ダ・ヴィンチがダビデ像を弟子に手伝わせているところ、パトロンの貴族が来て言った。
「ダビデはもう少し鼻が低い方がいいな」
イラっとした、ダ・ヴィンチは足元の石膏の粉を左手に、右手に金槌をもってはしごに登る。
そして金槌を使って、削るふりをしながら、左手の石膏の粉少しずつ落とした。
「こんなもんで、どうですか? まだ削ります?」
その言葉に満足したパトロンは帰って行った。
芸術を理解できるのは、芸術家であり、愛好家である。金を持っているだけの人には、わからない、というヨーロッパの文化に対する考え方を意味した寓話として紹介していた。
その点、日本の仏教は結構ゆるい。
そもそもチベットのタンカほど、図像に厳密なルールはなかった。(密教の図像はたくさん伝えられたが、それ以外は認めないという狭量なものではなく、結構なアレンジの余白を残した)
そこに表現の幅が生まれる。
現代、菩薩として伝えられているものの中には、大日如来のような宝冠をかぶってるのに、弥勒菩薩のように頬杖ついたり、観音菩薩のように花瓶を持っていたりする。
だから日本こそ、仏教の正統を伝えていると、保守的な言い方をする人に、なんとなく賛同できない。おまじないのように、色即是空は唱えるが、その空について中論を全く理解していない。すでにそれって、アレンジではないかと。
だから、逆に仏像の印象であれこれ語るのも、いいのではないか。
紫式部が奈良の大仏を、与謝野晶子が鎌倉の大仏を、美男子かどうかで判断しているのも、いいのではないか。
作り手はそれを考えて、作ったと想定するほうが自然なのではないか。
それをありがたいの、ありがたくないのと、周囲の受け売りで判断してしまう。それこそお釈迦さんが嫌った権威主義ではないか。
ちなみに私が一番の推し仏は、興福寺南円堂の無著像。
「一回、頭冷やそうか」
と言われている気分になる。
インド料理屋で見つけたお釈迦さん。後光というより、お布施のライス、ウマー! |