2015年9月27日日曜日

チャンスな瞬間

『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』という映画。

マット・デイモン演じるウィルが、幼馴染で親友のベン・アフレックに言われる。二人とも、高い教育を受けることができず、肉体労働しか仕事がなく、低所得の生活に甘んじていた。

「本当にお前に、能力があって、それを生かすチャンスがあったのに、俺たちとつるむのが楽しいからって、ズルズルと怠けて年をくったとしたら、俺はお前を許さない。絶対に」

そして続けていう。

「ある日、お前の家に、いつものように迎えにいく。ベルを鳴らしても、いつまで経っても出てこない。窓から、お前の家を覗くと、引越しした後だと気づく。お前はチャンスを生かして旅立っていったのだと、やっと分かる。その日が来るのを、俺は楽しみにしている」

もうめちゃくちゃいい。ロビン・ウィリアムズとのやりとり以上に印象的なのは、ラストシーンである。

早朝、ボロい車で迎えにくるベン・アフレックが、面倒くさそうにベルを鳴らし、いつまでも出てこないマット・デイモンにしびれを切らして、家を覗く。。。

そばにいてほしいとか、いつまでも一緒だとか、そんなことは子供や、十代の女の子を喜ばせるためのものだ。

成人男性が成人男性に対していう言葉ではない。スプリングスティーンのボビー・ジーンの世界である。

福田和也の本の中で、紹介していた。

友人のシェフが開業した。繁盛し、予想外に多忙を極めた。寝る間を惜しんで働きながら、疲労を母親にぼやいた。

すると母堂は穏やかな口調で言った。

「シェフになりたくても、なれなかった人たちがいる。開業したくてもままならない人がいる。開業しても、客を得られない人がいる。そういう人たちがいるのに、あなたは休みたいという。二度と、そんな泣き言を口にしてはいけませんよ」

チャンスをものにしないで、不平ばかり口にしている。がんばっているというのは、何かを耐え忍んだり、息をひそめることだけではないだろう。どうも、努力という忍耐だけが、美化されがちだが、そうなんだろうか。

何も年末ジャンボ宝くじの発売開始日だけが、チャンスなのではない。

怠っていないかどうか。自戒すべきはいつもそこである。
MI-2をみた時はロッククライミングも面白そうと思ったけど。。。


2015年9月17日木曜日

古書の苦しみ

初版本を収集したり、せどりをするのとは少し訳が違う。

本を収集するが、基本的に読むことを目的にしている。

地方に出かけたときに、いいものが見つかったことはあまりなく、やはり都市部に出かけて古書店をめぐるのがいい。

たまに本のリサイクルのフランチャイズで、せどりの仕入れをしている人を見かけるが、なんとなく好きになれない。本が好きで購入するならともかく、転売目的で安く仕入れようということ自体、どこか不純であるような気がするのだ。

そうはいっておきながら、そうした店で、掘り出しものがあると嬉しいし、つい大人買いしてしまう。

源義経が大陸に渡り、チンギスハーンになったという、「義経=チンギスハーン説」を大正時代に最初に唱えたのが、小谷部全一郎。彼の日猶同祖論『日本人のルーツはユダヤ人だ』が缶コーヒーよりも、安く手に入ったときは、本当に嬉しかった。奇書珍本を入手できる。

こうしたリサイクルのフランチャイズの店長をしていたという人に話を聞いたことがある。

版元によって、そんなに個性はないが、横山光輝の三国志や、水滸伝のうち、初版の新書サイズだけは手に入りにくいという。

なぜか。

製本の糊が悪く、カバーをとって、背中以外の三方を削るが、そうした作業をする間にうっかり背中が割れてしまったりするぐらいだと。本としての性能が悪く、保存に不向きであるため、流通しないという。内容がレアというのとは、少し事情が異なるという。

なるほどねぇ。決して版元は大手ではないが、作品自体は有名である。はっきりいって、鉄人28号や忍者赤影を読んだ世代ではないが、三国志や水滸伝は知っている。

しかし、フランチャイズである。人気のある本をできるだけ仕入れ、利益を乗せて、早く棚を開けたいというのが、常識だそうだ。

当然、人気のないもの、変わった本は低価格になる。

そこが古書店と、決定的に違うところである。

とある古書店に入ったときのこと。

中村元監修の仏教語辞典を、店主がめくっているので、いくらかと尋ねたことがある。店主は顔をあげると、めくる手を止めた。

「面白いから、今読んでるところです」

商売人としては失格だが、本読みとしては見上げたものである。

二ヶ月後、店頭に並ぶ。金一万円の値札。読み飽きたものを、その値段で売るとは。商売人としても見上げたものである。

2015年9月10日木曜日

砂場で習ったクールなフレーズ

幼稚園の年少組の記憶で一つだけある。

なんの弾みか、砂場で二チームに別れて、どちらが高い山を作れるかを競い始めたときのこと。

自軍の山が明らかに劣勢になった。

いくら土を頂上に盛っても、流れ落ちるばかりで、高さが伸びなかった。対する隣はどう工夫したのか、明らかにこちらより高い頂きを築き、さらに伸びようとしている。

足場の砂ではなく、他から砂をかき集めるが、一向に伸び悩む。そうこうしているうちに、相手はますます高くそびえていくのだ。

万事休す。仲間はがむしゃらに砂を運び、何人かは壁面を強化していくが、敗色は次第に濃厚になっていた。

すると、年長組の一人が我々の山の傍に立つ。

このままでは、負けるな。そんなわかりきったことを言った。手伝ってやろうかと。仲間が色めく。そうやって年下の前で偉そうに。いや、待て。何か秘策があるのか。

そんなやりとりの後、彼は無造作の五指を伸ばした手を持ち上げた。そして、無造作に頂上にそれを押し付けたのである。

あっ。みんなが息を呑んで、手を止めた。すると彼は言った。

「さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしろ。早くこの上に砂を乗せるんだ」

おお! 一斉に両手にすくった砂を持ち上げる。一度土台になった頂上には、みるみる新しい砂を受け止めて、さらにさらに高く登っていく。

そしてあっという間に、敵軍の山を追い越し、勝利したのだ。その時、確信した。さらに高みを望むなら、頂上は踏み台にしないといけないのだと。

現存する砲術(鉄砲術)の演武などでは、弾薬を詰めて、発砲したあと、小手をかざして残心の構えを取る。まるで弓道のようなフォーマットである。合戦ではそんなポーズなどなかったが、後付で作られたものである。

旧幕府軍が新政府の新式銃に敗北したというのは、現代日本人がもっとも好む話である。

これは何も日本人に限ったことではない。

帝政ロシアの誇り高き近衛兵たちは、新式のライフルを軽蔑した結果、レーニン率いる赤軍に敗北して、ロマノフ王朝は滅びる。

馬鹿でかい車を美徳としていた、ゼネラル・モーターは軽い日本車に負けた。

ゲーム産業やアニメーションも、日本の職人技が90年代までは世界を席巻したが、今やノスタルジィでしかない。

負けた側に共通しているのは、何か。いつも考える。

新しいから、ではない。

過去に成功があったから、その方法を続けていくしか道を見ない。その結果、世界でも類を見ないガラケー文化を作り、今や自国民にさえ、見向きもされなくなっている。

さらに高みを望むなら。全てを捨てよというのは、無責任な発想だと思う。むしろ、頂上を踏み台にする痛みこそ、驚きと活力にあふれているのではないか。

友人でも、昔語りをするのに会うと少々気恥ずかしい。

お互い、まだまだ踏み台どころか、その頂上にすら辿り着けていないのではないかと思うのだが、どうもうまく言えない。

想像のなかでは、これぐらいの高さの山だったような気がする。

アップルは禁断の実

上方落語の枕(本題の前の余談)として、こんな話を聞いたことがある。

祭で夜店を見て回っている少年に、中年のオヤジが声をかける。

声を潜めていうには、裸で二人が抱き合っている写真があるという。特別に格安で販売するという。人に見られてはいけないところで、密かに見ろという。

その特別価格で購入して、幾重にも油紙で包まれたものを、鼻息を荒く取り出してみると、その通り。

お相撲さんが二人、がっぷりと四つに組んでいたとか。。。

新しいi-phoneが販売されるかもという噂もあって、テストユーザーに選ばれたとメッセージを表示して、個人情報やカード番号を盗もうという輩がいる。

アップルストアに、端末の不調を訴えにいくだけでも、予約しないといけないぐらい、セキュリティや個人情報にうるさいappleが、どうしたことか。突然、テストユーザーを無作為に選ばないといけないほど、新作の端末に自信を失うのだ。そんな馬鹿な。

ダジャレも何もあったものではない。単なる詐欺である。裸で抱き合ってる、など、ふざけたことはいってくれない。

普段はAndroidを使っている人も、いざi-phoneが無料で手に入るとなると、色めきたつのだろうか。

警戒はしないのだろうか。自分も、macbookairが格安で販売されたと思って、詐欺にかかりかけたが、何よりも最初に疑ったのは、そんなに安くなるのはなぜか? である。

1000円で食べ放題なんて、まずいものしか出てこない。1万円でカニが食べ放題など、採算がとれるわけがない。(そもそも100円以下でうまいコーヒーが飲めるなんてこと自体、物理的に不可能なのだ)

我々西側の自由主義経済に生きるのなら、安いことを競争することも自由である。

だが、Apple製品は別だ。

中古の買い取りもそこそこな値段もする反面、中古販売でも結構いい値段がつく。決して安くはならない。法外に上乗せしようものなら、たちまち新品の方が安くなってしまう。そのぎりぎりをいつも堅持しているからこそ、ユーザーはあの食べかけのりんごマークに信頼を寄せているのだ。

しかし、それが突然、うっかりしてしまうのだろう。なぜか、自分だけが得することになる。しかし、そんなうまい話はない。宝くじはあたらないのだ。ちょっと深呼吸して、原価を想像すればカンタンにわかることなのに。

そして何よりも、Appleへの冒涜というより、Appleへの過剰な期待や、羨望がこうした詐欺を存在させることになるのではないだろうか。

Mac OSXは使いやすいが、普段、i-cloudは全く使っていない。gmailアカウントで十分足りるからだ。何より、(少々酷評だが)keynoteをお試しでクラウドでは使え、ローカルではフリーではないという商売の仕方は、まるで旗印ブランドのone noteを思わせるような仕様である。はっきりいって、失敗している。

Apple内部でも色々あるのだろうと想像される。それはブランドとして万能ではないことの証ではないか。それで十分ではないか。

無料でいいものなどない。それに近いものを求めるのであれば、FirefoxOSやUbuntoOSを探せばいいではないか。そこは省略して、という物臭で、詐欺にひっかかるようでは、あまりにも悲しい。

Appleは禁断の果実なのか。否。知識の樹であったがために、神を試すことを知り、あの二人は楽園を追い出されたのだ。試すこと、考えることの象徴なのではないか。逆によくいいすぎか。

Mac bookを使ったことがあればマウスではなくトラックパッドが使いたくなるハズ。。。

2015年9月8日火曜日

もったいない話good bye Giga file便

圧縮をかけるだけではなく、メールでやりとりするときに、快適なのが、オンラインストレージサービスである。

仕事で頻繁に使うのだが、気に入っていたGiga file便の使用を断念することにした。

ほかのオンラインストレージよりも、大きな上限で、動きも軽快であり、URLの短縮もアップロード時に使える。非の打ち所がないぐらい便利である。

しかし使わないことにした。

なぜか。

広告がひどいからである。

女の子とデートするゲームや、女の子が戦うゲーム。あるいは女の子を育てるゲームや、女の子と冒険するゲームといったように、結構、偏った趣味に偏った内容であることが、目に余ったからだ。

これでは、到底、 仕事として活用していたくない。

何回か目をつぶっていたが、ちょっと引くぐらい出てきた。 無論、無料で使っているのだから文句はいえないが、できれば他で代用したくなる。

実際、そんなに頻繁に、大きな容量が必要かというと、そうでもない。十分、他で代用がきいた。

はっきりいって、広告が控えめで、操作しやすいものは他にもたくさんある。スーパーのチラシの裏に走り書きされたものを、渡される気分にならなくてすむようなものも、しっかりしている。

問題なのは、ゲームのキャラクター・デザインが類型的なのではなく、ましてや、広告が単調なことでもない。商品の方向性がそれしかないということなのではないだろうか。

多様性を喪失し、単調さに甘んじて、類型化していくことはどんな文化現象にもあてはまるだろうが、それは決して自由ではない。

とか、考えすぎか。

2015年9月2日水曜日

Netflixで、ベター・コール・ソウル(ソウルに電話しよう!)を見始めた。

ブレイキング・バッドのスピンオフ『ベター・コール・ソウル』。

日本での配信が待ち望まれていたが、9月1日よりNetflixでウェブ配信されてたので、早速見てみた。

ブレイキング・パッドに登場する、チャラい弁護士ソウル・グッドマン。

彼がウォルター・ホワイトたちと出会う前の、2002年という設定(確かにスマホはなく、色んな形のフィーチャーフォンが最新鋭の機器であるかのように使われている)。

本編で、奇妙なスタッフたちを従えており、彼らと難事件をコミカルに解決してくれる連続ものかと思いきや、ちょっと違った。

まだタイトルのような名前を名乗ることはなく、本名のジェームズ・マッギル(確かに地味な名前。これでは両親の経営するガソリンスタンドに来られても、ジュニアのようにテンションは上がらない)という 名前で公選弁護人として、収入にならない弁護を引き受けているところから始まる。

ウォルターとの出会いが、安物パンツが宙に舞い、ガスマスクをつけた男が運転するキャンピングカーであったのに対して、今回のソウルは期待したほどのことはない。つかみとして、弱すぎる。

あの、銃口を前に怯えながら、それでも法律アドバイスを売り込もうとするソウルには程遠い、単なるチャラい中年オヤジが、惨めに失敗し、振られ続ける。なんと 第一話のラストにいたっては、キレやすさにドン引きしたトゥコに銃を向けられる。(ガス・フリングではなく、当初のシナリオではトゥコ・サラマンカがウォルターと戦う予定だったぐらい、凶悪なキャラ)

生活苦を理由に、ハイゼンベルクの名で、次第にカルテルのボスに(追い詰められて)なっていくウォルターと、憎しみ合い、助け合いながら、生き残るジェシーたちの日常に比べて、ソウルの日常は結構まったりである。

派手さにかける。

しかし電磁波恐怖症の兄チャック、昔なんかあったんだろうキム、といった新キャラたちに混じって、のちに私立探偵になるマイクが、駐車場係として難しい顔でクロスワードをしながら座っていたり、ジェシーに買収をすすめるネイルサロンにマッギル自身が事務所を持っていたりと、オリジナルをみた人間を楽しませる工夫が随所に光っている。

2002年って、そんなに昔なわけではないが、70年代ドラマのようなタイトルクリップなど、制作者の偏愛も光る。

オリジナルほど、手に汗握る展開ではないが、徐々にのし上がろうとする、したたかなマッギルを見ていると、次の一話と、見てしまう。(特にマイクが渋々事件を片付けるのがそれらしくていい)

何より楽しみなのは、タイトルにもなるキャッチ、「ベター・コール・ソウル」がどこで思いつくのか。その瞬間に立ち会えるかどうかなのだ。

日本でテレビの視聴率は急減しているらしい。今までテレビを見ていた人の半数は、実はウェブで動画や映像作品を楽しんでいるらしい。

今回の配信はまさに、そうした潮流を象徴するようなものだろう。

「ブレイキング・バッド」シリーズもウェブで配信されており、本作もシーズン1は全話配信されている。一ヶ月無料とか、やすい価格設定である。

もちろん、ウェブでの動画配信は万全ではない。

ちょっと前の映画棚卸しや、廃れたドラマの再利用的なサービスもあったり、バケツいっぱいのスーパーボールをひっくり返してみた、みたいなものも混じり、玉石混交なところもある。

しかし確実に言えることは、もうテレビに客は戻ってこないということだ。

広告の合間に笑い声を挟んだものや、CM明けのくどいリフレイン、音声を必要としないテロップなど、ここ十数年で、一般民放放送は基本的な求められ方も役割も変わった。

力道山がシャープ兄弟と戦った時代は、インフラとしてテレビが少なかったからだ。

狼煙であったか、チャットであったか。そこに優劣はない。だが、狼煙の味わいを語り始めた時に、すでに目的から逸脱している。

追記。
第6話のマイクのエピソード。警官。めちゃくちゃ良かった。