正月休みに出雲大社に行きたいと思ったが、急に萎えた。調べていると、拝殿に長蛇の行列が写った写真を見つけたからだ。
一体、いつからあんなにラーメン屋みたいな行列ができるようになったのだろうか。東京出張で神田明神がそうだったのに、感心したが、それから急速に全国に波及したのでは無いだろうか。
前のじいさんが、膝と腰と肩と、息子の出世と、孫の学業成就と宝くじを願っている間も、辛抱強く待ち続けるのが正しい作法だというのだ。神道が嫌いになった理由はひとえにこれだ。
敬意を強制するくせに、何の教えも無い。
白々しい形式主義であることだ。なぜ柏手を打つのか。なぜ二礼二拍手なのか。誰も説明出来ない。
寺院では拝殿を右回りするのは、釈尊に敬意を示して、聖なる手である右を捧げる仕草で、右回りしていたことに由来する。ちゃんと理由がある。
神道は色んな宗教を受け入れる土壌であるという妄言。国つ神を神話に取り込んだが、記紀神話が編纂されるより二百年前に伝来していた仏教は一切神々と関わらない。
つまり神道は土着神や、縁故ある神々を祀っているが、拝礼儀式の集約に過ぎず、宗教とは到底呼べない。
列島の成り立ちや、人類の始まりを表現した箇所はあるが、それを本気で信じている人は、あの行列に一人もいないことからも証明されている。神様など信じない。信じているのは御利益だけなのだ。
それを仏教では無明という。
近隣の神社に親しく参拝する。縁ある神社や親しみを感じた社を定期的に尋ねる。素晴らしいことだ。
だが、そこで自分や家族の健康と長寿以上に、物欲を叶えられると信じているのだとしたら、無明ということだ。何の思索も無く、ただ端金を賽銭箱に投げ入れることで、都合良く現実を変えることができると、少しでも信じているのだとしたら、ハッピーはその頭の中で、すでに実現している。
精一杯のことが実現するか否かを預けるというくらい、頼みにしているのが、神を拝することなのだ。キリスト者ならこういうだろう。我々が神に仕えるべきであって、神を我々に仕えさせることはできないと。
だから、賽銭箱に放り込んで、柏手を打っただけで、使役できるような邪神を有り難がるのは、やはり無知蒙昧と言わざるを得ない。
仏教的におバカであり、キリスト教的に傲慢で、イスラム教的には野蛮なのだ。バカで傲慢で、野蛮な行為を自慢するなんて、世界平和を憲法で標榜する国民として、嘆かわしい。ましてや百年ほどしか経っていない、二礼二拍手の作法を古来からあったかのように、得意げに強制するのだ。
つまり、あの行列は何も考えていないということなのだ。
自分がもし、春日大社や住吉大社を拝しているなら、どうするか。
早朝に来て、さっさと自分の参拝を終える。遠方の、縁もゆかりもない神のために、長時間並ばされるほど、悪いことをした覚えは無い。
もし早い時間に参拝出来なかったとしても、行列に並ばない。皆の願いの次に、自分の願いも聞いて貰えるように、離れた場所で遥拝する。賽銭箱に遠いなら、入れない。
自己満足だと言われれば、一笑に伏すだろう。行列に並ぶことは、自己満足ではないと?