期待と錯覚
チベットでは死人の遺体は、鳥葬にする。遺体を山野にすてて、鳥に食べさせる。
伝統的な大乗仏教の価値観からすれば、死後の魂は四十九日後にはすでに別の生き物に生まれ変わっている。そのため、遺体は不浄でも、清浄でもなく、物体になる。(厳密には鮮度の落ちた肉)
そのため、別の生き物にとって食物になるのであれば、それを施してやる。食べやすいように切り刻むということも行われていた。
これをヨーロッパの宣教師たちは衝撃的な文化として、センセーショナルに伝える。
インドとは違う、異形の仏教文化を持った、未開人たち。
20世紀初頭。
帝政ロシアは中央アジアに南下するため、モンゴルを懐柔し、チベットへの侵攻を企てる。かたや、宿敵大英帝国もインドから、中央アジアに向けて、北上していく。
そうした中で、鎖国していたチベットは、ダライ・ラマ政権と、パンチェン・ラマ政権に別れ、ロシア、イギリスにつき、けん制しあう(実は二つの大国を翻弄するために、二つの政権が対立を演じていた可能性がある)。
そこで互いに、チベットは神秘の国として、喧伝すべく、シャンバラの伝承(シャングリラと英語圏で呼ばれる理想郷の原型)や、転生活仏制度について、大げさに説明する。
第二次大戦後、中共軍の侵略を受け、高僧たちは世界各地に亡命する。そこで、求めに応じて、少々デフォルメを施した、神秘的な教義を説明する。光の身体。輪廻。第三の目。
オカルトやサブカルチャーの求めに応じて、それらは尾ひれをつけられ、冷戦構造に膿んでいた人々に、これらの神秘は代用にたる理想であった。
得てして、期待に応じて、デフォルメされてしまう。
ヘリゲルの『弓と禅』は日本研究の名著として、長く掲げられてきた。
しかし、矢が当たった瞬間の、
「それです」
といった師匠の言葉が、(今の感じ、いいですよね)程度の言葉が、(それ=矢自らが何ものか、精神的な働きによって当たる)という意味に間違えられる。(前提に、物の怪を信じるアニミズムが日本文化だとか、色々な情報がミスリードさせたのだろう)
方言の違い
関西といっても、北は京都の舞鶴、南は南紀白浜。言葉としての範囲は広いだろう。
でんがな、まんがなといえば、関西弁だと思われることもあるが、大体が河内弁と、京言葉のちゃんぽんである。
実際、活字媒体のなかで、谷崎潤一郎の『細雪』での会話は現代の大阪人には難解な、船場訛りである。
読みやすさでいうなら、米朝落語の活字本ぐらいではないだろうか。それぐらい、実際は多様性があり、変化もしている。
だから、テレビで関西地方の方言を、人情味である演出として、使う場合も違和感を感じるが、演出でしかない。
もっと違和感を感じるのは、関西に長くいなかった人が、関西人であることを看板に、ネイティブを気取って語るイントネーションである。
「もうかりまっか」
「~や、さかい」
リアルな大阪で、そんな言葉を日常で使う人は見たことがない。いわば古・大阪弁か、古・泉州訛りなのではないか。
それがさも、関西から来た者ですので、名刺のように口にするのは、聞いていて、居心地が悪い。
需要があるのだとしたら、デフォルメ関西弁というものは、一つのガジェットとして機能しているのだろう。そうと知っていて、なんか落ち着かない。
パチモン(模造品、フェイクを指すスラッグ)くさくて、ネイティブな関西方言に馴染んでいると、ちょっと耳障りな気がする。
しかし一方で、こういうこともある。
東京本社の人に「関西の人はこうなの?」と尋ねられ、率直に応えるが、しばしば気を使う。ちょっとてらった応答をしないといけないのではないかと。
亡命したチベット人たちも、通訳の問いに、ちょっとためらっていたのではないか。
東海道新幹線の終点は、外国である、というイメージに応えないといけないのではないか。そんないらぬ気遣いをしてしまう。
みんながみんな、河内のおっさんの歌を愛唱したり、新喜劇を愛しているわけではないのだが。そういう、ぱーやんでない、関西人など、それこそ”パチモン”に見られるのだろうか。
嘘、で検索したら、なぜかトラ猫 本来は野生の動物なのに、愛玩動物となっているからニセモノということか。 |
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