2016年1月31日日曜日

イノシシは死なない

 『クスコーブドリの伝記』の最初の方で、ちょっとショッキングなこと。

 飢饉を襲ったとき、お父さんが思いつめて、こういう。

「おら、山にいって遊んでくるだ」

 収穫がなく、飢餓が確実に訪れることを想定したときに、残った食料を少しでも維持するにはどうするか。宮沢賢治らしい優しい表現だが、なんのことはない。お父さんは山で首を吊るのだ。

 山からイノシシが降りてくるという話を聞いたことがある。

 海辺の山から、イノシシがそれこそ、猪突猛進してきて、海に飛び込むという。

 山での食料が少なくなる、晩秋の季節に起こるという。

 山に残した共同体を生き残らせるために、若く、体力のある個体が、自ら入水自殺を図るのだと言われていた。

 まるで賢治の描写のようではないか。キリスト教的な自己犠牲が、動物の衝動にもあるのだと。

 そう思っていたが、どうも違った。

 海上自衛隊が撮影した動画を、テレビで取り上げていた。

 海を泳ぐ、不思議な生き物。なんと、イノシシなんです、と。

 イノシシは向かいの島にある、山に登り、どんぐりを食べる。食べた後はどうなるのか。

 一眠りして、翌朝、帰宅するのだ。

 海に飛び込んだイノシシは、勢いよく、向かいの島のどんぐりを目指していたのだ。

 自分という個体が生き残ることで、ひいては共同体も生き残るのだ。

 たくましい。何一つ否定されるべきではない。力の限り生きようとして、何が悪い。

 生物の本質は生きようとするのだ。

 安易な自己犠牲など、単なる自己欺瞞でしかない。

 海を渡って、ヘトヘトになったイノシシが、口いっぱいにどんぐりを頬張ったあとは、どんな夢を見るのだろうか。

 宮沢賢治には描けなかった夢であることには、間違いない。
もっと強いイノシシ探してたのに。。。

2016年1月21日木曜日

もっと気楽に

何かに追われていたり、ずっと気がかりになっていたり、まるで長患いしているかのようになっていること。

例えばブログである。

本来、気晴らし程度にしてみたいとか、書かずにはいられない衝動のために、更新していこうと思っていた。

しかし結構な頻度で忘れている。更新を忘れたことを思い出して、書いていないことが悔やまれる。

書いていないことがまるで、自分の怠け癖を公表しているようで、なおさら考えたくなくなる。

もともとは書きたくなることを、気ままに書いていこう、という程度にしていたことが、いつしか書いていないことへの呵責に追い立てられている。こんな矛盾はない。

ましてやお金をもらっているわけでもない。何一つ、儲からないどころか、時間は持ち出しである。

持ち出しである以上、楽しくないとバカバカしくてやっていられない。

そうだ。楽しいから、なんとなく続いていく。

儲かるのだから、頑張るというのは、結構ハードル高いのではないか。書くだけで金になる。作家じゃあるまいし、そんな上手い話、アフィリエイトのセミナーの常套句みたいではないか。

こんな、ぼやきみたいなことを、書かずにはいられない。罪業である。
フリー素材でタバコの煙
夢中になったドラマ『ブレイキングバッド』のオープニングみたい。



2016年1月5日火曜日

UFOは存在する説

八十年代のUFO番組を、ケーブルテレビで放送していたので、思い出した。
アメリカの天文学者、作家のカール・セーガンの著作を読んだ時のこと。

その中で、紹介している一つが、天文学者の見解として「UFOは存在する」という主張であった。
なぜなら、「Unidentified Flying Object」(アンアイデンティファイド・フライング・オブジェクト)=確認されていない飛行物体のことを、存在しないというのは、馬鹿げているからだ。

それが宇宙人の乗り物であるか、どうかは別として、未確認の段階で、その飛行する物体はUFOなのだ。

なぁんだ、と思った。

しかし、彼は明確に主張している。

逆に、天文学からいって、知的生命体が地球にしかいないということの方が、天動説を頑なに信じるぐらい無知なことである。

ただ、現在、科学者を納得させるだけの証拠が出ていないだけだと。

彼はほかにもオカルトや、胡散臭い科学について、いたって理性的に反論、説明してくれる。

特に面白かったのは、八十年まで核戦争による人類の危機を警告してくれていた宇宙人が、我々より進んだ文明を持っていたのなら、なぜ九十年代の環境破壊を予見していなかったのだと。
まさに目撃証言者と同等の、現状認識や知識しかなかったのだ。そんな宇宙人が本当に、地球人より進んだ文明を持っているとは思えないと。

面白い。腑に落ちる。

宇宙人がいると確信しているから、いい加減な納得をして、うやむやにしたくないというのが、彼の考え方だ。(SFファンで、彼自身の小説『コンタクト』は映画化されている。)

健全な反証にも耐えうる先にある真実。それを結構、ユーモアを交えて(ここが一番大事)語ってくれる。

建国の父たちや、我が国に啓蒙思想を持ち込もうとしていた人たちは、野蛮な入植者の末裔ではなく、彼のような、近代的理性の持ち主だったのではないか。

いいことが書いてあるからと、本を読む人がいるが、飽きないのだろうかといつも心配になる。

いい言葉を文字にしようなんて、論語の時代から何一つ変わっていないし、目新しいテクノロジーではない。

それより反証する方法、着眼点、思考のアイデアを身につけ、より深く理解できることの面白さを、提案してくれる本の方がはるかに面白いのではないか。
 『エイリアン』の翌年に『E.T』(80)が公開された。
宇宙人を怖がらせないための戦略なのでは、などと聞いたことがある。
今はそれどころではない。地球人同士がますますやばい。

2016年1月3日日曜日

素人仕事

力士の四股名に、山とか海といった描写が多い。

もともと地方の力持ちを、宮廷の庭に招き、相撲を行ったのが、起源である。当然、地元の地名を取り込んで名乗っていた。地域の代表という意味もあったのだ。

古代のオリンピックも、各地から選手を集めて、練習の成果を競い合う祭典であった。

人類最初の娯楽は、ローカルのアスリートたちが努力を積み重ねることで、実現したのだ。

現代のボクシングも、様々なテクニックがあるが、黎明期においては単なる殴り合いであった。

ガタイの大きな男が、小さい男をリング上でなぐりたおす。グラディエーターのような世界であった。

しかし逆転が起こった。

体格差で劣る選手が、ちょこちょこと周りを飛び跳ね、不意をついて顎を殴ってくる。

最初は馬鹿にしていた、相手の大男は、ある瞬間、相手のグローブが飛んでくるを避けられなかった。次に気がついたら、マネージャーに抱えられて、マットの白さを眩しく感じることになった。

小柄な男が、大男を拳だけで倒す。ゴリアテが倒れるのを、目の当たりにできると、客席は沸騰した。

体重があるものが強いのではなく、普通の体重とスキルを持ったものが強い。ルールがシフトしたのだ。

現代のボクサーといえば、力石が絶食したように、ストイックの象徴でもあるのは、当然だろう。

ジャズがいいといって、何でも即興性やアドリブばかりを重視するのは、素人考えなのではないかといつも思う。

ジャズは自由だといいながら、実は音の出し方にルールはあるし、もちろんある程度の演奏スキルがなければセッションなど不可能である。

根性論で、怨念がましく修行すれば、何でもできる、というわけではないが、準備や下ごしらえなしに、何かを作ったとしても、それは決していいものにならない。

数年前から、動画配信サービスを使って、自前の動画を作っている人たちがいる。

見ていたテレビ番組と、見劣りしないような品質の動画を作ることができる。

しかし、内容はどうだろう。

混ぜたり、食べたり、投げたり。見せ場がまるでぬるい。

古代のオリンピック。円盤を投げるスキルの高い選手に、ひたすら練習させて、さらに遠くに飛ばさせるようにして、当日を迎える緊張感があったはずである。

素人仕事で作った動画に、それほどの緊張感があるだろうか。時間があっただろうか。

配信者自身が、そのことに薄々感付いて、いずれは配信に飽きてしまう。

そういうものなのではないだろうか。

見せるに足るもの。少なくとも、そう自問して準備されたもの。

結構、手厳しいが、見る側に立てば当然だろう。

決して、素人の動画配信が、既存のテレビを凌駕するようなことはあり得ない。理由は準備の手数を持つか否かだ。

(ちなみに、このブログもできるだけ、メモ書きを整理している。深夜に書き始めたものは、話題が散漫で内容も浅くなるので、アップしていないつもり。自信ないけど)

女性ボクサーらしきフリー素材。
ピンク色は闘争心を萎えさせる、という作戦が裏目に出てるぞ!


2016年1月1日金曜日

玄奘三蔵とお猿さん

新年なので、干支の話。

申年だから、お猿さんのことについて。

アジアでもっとも有名な猿のヒーローといえば、西遊記の孫悟空だろう。

中国ばかりか、韓国や日本において、古くから親しまれてきた。

お師匠さんこと、玄奘三蔵は仏教史のなかで、非常に評価が高い。というのも、経典をサンスクリット語から翻訳する際、それまでの翻訳より、言葉を補って、ニュアンスを拾い上げたからである。

それまで、”誰でも”という表現に、”有”(存在する者)と表現されていたが、玄奘は”有情”(感情を持つ者)と翻訳して理解を深めることに貢献した。

詩的な才能に溢れた翻訳ディレクターであり、自らも翻訳家であり、自らインドまで走破した、筋骨隆々とした偉丈夫であった。

決して、なよっちい臆病者ではなかったのだ。

そんな玄奘になぜ、お猿さんの従者がついてきたのか。

海賊の頭目でもあるまいし、なんで猿なのか。

キンシコウという、毛並みのいい種類の猿がいるとか、南方熊楠のように『ラーマヤーナ』のハヌマーンという猿の神様がルーツかと思っていた。http://goo.gl/9ARAUu

しかし、昨年2014年、龍谷大学ミュージアムでの展示http://goo.gl/2IeQYGをみてわかった。

猿は人の真似をしたり、他の動物の面倒をみる姿がよく観察された。=厩舎の守り神として、猿の絵を掲げることすらあった。

つまり馬、移動手段の守護神として、猿が起用されたのである。

(玄奘以外にも、シルクロードを歩く取経僧という題材は、古くからあり、虎を釣れた僧侶という絵画も現存する)

お猿のキャラはほとんどが、人間の真似をする、おバカキャラなのに、悟空だけが玄奘を心配して、やきもきする。やはり守護神としての役割が基本設定にあるからなのだろう。

ちなみに、猪八戒=富の象徴。唐代の玄奘には馴染みがないが、元朝以降、遊牧民族の文化が流入して、猪(中国語ではブタの意味)は家畜であり、貨幣がない時代の富を意味する。西遊記自体が清朝に完成していくから、遊牧民族の文化が入っている。

沙悟浄=玄奘の道中を守った、仏教の守護神・深沙大将(ドクロの瓔珞を首にかけている)と、インドで問答したのちに、同行してくれるバラモン教の僧侶(子供のドクロの瓔珞を首からかける=人は生命力のある子供時代にも死ぬことがあるのはなぜか? と問う)のイメージが混ぜ合わせてできたキャラクターである。

流沙河(流砂河という記載で、緩い砂地であるのが、河と誤読されるようになった)で悟空たち一行と出会うが、川辺にいる妖怪というイメージで、日本でのみ、河童という設定になる。

単なるドタバタではなく、それぞれのキャラが文化的な背景を背負っているのだ。しかしそれらを反映しなくても、作品にはあまり影響しないし、関係ない。だから、人気なのかもしれない。

さらにいうと、大河ドラマになった真田幸村(本当は信繁)の家臣である、真田十勇士の一人、猿飛佐助も、悟空をモチーフに明治時代、立川文庫が作ったキャラクター。さすがに大河ドラマには出てこないみたいだけど。

(上方講談の講釈師が猿飛佐助の子孫という人を見つけて、印を結ぶように、寿司職人になっていたと高座で語っていた。まさに”見てきたような”類の話である)。

今年も、こんな感じで、だらだらと。
ヒンドゥ寺院のハヌマーン。彼が守っているのは仏教ではない。