2015年5月30日土曜日

役に立とうとは思わない

馬車に乗って移動するのが常識だった時代。

自分だけが雨をよけられるように、折りたためる屋根を棒で支えて歩く男がいた。

その貧相な様子をみて、みんな笑った。自分だけが上からの雨をよけても、どうせ足元は濡れるだろうにと。

しかし折りたためる屋根は、この後、普及し、一般的になる。現代の傘だ。

日本でインターネットが流行し始めた頃。

コンビニの端末で、色んなチケットが購入できるようになった。先輩の好きな、タレントのコンサートにも行けるといくら説明しても、理解してもらえなかった。買ってみせて、それでも最後まで半信半疑であった。

折りたたみ屋根ではなく、傘がある。窓口販売だけではなく、コンビニ支払い。

社会のあり方はいくらでも変わる。そのことを認識できるか否かは、空間認識によるのだと、文化人類学ではいうらしい。

つまり直接、知覚できない存在(テレビカメラを担いでいる人、インターネットを介してチケットを配送する人)を、想像できるかどうか。

その人の人格や、習慣など、関係ない。想像して、認識できるかどうか。

傘やコンビニ決済が便利だと思えるか、思えないか。

はっきりいって、主観の世界である。

昔、パソコンに詳しいなら、教えてくれと年配の出入り業者にせがまれて、フリーメールやFirefox、openofficeについて説明した。

しばらくして、彼はプロバイダのドメインメールとIE以外の使い方は覚えきれないし、wordが高くついたことをぼやいた。説明は何一つ通じていなかった。

逆にmacproを愛用し、3Dcadを使いこなすデザイナーが、wordが高いとぼやいていたので、libraofficeを説明すると、感激された。

必要だと思っている人には通じるのだ。

必要だと思っていない人に、何を説明しても、通じない。自分だってきっと聞こえていないのだろう。

何かヒントを思いついて、提案することはあるが、決して固執しない。

いくら説明したところで、本人が必要としているものと、間違いなく別物だからだ。

傘やコンビニ決済、openofficeの利便性を必要としない人だっているのだ。むしろそれが便利だから、全ての人が理解するべきだと思うこと自体が、単に共感の強要にすぎない。

ばかばかしい。

役に立とうとは思わない。どうせ役には立てないという自覚がある。その程度のことしか、自分にはできない。

誠心誠意、誰かのお役に立ってみたい? 保険の営業マンではないのだ。自分のような人間には手に余る。

いや、多分、役に立たない結果になるだけだ。
乗合馬車なんて、今から考えたら、ただの動物虐待にしか見えない。

2015年5月24日日曜日

夜の口笛の呪術と科学

ジンクス

蛇が来るから、夜に口笛を吹いてはいけないと注意されたことがある。それが怖いからではない。東京コミックショーのレッドスネーク・カモンみたいで、ばかばかしくて止めた。

しばしば、こうしたジンクスを聞くことがある。

曰く、夜に爪を切ると親の死に目に会えない。

(夜間の照明が現代のように整備されていない時代、深爪することが多かった)

曰く、雷がなっている時に腹巻をしなかったり、腹部を温めていないと、へそを取られる。

(雨が降ったあと、水分の気化熱のために、夜明け前に特に気温が低下し、体温を冷やしやすい)

親の死に目に会えなかった確率や、哺乳類であることを照明できなくなる確率など、多分計測することはできない。しかし雷さんに仮託したメッセージは、ちゃんと意味がある。

だが、口笛はなんだ? 夜に口笛を吹くと、どうなるのか? 泥棒の合図だとも聞かされたが、ますます訳が分からなかった。

人が休んでいる民家にわざわざ入るなんて、リスク高すぎだろ。夜間なら事務所へ、昼間なら住宅地へ、ではないのか。

忍者の秘伝書『萬川集海』だと、忍び込んだ形跡すら残さないのが上の忍者。忍び込んだ形跡は残したが、見つからないのが中の忍者。忍び込んだのがバレた上に、捕まるのが下の忍者なのだという。

見つかるリスクをおかすのは、泥棒ではない。強盗である。障害や殺人のリスクに見合うだけの、お金がありそうかどうか、門構えで分かるだろう。

蛇がくる。泥棒の合図。

どうもメッセージが見えてこない。タブーであることはわかるが、何を意味しているのか。

呪術

地蔵菩薩の真言(マントラ=仏に通じる聖なる言葉)は、おんかかかびさんまえいそわか。サンスクリット語で「ははは、希有なるお方よ」という意味。(本来、翻訳することに意味はないと言われている)

「かかか」は”hahaha"を音写したもの。そう。実は笑い声を指している。輪廻で迷っていても、地蔵菩薩に任せておけよ、はっはっはっ。よだれかけしてるようで、結構豪快なのだ。

これが後期密教になると、結構過激になる。

アラーを思わせる神や、ヒンドゥの神々を呪い殺すという、激しい仏が登場してくるが、その真言にしばしば「バット」という音が入る。首を切り落とした音を意味するらしい。

擬態語が盛り込まれるのは、呪術文化の基本のようである。

問題の口笛。

現代でこそ、呪術は実効性は否定されており、直接的な殺害行為とはならない。

殺意の代償行為にしかすぎず、刑事法では裁かれない。本人に知られれば、恐喝になるが、それでは呪いとして、倍返しを喰らうことになる。(戦前までは準・殺人として裁かれていた)

そうした中で、呪い殺す呪術に動物の声帯模写を行っていたという。

鳴き声を真似て、動物の邪霊を召喚し、相手を呪っていたのだ。動物モノマネ(声帯模写とすら、今や言わない)などと、呑気なネーミングの江戸屋小猫さんだが、彼の芸のルーツは呪術師であったのだ。

その一つに風の音を真似て、相手が病気になることを願うのが、口笛であったという。つまり呪いだったのだ。

それを知って、安心した。なぁんだ、昔々の呪いだったんだ。これで安心して、Don't worry be happyを、結構な音量で聞いても大丈夫。

そう思った。

しかしどうだろう。

地蔵菩薩の真言は安心せよと説いているのに、そんなに広く人口に膾炙していない。信心深い祖母がいなければ、疎遠なものだろう。

逆に夜に口笛をふくことをタブー視する人は、どれだけいるだろう。圧倒的に多数ではないだろうか。

つまり地蔵菩薩の救済より、口笛による呪いの方が、実は高い確率で当たるのではないか。

あんの、野郎と呪うのが口笛。そして、音によって周囲に知られてしまい、呪い返しの報いをうけるのだとしたら?

ううむ、人を呪わば、穴二つなのではないか。どう歌われても、悩んでしまう。

ゴルゴーンの目を見ると、石になるという神話が、
今ではしばしば下ネタに使われるのだとか。
それっぽい画像見つけたので、ぺたり。



考えない根拠

葉隠のなかで、気に入っているのは、軍学の極意を紹介している一節である。

極意とは何か。覚えていたことを、忘れること。つまり正攻法も、反対の奇策も、全て学んだのちに、忘れることであると。

ところが、この忘れるという表現がしばしば誤解を生む。

すっかり忘れて、否定をするというのが、いかにも仏教の頓悟説をイメージして、豪放磊落な印象を受ける。

しかし決して、そんなことは言っていない。あくまで、忘れるというのは、戦略としての基礎を習得したのだから、その形式にとらわれることなく、流動的に戦略を立てよというのだ。

まさに機に臨み、変に応じよ。基礎、応用の知識習得プラス、柔軟なアドリブ精神。これが極意であると。

ところが今まで、何人か、早計な人を見受けた。

迷惑なクライアントは会議の思いつきを、インスピレーションと信じて疑わず、ダサい紙面に難解なテキストを、幾度も作り直しさせられた。


正攻法であろうが、奇策であろうが、いずれにしても、ロジックがある。

そうしたロジックを、全て否定して、ひらめきだけを信奉する。結果、軽薄で、斬新に思えるようでも、最終的には類型的なものに仕上がってしまう。

こういう場面の話に接してしまうと、中華人民共和国の文革について、いつも連想してしまう。

土木の専門知識を持った人間は、エリートだ。海外文化に傾倒する、反動分子だと、処刑してしまう。

その結果、素人仕事で何度も決壊するダムを作るし、人力で際限なく不毛な作業を繰り返す。厳しい身分制で(共産主義国家なのに?)、責任は末端に押し付けられる。

ナレッジメントをシェアして、合理的に目標達成するのが近代文明だとするなら、根性論に依存した素人仕事は文明とはいえないだろう。

文明開化を果たして、有色人種最初の近代国家樹立、我々

NHKの番組『100分de名著』をよく見ている。

今回、荘子を取り上げていて、一つ氷解した。ぼんやりした人の出典に、曲解されていたのではないかと、確信できた。

荘子の主張は大好きだ。論語が正否を糾す、世俗的な手本に引用されやすいのに対して、老子と並んで、何の役にも立たない。

経済効率を上げること不向きであり、癒されるほどの優しさもない。

飲酒は楽しみを以って主と為す=乾杯して、楽しく飲むのが目的で、説教垂れて仕舞いに割り勘とか、勘弁な。

窮も亦た楽しみ、通も亦た楽しむ=困窮したときは、困窮そのものを、思うような環境なら思うような環境を、そのまま楽しむ。

自然に帰れとか、姑息なことを考えるな、などとは決して言っていない。

時々、結構、無理をすることあるよな。でも、分かるだろ? 無理ってときは、無理なんだぜ。その程度の結論だが、それを深く深く、掘り下げていく。

しかしこれを、ものすごく曲解することは可能なのだ。

経済効率を否定すること、無用であることが正しいのだとかいう、ただの怠け者。努力をする人を揶揄して、実際は何も知らない薄ら馬鹿。

日本人には、古代ギリシアから続くような、西洋のような思想はなく、そのときの柔軟な状況分析で、自由に発想してきた。

バブル華やかかりし頃に、結構蔓延した、ポピュリズム崇拝である。(梅原猛はこの問いに結構苦しんでいた。本当に思想がなかったのか? という問いに、彼は仏教思想を上げて反論する)

アメリカの法廷劇のように、弁証法を好む文化はない。

しかし一休の頓智話に象徴されるように、ロジックに奇抜なロジックで応じることは、嫌いではない。(だからといって、憲法解釈なる言葉で、自由に歪められるのでは、そもそも明文化する意味あんのか、だ)

無思想であるというのは間違いで、思想と定義するものが、多元的であったのではないか。

ましてや、無思想であって、その場しのぎでしかビジョンがなかったというのでは、ただの中傷である。

薄ぼんやりして、何も考えず、その場の状況に追われて付け焼刃に応答して切り抜ける。

荘子はそういうこともあるだろうと説く。しかしそこからが違う。その結果を、甘んじて受け入れよ。最後は抗えると思うな、というのだ。

最初から、何も考えるな、という、薄ら馬鹿の教祖ではない。

2015年5月16日土曜日

パチモン

期待と錯覚

チベットでは死人の遺体は、鳥葬にする。遺体を山野にすてて、鳥に食べさせる。

伝統的な大乗仏教の価値観からすれば、死後の魂は四十九日後にはすでに別の生き物に生まれ変わっている。そのため、遺体は不浄でも、清浄でもなく、物体になる。(厳密には鮮度の落ちた肉)

そのため、別の生き物にとって食物になるのであれば、それを施してやる。食べやすいように切り刻むということも行われていた。

これをヨーロッパの宣教師たちは衝撃的な文化として、センセーショナルに伝える。

インドとは違う、異形の仏教文化を持った、未開人たち。

20世紀初頭。

帝政ロシアは中央アジアに南下するため、モンゴルを懐柔し、チベットへの侵攻を企てる。かたや、宿敵大英帝国もインドから、中央アジアに向けて、北上していく。

そうした中で、鎖国していたチベットは、ダライ・ラマ政権と、パンチェン・ラマ政権に別れ、ロシア、イギリスにつき、けん制しあう(実は二つの大国を翻弄するために、二つの政権が対立を演じていた可能性がある)。

そこで互いに、チベットは神秘の国として、喧伝すべく、シャンバラの伝承(シャングリラと英語圏で呼ばれる理想郷の原型)や、転生活仏制度について、大げさに説明する。

第二次大戦後、中共軍の侵略を受け、高僧たちは世界各地に亡命する。そこで、求めに応じて、少々デフォルメを施した、神秘的な教義を説明する。光の身体。輪廻。第三の目。

オカルトやサブカルチャーの求めに応じて、それらは尾ひれをつけられ、冷戦構造に膿んでいた人々に、これらの神秘は代用にたる理想であった。

得てして、期待に応じて、デフォルメされてしまう。

ヘリゲルの『弓と禅』は日本研究の名著として、長く掲げられてきた。

しかし、矢が当たった瞬間の、

「それです」

といった師匠の言葉が、(今の感じ、いいですよね)程度の言葉が、(それ=矢自らが何ものか、精神的な働きによって当たる)という意味に間違えられる。(前提に、物の怪を信じるアニミズムが日本文化だとか、色々な情報がミスリードさせたのだろう)

方言の違い

関西といっても、北は京都の舞鶴、南は南紀白浜。言葉としての範囲は広いだろう。

でんがな、まんがなといえば、関西弁だと思われることもあるが、大体が河内弁と、京言葉のちゃんぽんである。

実際、活字媒体のなかで、谷崎潤一郎の『細雪』での会話は現代の大阪人には難解な、船場訛りである。

読みやすさでいうなら、米朝落語の活字本ぐらいではないだろうか。それぐらい、実際は多様性があり、変化もしている。

だから、テレビで関西地方の方言を、人情味である演出として、使う場合も違和感を感じるが、演出でしかない。

もっと違和感を感じるのは、関西に長くいなかった人が、関西人であることを看板に、ネイティブを気取って語るイントネーションである。

「もうかりまっか」

「~や、さかい」

リアルな大阪で、そんな言葉を日常で使う人は見たことがない。いわば古・大阪弁か、古・泉州訛りなのではないか。

それがさも、関西から来た者ですので、名刺のように口にするのは、聞いていて、居心地が悪い。

需要があるのだとしたら、デフォルメ関西弁というものは、一つのガジェットとして機能しているのだろう。そうと知っていて、なんか落ち着かない。

パチモン(模造品、フェイクを指すスラッグ)くさくて、ネイティブな関西方言に馴染んでいると、ちょっと耳障りな気がする。

しかし一方で、こういうこともある。

東京本社の人に「関西の人はこうなの?」と尋ねられ、率直に応えるが、しばしば気を使う。ちょっとてらった応答をしないといけないのではないかと。

亡命したチベット人たちも、通訳の問いに、ちょっとためらっていたのではないか。

東海道新幹線の終点は、外国である、というイメージに応えないといけないのではないか。そんないらぬ気遣いをしてしまう。

みんながみんな、河内のおっさんの歌を愛唱したり、新喜劇を愛しているわけではないのだが。そういう、ぱーやんでない、関西人など、それこそ”パチモン”に見られるのだろうか。

嘘、で検索したら、なぜかトラ猫
本来は野生の動物なのに、愛玩動物となっているからニセモノということか。

2015年5月8日金曜日

リアルな恐竜

子供さんのおもちゃの箱をしげしげと見て、気がついたと、先輩社員が言った。

「リアルな恐竜の動きを再現って書いてあった。リアルって、何?って思った」

臨場感。実在性。それらを実現しているから、そこにさも、恐竜がいるかのような。。。

応答しかけて、さえぎられる。

「恐竜を目の当たりにしてないのに、何でそれが臨場感あるとか、分かる?」

なぁるほど。それがリアルかどうかは、人類には知る由もないのだ。だから、「リアルな動き」が「再現」できたかどうかは、不明であり、決して断言できるものではないと。

なるほど。正確には、イメージに近いものを再現した、というべきなのだろう。もちろん、製品のコピーとしては、全然魅力的ではないが。

そこまで正確に書くことが、大事かどうか、ではない。

正確さを理解したうえで、不正確な表現しか許されないとするなら、どこまでが許されるのだろうかと、立ち止まることが一番大事。

そんな話を、その場で聞いたような気がする。

自覚できているか、できていないかという違いである。

しかし、そういうことが気になり始めると、いくらでも気になる。日常生活に支障をきたす。

だから結果として、意識すべきときに、意識できるように、心がけて、そのスイッチは常時接続にはしていないようにする。

だが、どうしても、気になる言葉がある。

「もっとも、有名な日本人の一人」

もっとも=一番。

~の一人=複数あるなかの、一人。

気になる。矛盾が気になる。

恐竜の骨は古代から発掘され、中国では竜の力を得る薬と珍重されたとか。

2015年5月5日火曜日

マシュマロテスト

ちょっと我慢と幸福の因果関係

篠田正浩監督作品『瀬戸内少年野球団』の中で、島田紳助演じるチンピラまがいの男が、教室で子供たちをたぶらかす。それに教師の夏目雅子が怒ると、男はこう言って反論する。

「欲しがりません勝つまでは、ですか? いけませんなぁ。これからは、欲しがります、貰うまでは、でないと」

わがままであり、エゴイズムこそが根源的な欲望する、最上の手段なのだ。我慢しても、何もいいことはない。そんな気分にさせられる。

道徳と衝動という対比ではない。単に、理性と本能が並存していていても、本能を重視すればいいという考え方。(考えですらない。捕らえ方)

我慢している人が、できもしないやせ我慢をしているという無力さ。

そんな対比について、自己啓発めいたものは、しばしば本能や欲求を手放しで助長する。

ところが、心理学で分かったことがある。

マシュマロ・テストと呼ばれるものだ。

子供に、マシュマロを一つあげて、20分食べずに我慢したら、もう一つ上げるという。

ここでマシュマロを我慢した子供と、我慢できなかった子供。それぞれを30年間追いかけた結果、一つの結論が出たという。

我慢した子供は、経済的にも、精神的にも恵まれた環境にあり、我慢できなかった子供は、そのどちらかに問題を抱えていることになったというのだ。

何のことはない。ただの自制心の問題である。道徳的や禁欲的であることかどうか、ではない。

理性を使って、時に我慢することができることで、結果的に大きな収穫を得ることができる。

我慢すればいいことがある、などと、スケベな先物取引みたいなことをいってはいけない。

理性的であることも、時には必要である。なぜなら、それが幸せになるための手段だからだ、程度の教訓である。

イデオロギーとは関係ない。資本主義が万能ではないし、社会主義も万能ではない。所詮は社会システムの違いである。

ただ欲望こそ正義、経済活動こそ究極目標というのは、決して幸福には関係ないことは事実だろう。

ちょっと我慢するスキル。まさに人間臭いスキルであり、そこにこそ、葛藤があり、はじめて苦しみもある。

苦しみから逃げ回ることさえ止めれば、苦しみの延焼は静まり、やっと意味がついてくる。

ちょっと我慢するとは、そういうことなのではないか。

お菓子のお家ときいて、(なんか、食いモンおもちゃにしてるなぁ)とか思っていた。


2015年5月2日土曜日

あおりキャッチ

宝くじは当たらない

意外と知られていないかもしれないが、宝くじはまず、当たることはない。

要は確率の問題である。

北米大陸に旅行中、雷に打たれて死んだ人が親せきにいる。この確率よりも、一億円があたる確率は低いのだというのを、どこかで読んだ。

ゼロではない。言い方は悪いが、我々労働者階級が、就労困難になって、保険を受け取る確率のほうが、実ははるかに高い。

投資する意味でいうなら、宝くじより、医療保険のほうが圧倒的に確率が高い。実も蓋もないが。

しかし宝くじを売るために、ご陽気なタレントを使うだけではない。キャッチも作る。

「3億円当たると、年収600万円の生活が30年できる」

あなたがもし、事故や怪我で就労困難になっても、一生サポート、よりもはるかに魅力的である。

キャッチ(アイ・キャッチ=目を止めさせるフレーズ)が商業を動かしていることは、紛れも無い事実である。

費用をかけたキャッチなのに

戦争だって、政治活動だって、実は市民革命だって、キャッチがトリガーになっているのだ。Remember parlharbar. I have a dream....

目下、大阪で都構想についての賛否を議論する風景が、ローカルニュースで流れていたりする。

驚いたことに、保守も進歩も共通して、都構想に反対している。いやもっと驚いたことに、両方の足並みがバラバラなのだ。

彼らのいう、「数の論理(論理というか、ただの暴力)」や、支持団体の影響力をもってすれば、とっくに都構想自体、頓挫すべきだし、彼らが一致団結したら、もっと派手なネガティブ・キャンペーンを実現しただろう。

だが、彼らの調整能力が示すように、実に足並みはバラバラ。

何よりも、否定する側のどのチラシを見ていて、大阪が「ひょっとしたら、バラバラになるかもしれないから、反対しよう」程度のイメージキャッチなのだ。

過去40年間の数値をグラフにして、現状の市民税による負担がどうなっているのか。二重行政によるロスがどうなっているのか。

有権者へのプレゼン能力は、はっきりとすでに明暗を分けている。

はっきりいって、反対派の意見を理解するのに、相当な努力が必要である。それぐらい難解である。(無論、難解だから不正解であるという、考え方は間違いである)

難解であるだけではなく、どこまでも歯切れが悪い。

代表が正々堂々と議論しているのを見て、有権者が甲乙を当日まで悩む。そんな議会制民主主義みたいなことをしてみたかった、というのが本音である。

ところが、一方が広いデータをもとにした、深いプレゼンをし、もう一方が、初見の代表者にマイクを持たせて、彼にもぞもぞと話しをさせるのだ。迷いたくても、迷いようがない。

金も組織票もある側が、その力を発揮できずにいる。

キャッチであおる方法を、しっかり考え直すべきではないのか。