2017年4月30日日曜日

レイシストは病気

ロンドンに行ったときのこと。

オープンテラスのカフェで店員にいった。

「アッシュ、トレイ、プリーズ(灰皿をください)」

店員は灰皿を持ってきたが、アジア系の若造にキングス・イングリッシュを教えてやる必要があると思ったのだろう。

テーブルに置く前に、何度か、子音も聞き取りやすい、王国の英語を繰り返してくれた。意味は通じたんだから、と思ったが、彼らにしてみれば、耳障りな発音は不快なのだろう。

自分が何かを語ると、言い終わる前に、否定する人と会うことがある。

「最近、疲れまして」

「そんなのは、疲れたうちに入らないよ」

「なかなか体重が減らなくて」

「昔から腹八分というだろう」

云々。

膏薬と屁理屈には、何にでもつくという俗諺はあまり好きではないが、説教臭い人と合うと、その月並みさが一周回っておかしくなってくる。

俗説に思い込みを重ねただけの、先入観どころか、本人の妄想でしかないのだが、本人はまるで自覚なく、聞きかじりの道徳観を延々と語る。

すごいなぁ。

少し大げさに頷いたり、関心してやると、ますます悦に入って話す。さっきのリフレインであることにも無自覚に。

人種差別の現場を目の当たりにしたことはない。

しかし人を見下している人ほど、そのことに無自覚である。

最初から犬を追い払うように接してくる人はいた。この人の中で、自分は野良犬同然なのだと思うと、なんだか可笑しくなってくる。

本人は人間のつもりなんだろうが、犬より頭が良くないといけないと思っているから、10分も話せば、ただの臆病者であることが露呈する。

七十年代以降、人種差別を否定する人たちは、こう言っていたらしい。

「自分は高い教育を受けたので、差別をするような蒙昧はない」

イデオロギーではなく、民主国家の主権者として当然だし一貫している。
だから、人を見下したり、差別を無自覚にしている人を見受けると、時々痛ましい気分になる。

高い教育プログラムを受ける機会がなかったのだ。病気を自覚する機会に恵まれなかったのだ。

太陽の周りを、この広い地球が回っているということが、理解できないのと同じように、人間が対等であるという事実を認識できないのだ。

この場に、ダライ・ラマがいたならどうだろう。

偉大な魂、マハートマー・ガーンディーがいたならどうだろう。

きっと優しく、相手に順を追って諭していたのではないだろうか。そういう人たちに対して、自分は到底足元に及ばない。

薄ら笑いを含んで、大げさに感心してみせ、小動物をなぶる猫のように、腹の中で嘲笑している。

人に本心を知られたくない。実に卑しい。

2017年4月29日土曜日

僧侶のモンク

真宗大谷派の職員2名に対して、残業代が二年間支払わず、660万円が支払われることになったというニュース。

(修行なのに?)

という声が意外と身近に多くて、驚いた。

二つ感じることがあった。

一つ目。雇用関係と師弟関係。

師僧と弟子の関係でいうなら、残業代など論外である。

師匠に絶対服従であるし、師匠に命を預ける覚悟でなければ、それは修行ではない。(この傾向はチベットのニンマ派でも強かったため、師匠=ラマを崇拝する=ラマ教などという、怪しげな呼称が最近まで使用された)

そして何よりも大事なのは、師匠はその全責任を負うということ。

弟子の不始末も、能力も、全て師匠の責任であり、弟子の将来においても、全て保証しないといけない。弟子が勝手にやりました、なんて論理は通じないのだ。

これほど、師弟関係とは本来、主従関係以上に濃密な関係であるため、近代知識人にはしばしば同性愛と錯覚されたこともあるくらいである。

ところが、今回の本山職員というのは雇用関係(厳密には法主との師弟関係であるが、職員は大人数であり、一人ずつの人生を保証するのは不可能)である。

そのため過酷な環境下で、労働を強いられることは、単なる奴隷制度でしかない。

そこに”修行だから”という自己犠牲を強いるのは、完全にブラック。

残念なことに、昔、他宗派の本山職員に何人か話を聞いたことが、大なり小なり、ブラックである。

今回、残業代という話題にフォーカスされて、基本給について何も語られないでいるが、実は基本給はもっと真っ黒なのだ。

二つ目。修行って何?

仏教とは、少なくとも、お釈迦さんが説いたことや、その精神を継承していること。それ以外のことは、仏教ではない。

「観光バスで来た、参拝者をお接待して、快適に過ごしてもらうよう、精進しなさい」

お釈迦さんがそういったとしたのだとしたら、それは立派な仏道修行である。

ところがお釈迦さんはそう説かれなかった。

人々を救うと、彼自身決意したが、お布施を貰って、本山を維持するために働けとは一切口にしていないのだ。

仏教民俗学の五来重は、寺院の歴史を語る際に、

「古代には荘園経済で成り立ち、近世は檀家経済で成り立ち、現代は観光経済でなりたっている」

と評した。

事実、信仰と観光は現代において、特に不即不離である。
逆にいうと、その程度のことである。およそ、精舎に集って、教えを聞き、瞑想するという、仏教的な修行とは程遠い。

延暦寺の回峰行を行う、行者は生死をかけて、人々の安穏を祈る。

にこやかに、老人たちを玄関先まで迎えて、本尊の前で聞き取りやすいよう、功徳の効能書きをマイクを使って、並べ立てて、朱印帳やお守りを売るのではない。

秘されて、密かに祈り、回向する。

こうしたことは一切、明らかにされなくていいし、されるべきではない。

全て明らかにされるべきなどという論は、近代人の思い上がりであり、ただの暴力である。

参拝者を案内するのが、修行だというのは、ブッダではなく、カール・マルクスの教えというべきだろう。

本当は、本山職員の二人だけではないだろう。

超ブラックな環境下で多くの、若い僧侶たちが自己犠牲を強いられた。

そして、そのことに気づかず、彼らの頰を札で叩くように、参拝していたのだとしたら、それはもう信仰ではない。

奇しくも、数日前、全国にある仏教寺院七万五千のうち、一万三千が不住(住職がおらず、他から兼任)という実態が報道された。

後継者不足ということは、二十年以上前から言われているが、これらは全て繋がっている。

全ての事象には因果関係があると説くのが仏教であるがゆえに、皮肉を感じずにはいられない。

2017年4月24日月曜日

訂正サンタさん

GHQがいなくなり、日本円を固定ではなく、変動相場制で取引をすることになった。

そのときに、一ドルを360円での取引がスタートであった。
このときの理由。

円は360度だから、360円にした。

というのは、嘘。俗説である。

変動相場制にする際の、一ドルで買える、金1オンスの値段が360円であったことを根拠にした。

しかし円が360度、という話題の方が頭に残る。

同様に、知識として仕入れていたが、実は偽物だった事実。

サンタクロースはなぜ、赤いコートを着ているのか。

コカ・コーラのポスターに、サンタが赤いコートを着たポスターが描かれた。

それが定着して、いつしかサンタは赤色コートを着るようになった、という話。

初めてきいたときに、なるほどと思った。

しかし、これも実は俗説。

白い雪に映えるので、赤いコートで描かれることが多い。コーラを飲んでいるサンタはレトロなイラストで見ることができるが、実はコーラよりも先に、赤いコートのサンタは多いのだ。

知ったつもりでも、実は誤植。何よりも、それが誤植であったことは忘れないようにしたいものである。

ちなみに、初期のルパン三世のジャケットが青いのは、スポンサーの浅田飴の色というのは、製作者が語っていた。

2017年4月16日日曜日

罪業なう: ロボット帝国の黎明

罪業なう: ロボット帝国の黎明: Amazonで本を買った。 すると画面上に案内が出る。お客様と同じものを購入された方は、他にもこんな書籍を購入されていますと、オススメが表示された。 読書など、気難しい嗜好をコンピューターごときが、そんなにほいほいと当てられてたまるものか。 そう思いつつも、覗いてみた...

ロボット帝国の黎明

Amazonで本を買った。

すると画面上に案内が出る。お客様と同じものを購入された方は、他にもこんな書籍を購入されていますと、オススメが表示された。

読書など、気難しい嗜好をコンピューターごときが、そんなにほいほいと当てられてたまるものか。

そう思いつつも、覗いてみた。

「あ!」

スピンオフの作品が出てるんや。同じ作家が、別のシリーズ書いてるんや。ううわ、そっちも買えば送料無料なんや。

ものの見事、引っかかってしまった。というか、丁寧なアドバイスをしてくれてありがとう気分であった。

昔、吉川英治の新平家物語を文庫で安く大人買いしてしまおうと、近くの古本屋のワゴンで見つけたことがある。

後半がないことを店長にいうと、頭をかきかき、こう言われた。

「そうなんですよ。山岡荘八の徳川家康なら、全巻揃いがありますが、どうですか?」
はあ? お前、読み比べたことあんのか。

同じ源頼朝でも、臨場感が全然ちゃうやろが。分かってんか、こいつ。

Amazonなど、webで買い物をするたびに、かゆいところに届くような表示に舌を巻く。そして、徳川家康をぼんやり進めてきた店長のことを、思い出して、むず痒くなる。

matrixの二作目だったか、こんな一節をキアヌ・リーブスにエージェント・スミスが言っていたと思う。

「人間は自由意志があるということに、満足したがるが、それは予め予測された範囲内で選択して、喜んでいるにすぎない」

そうなのだ。何でも、全て自由であると思い込んでいるようで、実際は限られた中から、チョイスしているのかもしれない。自由とはある種の幻想で、完全なる自由選択などなく、ある程度、予測ができた中の選択なのかもと。

コンピューターに支配された世界は恐ろしくて、人間の感情が虐げられると思っていた。(例の難解な2001年宇宙の旅のHALではなく、ターミネーターのイメージ)。

人間の自由意志は、コンピューターに見張られ、その支配に人類は屈するのだ。ダダン、ダンダ、ダン。ダダン、ダンダ、ダダン。チャラリー、チャアララー。

そんな未来で、クリスチャン・ベールに怖い顔されるから、銃をとって、人類は存亡をかけた戦いをコンピューターに挑むのだと思っていた。

しかしskynetより先に、siriが開発された。オトボケ回答を除けば、結構な精度で応答してくれる。楽しい。

本を買えば、ちょっと魅惑的な関連本を推薦してくれる。ポテトをすすめるよりも、ナイスなチョイスで。

ロボットと戦わないといけない社会を警戒していたが、実はとっくに人工知能との生活は始まっているのかもしれない。

siriにちょっとしたことを頼むときに、いつもそう思ってしまう。

すでにHALよりも、ちゃんと受け答えしてくれているではないか。「OK、google」と話しかけると、ちょっと凹んだ口調で応答してくるけど。

ロボット三原則を読み直すまでもなく、充分快適な関係は始まっているのではないだろうか。

2017年4月8日土曜日

海外ドラマ『ハンニバル』はやめておこう。理由? おもんないから。

『羊たちの沈黙』はサイコホラーとという言葉を知らしめた作品であった。

その続編も、三作目も評価は分かれるだろう。だいぶ、マニアを厳選したきらいがある。

この犯人のハンニバル・レクターの前半生を題材にしたという、ドラマ『ハンニバル』が日本でも、ケーブルテレビで放映された。

そして、3stシーズンで終了となった。乾杯!

1stシーズンは面白かった。

主人公のウィルが警察に協力して、殺人現場に到着すると、トリップして犯人になりきる。

そこで犯行現場を正確に分析し、どういう人物であるか、たちまち見破ってしまう。

しかし、その特殊な能力ゆえに、現実との境界が危うくなり、レクター博士に陥れられる。

というのが、1stシーズンのクライマックス。演出といい、展開といい、行き着く暇もなく、見応えがあった。

ところが、である。

そこから2stシーズンは、見事に急ブレーキで失速していく。

逮捕されたウィルと、レクター博士の確執やら、次から次に、飽きるほど猟奇的な犯罪が起こる。いや、実際、そればかりの繰り返しなので、びっくりするぐらいの速度で飽きる。

見ていて、いろんな感情が芽生えるのではなく、ウィルと同様、どんどん酩酊していくような気分でいると、思わせぶりな終わり方で、番組が終わる。うっかり、見過ごしても大して気にならない。いや、もう見なくても気にならなくなる。

ズームやスローや、特殊技術で、美しい自然を堪能できる映像美はある。

しかし、それ以外に見所は実は少ない。

一話完結ではないから、だらだらと駆け引きが続いて、何の話だったかわからなくなるし、大した展開でもないのに過剰な大音量の繰り返しは茶番である。

『ブレイキング・バッド』のスピンオフとして、Netflixで配信された『ベター・コール・ソウル』はオリジナルの前エピソードという設定。

だから、ちゃんと2000年代のフィーチャーフォンと、固定電話がメインである。タブレット端末は存在しない世界という、世界観を大事にしている。

『ジ・アメリカンズ』も冷戦末期を舞台にしているから、ちゃんと当時の衣装や、ヘアスタイルをモチーフにしている。
その点、『ハンニバル』は2013年を舞台にして、過去のハンニバル・レクターを描こうとするなど、設定が雑。

つまり、例のアレだ。

『羊たち〜』で、あんなに衝撃的な猟奇的殺人が、続編を追うごとに単調になり、眠気を誘って過剰な効果音に頼らないといけなくなる、アレと同じである。

ダメだ、こりゃ感が満載の作品なので、3stシリーズまでよくもったものであると、逆に新鮮である。

もっと面白いのに、1stシーズンだけで、終わる(『ビリーブ』とか『マインド・ゲーム』とか)ものがあるというのに、あの単調で、気取ったレクター博士をぼんやり眺めるだけで、3stシーズンまで続くのか。

まあ、終わったんだから、いいか。良かった良かった。配信しているところには悪いけど、おもんなかった。

かつての映画のヒット作のリメイクものとしては、ワースト第一位といえるだろう。(ちなみに二位は『ラッシュ・アワー』、三位はマギー・Qの胸の谷間以外に見所がない『ニキータ』だと思う)

2017年4月6日木曜日

痛みから考えた祝福された死

普段の運動不足がたたったのか、肩こりから背筋や腰痛やらで、整骨院に行くことに。

結構、しっかり背術されながら、思わず声を漏らした。

とっさに痛みに耐えないといけないと思った。

痛みを取るために、痛みとはなんなのか。そんなことを考えながら、ふと思った。

男性は痛みに強いという、テストについて。

冷たい水に、同じ年齢の男女が手を入れ、どれだけ耐えられるか。

痛みを感じる感覚器官は男女とも同じで、感じる冷たさも同じなのだが、結果的に男性はそれでも、冷たさに長時間耐えた。

「男の子はそれぐらいで、泣かない」

そういう教育がされた結果であるという。日本ではない。アメリカでのテストであった。

実際、日本でも、痛みに耐えることは男性の美徳として教育される。

それはそれでいい。文化である。

しかし、年配の男性たちは痛みを訴える方法すら身につけることなく、老いているのではないか。

時々、見受けられる老夫婦の介護疲れの惨事を思い出した。

「奥さんは周囲とコミュニケーションをとるが、ご主人は見栄をはるから、周囲に助けを求めない」

そんな手厳しい意見を耳にした。

手厳しいと感じるのは、年配の男性こそ、痛みを訴えることが許されなかったからではないだろうかと思うからだ。

痛みに耐えること。その苦痛を誰にも訴えず、墓の中に持っていく覚悟。それしか知らずに、生きてきた。見栄など、お気楽な言葉で片付けては、余りに非情である。

その果てに、痴呆症の進んだ愛妻の首を締めないとしたら、どんな気持ちだっただろう。想像するだに、恐ろしい。

妻殺しの罪業を背負って、死ねれば、まだ祝福された死である。少なくとも、一人の魂は現世から逃れ出た。

しかし、自分が死ねなかったとしたら、老父はどうなるのだろう。

まさに呪われた生。生き地獄である。

刑事法で殺人罪を問われ、情状酌量となるかもしれない。

しかし、道義的にそうはいかない。幸せにすると誓った相手を、守れなかったばかりか、その反対のことをしてしまったことに、苦しみ続けるのだ。そればかりか、誰も殺してくれず、世界中の人間が結束して、一日でも長く生きながらえて、苦しめと責め苛むのだ。

あれだけ耐えた上で、まだ苦しみに耐えろというのか。

神様ですら、つがいの動物を作ることはできても、エバを創造するのに、アダムの肋骨を必要としたのだ。アダムもくすぐったかったのではないだろう。神様すら、男に痛みを強いるのだ。

やはり痛みに耐えられないといけないのだ。それはいわば、宿命なのではないだろうか。

時々見受ける、”男っぽい性格”を自称する女性が大嫌いのは、実にこの一点である。

男性が負わされる社会的な責務や、道徳的な債務について一切斟酌できないぐらいマヌケで、無神経に奔放であることが、男性的であると勘違いする頭の不出来。

そして何より、女性として生きていることの覚悟のなさである。

自分のアンポンタン加減を、額に貼っていることに気づかない間抜けさが嫌いなのだ。