楽しみ、通も亦た楽しむ=困窮したときは、困窮そのものを、思うような環境なら思うような環境を、そのまま楽しむ。
自然に帰れとか、姑息なことを考えるな、などとは決して言っていない。
時々、結構、無理をすることあるよな。でも、分かるだろ? 無理ってときは、無理なんだぜ。その程度の結論だが、それを深く深く、掘り下げていく。
しかしこれを、ものすごく曲解することは可能なのだ。
経済効率を否定すること、無用であることが正しいのだとかいう、ただの怠け者。努力をする人を揶揄して、実際は何も知らない薄ら馬鹿。
日本人には、古代ギリシアから続くような、西洋のような思想はなく、そのときの柔軟な状況分析で、自由に発想してきた。
バブル華やかかりし頃に、結構蔓延した、ポピュリズム崇拝である。(梅原猛はこの問いに結構苦しんでいた。本当に思想がなかったのか? という問いに、彼は仏教思想を上げて反論する)
アメリカの法廷劇のように、弁証法を好む文化はない。
しかし一休の頓智話に象徴されるように、ロジックに奇抜なロジックで応じることは、嫌いではない。(だからといって、憲法解釈なる言葉で、自由に歪められるのでは、そもそも明文化する意味あんのか、だ)
無思想であるというのは間違いで、思想と定義するものが、多元的であったのではないか。
ましてや、無思想であって、その場しのぎでしかビジョンがなかったというのでは、ただの中傷である。
薄ぼんやりして、何も考えず、その場の状況に追われて付け焼刃に応答して切り抜ける。
荘子はそういうこともあるだろうと説く。しかしそこからが違う。その結果を、甘んじて受け入れよ。最後は抗えると思うな、というのだ。
最初から、何も考えるな、という、薄ら馬鹿の教祖ではない。
0 件のコメント:
コメントを投稿