2018年7月27日金曜日

毎朝ブログなど

 毎朝、ブログを書いていくと、頭を整理していくことができるというような話を聞いた。以前にも聞いた覚えがある。

 読んだ本の話題であったり、身近なことを書いていくことで、脳を活性化していくのだとか。アウトプットすれば、情報を整理していくことができるのだとか。

 最近読み終わった本について、考えるが、どれも途中で投げ出したものではないだろうか。

 ある読書会に出た。ほかの参加者がいなくて、主催者と二人で話すことになってしまった。

「今まで、何冊読んでますか?」

 何? 今月? 今年? まさか、現世?

 本を読んだことを、いちいちカウントしてこなかった。読んだものの、退屈な本をがんばって読んだこともある。面白い本は内容を結構覚えているものだ。

 読書体験を冊数でカウントするのは、本を読むことで知的活動をしていると過剰に身構えているようで、あまり好きではない。

 くだらないビジネス書や、自己啓発本を何冊読んでも、いいものをじっくり読んだものとは程遠い。もちろん”いいもの”の定義はそれこそ、自由であるべきだ。

 確かに読んだ内容を簡単にまとめていくことは、理解を定着させるのにいいのかもしれない。

 しかしどうしても思ってしまう。

 読むに値する内容を書かないといけないのではないかと。

 つまらない内容のブログを読んでいると、どうしても考えてしまう。

 考えたのに、こんな記事になってしまうなんて。という矛盾。

2018年7月14日土曜日

臆病者は壺を売られる

 職場の近くに海外留学を紹介するカウンターができた。

 その前を通り過ぎた時、若い男性二人の会話が聞こえた。

「壺を売りつけられるのではないか」

 いい。実にいい、臆病ぶりである。憶測と、貧相な想像力だけで世界の危機をいつも感じている臆病加減がすこぶるいい。

 彼らの頭のなかでは、常に陰謀と恐怖が渦巻いているのだ。

 オウムによるサリン事件が報道された時、阪神・淡路大震災で炊き出しの小学校に寝泊まりしていた。

 そこでさも、事情通の人が語っていた。

 テレビ放送で公共広告がやたら目立っている。

 震災によって、人々が動揺している。

 その感に、国家は支配体制を強化するために、公共広告を入れて、国民を都合よく洗脳しようとしていると。

 ほんとかなぁと思っていた。

 案の定、あとから違うことが分かった。

 震災の報道を行うにも、スポンサーが必要である。しかしスポンサーが作るCMはもちろん、商品を告知するのが目的である。当然、浮世離れした演出もある。楽しさを表現したものもある。

 そうしたものを放映していたら、この緊急時に何を気楽なことをしているのかと、顰蹙を買ってしまうことがある。

 だから、スポンサーの降板が相次いだし、名称を流すが、CMを流さないということも起こった。その合間をうめるための、放送局にとってフリー素材的なものが公共広告だったのだ。

 これは現に、のちの東日本大震災でも同じことが起こる。

 菅直人のボンクラさは到底、隠しおおせるものではなく、国家権力の求心力はだだ下がり。その間に挨拶しましょうという公共広告が結構な頻度で流れたのだ。ポポポ、ポーンのアレである。

 阪神・淡路大震災の時、村山内閣は長く続かなかったし、批判にさらされた。国が国民を洗脳しようとしているのなら、どう考えても大失敗である。

 なんとなく、したり顔で語る事情通。憶測で現象を付け足しているだけなのだ。何も分かってはいない。

 しかし、そういう人を見ると、たまらなく嬉しくなる。世界の真実を知ったふりで、まんまとテロリストの手先となって恐怖を煽るような輩は、こうした事情通なのだ。

 壺を売りつける側は誰を狙っているのか。その商品価値は恐怖や不安を和らげること。つまり怯えるものほど、格好の餌食なのだ。

 売る方も、売りつけられる方も、本体はただの臆病者。恐るに、強烈物足りない。

「早すぎた。腐ってやがる」の巨神カエルなんだとか。

2018年2月10日土曜日

節分のドラキュラ

 『魔法修行者』という随筆の中で、幸田露伴翁はいう。

 魔術という言葉と、magicという言葉には、音が似ている。これが後世の研究によって解明されるのを待ちたいと。


 この手の言葉遊びは近代、よく研究対象にされたらしい。


 研究がつたない時代と想ってはいけない。


 加持祈祷で用いる閼伽水(あかすい)の語源は、aquaであり、インドを発祥として水を意味する上で、洋の東西が同じ音を用いていたのだ。


 しかしこの例は、なかなかレアである。同じような事例はなかなかない。


 だから、何でもかんでも、世界の文明(特にヨーロッパ)と繋がっていると曲解を急ぐようになる。


 天皇(すめらみかど)という敬称は、統める、澄める、と諸説あるが、統治する聖なる王という意味の言葉で、万葉集や古事記に使われる言葉である。


 しかし近代の叡智は、そうは解釈しない。


 シュメール文明の末裔であることを意味しているのではないか。そんな奇説が登場したりもする。歴史学の中にも、雑草が多かったのかも知れない。


 そうした潮流の中で、露伴翁の指摘は自然に発生した物であろう。


 魔術は、魔・術と分解できるため、magicとの関連性は成り立ちにくいだろう。


 そう想っている。


 しかし、密かに腑に落ちないことがある。


 ルーマニアで行われるドラキュラ除けの風習。


 ドラキュラが現れるという日の前日に、遠く離れたところから村まで、子どもたちは昼間に豆をまくのだ。


 伝承では豆のように、細かいものに、ドラキュラは目を奪われる。つい豆を拾ってしまう。それが多いため、拾っている間に、村にたどりつけず、夜が明けてしまうというのだ。


 魔物除けに豆を用いるという点において、節分と類似しているが、鬼には直接ぶつける。煎った大豆の堅さに鬼は逃げ出す。


 豆のもつ生命力に対して、死やケガレは効力を発するという点においては類似しているのではないか。


 一つの神話や伝承が東西に伝わったとはかんがえにくい。


 しかし何かの文化が伝わったのだろう。


 皮肉なもので、生物学的に生存が確認されていない、魔物や鬼、吸血鬼の生態が共通の対処方法をもって望んでいることで、実は共通した生態が見えるのではないか。


 これこそ、後世の研究で解明されるのを待ちたい。

2018年1月2日火曜日

書き初め

書道の素養はない。というか、悪筆加減は絶望的である。

達筆な人をみると、羨ましくてならない。

十代で読んだ宮本武蔵で、幼少の武蔵が書道で集中力を高めたという描写があり、そんなものだろうかと感心していた。(そうした説話は一切なく、その本の作者の啓発であったのだろう)

書は人なり、という俗諺はあまり好きでは無い。

書に人格が表現されるというのは、にわかには信じられないからだ。

書家の師僧の末席にいて、こんなこというのもいけないのだが、書の表現と人徳とは必ずしも比例しないのではないかと思っている。

孫文の書はほとんど残っていないという話を聞いて、いかにもと思う。

近代の革命家に、中世の書は似合わない。

いや、高校時代の書道の先生が、人徳者と思えなかったことに起因しているのかもしれない。

書がきれいだが、猜疑心と虚栄心の塊のような人がいた。

恐ろしく悪筆だが、冷静沈着に仕事をする人も見た。

達筆であるから、人徳者であってほしいというのは、やはり願望である。

と、いうことをもって、安心して汚い字を書いている。

多分、今年も汚い字を書いているだろう。

2017年10月28日土曜日

近未来おたく

 映画『ブレードランナー』の中で、ハリソン・フォードが変わった機械を使っていた。

 ポラロイドカメラで撮影した写真を、テレビの上に取り付けた機械の口に滑り込ませるのだ。

 それがスキャナーなのである。

 スコッチをちびちび呑みながら、その機械に話し掛ける。何番を拡大しろ。声に応えて、写真のデータが拡大される。するとそこに映っていたのは。。。という展開。

 レトロ・フューチャーだなぁと、当時から思っていた。なんでわざわざ音声で操作するのだと。

 今回、google homeが販売された。

 日本語にもしっかり対応している。

 ニュースのヘッドラインや天気予報の読み上げ、リマインダーの登録、NETFLIXの再生など、多岐に亘るサービスを実現する。いわばデジタルな執事ではないか。

 siriやgoogle assistantを使ってみて感じることは、ただただ驚きである。

 あんなに日本人が密かに感じていた、自国の言語の難解さと、外国資本には掌握できないだろうという自負は、いとも簡単に潰える。

 明日、六時に起こして。ケチャップを買うとメモ。

 そんなに滑舌がヒドくなければ、恐らく簡単に入力できるだろう。

 アメリカに比べ、日本人は音声入力に抵抗を感じるようだが、いずれは利便性が優先されていくに違いない。

 バック・トゥ・ザ・フューチャー2に出てくる、フォバーボートはいまだに実用化されていない。ナイキの自動リサイズシューズも、開発は告知されたが、完成がまだである。

 しかしグリフが逮捕された瞬間、ドローンとおぼしきカメラが彼を撮影する。

 ドローンは技術的に可能になったが、フォバーボートや自動リサイズシューズはまだまだ開発途中なのだ。

 それに比べると、音声でスキャンした画像を拡大するなど、造作もないことではないか。

 マニアやオタクと呼ばれる人たちが、高いスキルを持って、色んなものを開発するというのは、日経寄りな、むしろ軽薄な見方である。

 彼らは決して、娑婆のビジネスマンのように、生産性を信じていない。

 オープンソースのイベントで、古いLibrettoをわざわざ、ラズパイで動かしてみたとか、音声で下書きのブログ記事を更新してみた、みたいなことを見たことがある。

 効率など関係ない。面白いかどうか、趣向が凝らしてあるか、である。

 写真をスキャンして、拡大表示するのなら、安いスキャナーと画像編集ソフトで十分である。

 だが、それをわざわざ音声で操作する。

 ブレードランナーは特にマニアに崇拝されている作品である(攻殻機動隊やマトリックスなど、後世の作品世界に多大な影響をあたえている)。

 きっとアメリカのマニアが、google honeとスキャナーを組み合わせて、youtubeで公開するに違いない。

 そしてそれを作った経緯をどや顔で説明するのだ。


 ああ、うらやましい。

2017年10月17日火曜日

ウルトラマン症候群とかドラえもんとか

 ドラえもんがテレビで問題になっていたことを覚えている。

 ジャイアンとスネ夫にいじめられたのび太が、泣きながら帰ってくる。泣き疲れてドラえもんが、何か道具を取り出す。のび太は道具をもってジャイアンに復讐する。良かった良かった。

 幼心に復讐に酔えた。シェークスピアのいうところの、正義の中に生える雑草ではあったが、貪るように見たり、コロコロコミックを読んだ。

 当然、これが問題になった。

 子供がドラえもんに依存するのではないかと。何かトラブルが起こったら、自分で努力して、解決しようとせずに、泣きついて便利なものを取り出してもらうようになるのではないか。

 しかし当事者の子どもであったが、ドラえもんを見ながら、ああ、そうすればいいのかと思ったことは一度もない。

 子供はそれほどバカじゃない。先輩ライダーたちの正規の特訓を受けずに、ライダーキックを試みるなんて、ただの浮かれ者ではないかと。カメハメから密かに習ったから、四十八の殺人技ができるのだ。

 衆議院選挙の演説について、残念な話題を聴いた。

 ウルトラマン症候群。

 危機的な状況になると、万能のヒーローが登場してきて、全てを解決くれるという心理のことだそうだ。

 結構、しんどいネーミングだが、社会問題が深刻になるまでぼんやりしているという心理は言い得ているのではないか。

 危機的な状態になっても、ウルトラマンが闘って、何か一層深刻になっても、三分程度で解決してくれる。

 そうした依存が有権者の中にあるのではないか。

 そんなことを紹介していた。

 待て。

 それはウルトラマンなのだろうか。かつて八十年代に問題だと言われた、ドラえもん症候群と同じではないのか。

 一つずつ地道に解決すると公約する政党はどこにもない。問題を列挙するか、針小棒大な手柄話である。

 それに加えて、我々有権者も、社会問題は政治家の人徳に起因するとばかり、古代からの権力者批判をしているだけ。

 本当にアメリカ大統領の万能感をバカにできるのか? その権利を持っているとでも?

 もしウルトラマンやドラえもんを期待していたのと、同じ程度の心理で投票しようと言うのなら、それは大人ではない。

 十七歳以下に対して、恥ずかしいことではないか。 

2017年10月7日土曜日

飢えては喰らい乾いては飲む

飢えては喰らい乾いては飲む。水滸伝に登場する表現である。

仁義に篤い好漢たちが、非道と戦うが故に世間を追われ、こぞって梁山泊に集まり、そこで仲間たちと気ままな生活を過ごす。


そのときの日常を表現した言葉である。
 

そして彼らの非生産性は、後世、東アジアにおける任侠屋さん業界に多大な影響を与えていく。
 

十代の時に夢中になって、水滸伝を読んでいた。

しかし大人になって見方が変わる。夏休みの課題図書などに、あんな武侠小説を取り上げてるのかと思うと、冷や汗が出てくる。ハリー・ポッターの方が、はるかに情操教育として有意義ではないか。


ましてや、夏休みの課題図書ほど、胡散臭いものはない。
 

『水滸伝』や 『風とともに去りぬ』、『源氏物語』などが古典として並べられ、『カーマ・スートラ』や『バートン版アラビアンナイト』、『美徳の不幸』は外れる。なんか、もうぐちゃぐちゃすぎ。
 

ikkoさんが言ったから、本格的に見えて、おすぎが語ったから、なんか下品に聞こえる、という程度の胡散臭さを感じる。
 

さて、飢えては喰らい、乾いては呑む。
 

昼時になっても、もう一つお腹が空かないと、時々このフレーズが脳裏をよぎる。
 

飢えていない。乾いてもいない。つまり放逸な生活に憧れる資格すら無いような生活。
 

食べられることは幸福である。それは食べることが幸せなのではなく、空腹が満たされることが幸福なのだ。
 

飢えていないとは、胃袋以外が満たされていないことなのではないか。
 

水滸伝の宋江たちはやっぱり、 ジューシーな肉を食べていたのだろうか。
 

卓に並んで、手づかみで肉を取り分ける。彼らのささやかなテーブルマナーと、素朴な食欲にやはり憧れる。

中国では「テーブルを汚す(取り乱す)ほど美味しかった」というマナーがあるらしい。世界は広い。