2015年12月30日水曜日

寒空の暦

お坊さんを顧客に印刷物を制作する仕事をしていた時のこと。

暦の編集、校正も担当しているということで、地方から来社されたお坊さんに注意された。

「暦には六曜が掲載されている。これは迷信であり、非科学的なことだから、掲載するな」

はあ。また、好き買ってなことを。

迷信とは正に、迷いをまことと信じることであり、それを助長するのは厳に慎まないといけない。

しかし、非科学的とはいただけない。

まるで、オウム事件後に盛んに言われた、お釈迦さん=ナチュラル・ハイ説(悟った瞬間は断食明けだったため、高揚感があったというだけの、俗説なんちゃって科学)ではないか。

どの面さげて、回向だとか、功徳を説いて、檀家から布施を巻き上げてらっしゃるのだろうと不思議に思ったが、問わなかった。

責任者に相談するとか、しのごの言って、ごまかした。

六曜はとかく目の敵にされる。

彼の言い分も間違いではない。明治新政府は迷信を取り締まるため、暦に様々な記載をすることを禁じた。

しかしまだ農耕が主要産業であった時代、田植えが分からないような暦など、充電切れしたスマホなみに役に立たなかった。

そうした中で、最低限の情報として六曜だけは掲載が許され、(むしろ行政が黙認した)現代に至っているという。

室町以後に始まり、江戸時代に大枠ができ、実は明治以降に作られたという説もある。

だから、良くも悪くも、六曜を執拗に気にする人を見受けると、いただけない。もっとたくさんのイベントやタブーが神社の暦にはたくさん記載されているのに、なんてものぐさなんだろうと思ってしまう。

いくらいい日を選んでも、離婚するときは離婚してしまうのに。

カレンダーを作る会社で面接を受けたことがある。

ご多分に漏れず、不況であるが、特にインターネットの普及でカレンダー自体が売れていないという。

初詣客相手の露天で、カレンダーを売っているところを見たことがある。

干支や風景写真のものに混じって、「今から、お風呂ですか?」と見まごうばかりの、マッパのお姉さんを撮影したものも広げられていた。

年末になると、カレンダーを受け渡しするが、ふと思い出す。あのカレンダー印刷会社も、露天商も懐は寒いのだろう。マッパの姉さんも、寒がっているのではないか。

六曜を気にするより、彼らの仕事のあり方を工面してやることの方が、大事なのではないだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。


古代では、自国の言語で暦を作成できてる
=文明国だったからマヤ文明も相当進んでいた。

2015年12月29日火曜日

達人の話

神経学の話。

視覚で認識した情報を元に、攻撃あるいは防御の動作に移るべく、筋肉を伸縮させる。

この知覚、動作の流れに、個人差はあまりない。特に緊張状態にあると、人間はだいたい同じで、その違いは秒数ではカウントできない。

つまり殴ってくることを感知し、それを避けたり、払おうとすること自体、人間にできることは同じスピードでしか対応できない。

つまり強さとは、その限られた速度で、どう処理しているか、なのだ。

最短距離で加速し、重量あるパンチをくりだせるか。あるいは避けられるか。

ジークンドーでは、その答えを明確にしている。予備動作を最小限に抑え、拳に体重を乗せるような打ち方をする。

筋肉そのものが強さなのではなく、つきの動作一つを正確に出せるように、筋肉を組み立てる。

ブラジリアン柔術はもっとロジカルである。人体の可動方向を整理し、相手の動きを封じながら、いかに優位な体勢を構築・維持するのか。

気合いとか、根性とか、気迫は余り役にたたない。必要なのは、酸素の吸引力と集中力である。

そうした戦術が、正攻法の臨界点を迎えると、次は別の方向に向かっていく。

例えば剣であれば、上段に構えた方が、刀の重さの分、早く振り下ろせると信じられている。下段に構えると、振り上げる筋力が必要なため、遅くなると。

しかし柳生新陰流では、これを逆手にとった。

逆風という技である。

わざと下段に構えて、上段を誘う。上段から打ってくる相手の太刀筋を避けながら、その小手を狙う。

すると相手の拳は早く振り下ろされてくるから、おのずと早くなくても切り上げることができるというのだ。

(考えてみれば、重みがあるだけで、早いというのも、おかしい。実際には遠心力を使うので、上段も、下段も、人間が使う以上、筋力の違いでしかない。)

はっきりいって、ずるい。

スポーツマンシップなど、微塵もない。(なぜなら、スポーツではないから)。

正攻法ではない方法を考えたのだろう。ずっと秘伝として伝えられた。(そのせいで、巌流の燕返しという技法と、かぶっていることは二十世紀後半になるまで分からなかった)

こういうことを見聞するのが面白い。

だから、筋肉や精神論しかないような、メソッドの整備されていないものが、さも古来のものであるかのようにいわれると、なんとなく興ざめしてしまう。

ましてや時代劇で、お面お小手と、殴り合うような殺陣をしていると、がっかりする。

映画のスタントでは、派手なポーズをしたあとは、カメラが表情にズームできるように、特に頭部は動かさない。

その点、演武を見ていると、居合以外は結構揺れている。別に新体操ではないのだから、止まる必要はないのだし、美的なものは結果論だからだ。

『燃えよドラゴン』なども、ズームするが、結構、ブルース自身は揺れている。全身の筋肉を使って、打撃した以上、波紋が起こるように揺れていたのは当然だろう。

強さは見えるし、強くみせることは、特殊効果でも簡単に作れる。

しかし強さに至るための、ロジックは簡単には作れない。

そこが最大の魅力である。

現代の道着は明治の嘉納治五郎考案のもの
居合などでは余り用いないのは、説明に適さないため。

2015年12月28日月曜日

鉛筆のぬくもり

寅さんが映画のなかで、甥に鉛筆の魅力を語るくだりがあった。

「いいだろう。木の温かみがあって、書き味に味わいがあるだろう?」

甥はボールペンにはないなんとか、かんとかこたえていた。

この手の昔は良かった説はあまり好きではない。

自らが相対的であることに、無自覚だからだ。

鉛筆を懐かしむ世代にとって、万年筆やポールペンよりも、体温が伝わるような気がするのかもしれない。

しかし冷たい言い方をしてしまうと、それは気のせいだ。

もしも、樋口一葉が聞いたら、嘆くことだろう。彼女の原稿は全て筆で書かれている。当時、前衛的な芥川龍之介が、鉛筆で書いたが、当時としては相当なショックだった。

マジ、鉛筆で書いちゃったんすか? 夏目先生にバレたら、やばくないっすか? 当時のリアクションはそんなところだろう。

当時は鉛筆で名文が書けるわけがないと思われていた。

もちろん、樋口一葉が原稿用紙を使っていたということを知れば、滝沢馬琴は嘆いていただろう。鉄眼和尚が経典の筆者に整理する際に用いただけの、400字という単位を用いて、自由な創作を制限するなどと、到底クリエイティブなことではないと。

しかし馬琴の書いたものを読むことができたなら、新井白石は失笑しただろう。。。

というように、時代によってアイテムや姿勢はどんどん変わっていく。変わって当然だろう。

今時、手書きで、丁寧に書かれても、というような状態ではないか。

タブレット端末に、指でサインをして証明とまですることが、現代では行われつつある。

チャールトン・ヘストンの『十戒』では、封蝋に指輪でスタンプして、自分の文書であると押印していた。

その時代から、基本的な考え方は変わらず、アイテムが指輪から、タブレット端末に変わったのだ(ちなみにモーゼの十戒を記した石板を英語ではtablet。カタカナ表記すると、ありがたみが半減。しかし英語圏ではシナイ山から持って降りてこられたのと、同じ名称をリンゴマークのものに使っているのだ)

本質は変わらないが、手段やアイテムが変わる。

やっぱり日本語はパソコンではなく、ワープロでないと、と主張する人がいるとしたら、今や滑稽である。

鉛筆にぬくもりを感じるのは、自由だが、シャープの恨みを無駄に買うようなシャープペン批判や、ボールペン軽視などは、全然自由ではない。

ジープに乗ったアメリカ人にせがめば、チョコレートを投げてくれると思い込んでいるのと変わらない手あいの、単なる思い込みだ。

パソコンだからといっても、アイデアは手書きがやっぱり便利。

2015年12月27日日曜日

バック・トゥ・ザ・フューチャー part2を見直してみた

一作目のラストで、ドクが迎えに来てくれる。


「マーティ、君たちの子供を助けないと。今すぐ一緒に未来にいくんだ」

わお。やっと85年に戻ってきたのに、さらに30年も先にいかないといけないのか。

彼女とトヨタの四駆(今では信じられないが、80年代の日本製品はビデオカメラも自動車も、世界で売れまくっていたのだ!)でドライブに行こうとしていたのに?

2015年。エメット・ブラウン博士が厳かに告げる未来は、途方もなく先に思われたのに、間もなく終わろうとしているではないか。

本国でもずいぶん盛り上がったらしい。

改めて、バック・トゥ・ザ・フューチャー part2を見直してみた。

映画の中で出てくるホバーボートは、開発が進み、テレビCMでも使われていた。商品化には間に合わなかったが、リアルにありえることは証明された。

立体ホログラムCMは実現せず、いまだに変なメガネをかけないと、立体の動画は見ることはできない。ナイキの自動リサイズシューズは年内の開発実現を公表されたのに、実現はできていない。道路を必要としないハイウェイは全く実現のめどすら立っていない。(60年代の映画『1980』では、通勤に飛行機が使われるシーンがあったはず。空にはライト兄弟以来、ずっと憧れるのだろう。多分、2045年でもタイヤがついた自動車に乗っているに違いない)

しかしネクタイを二本ぶら下げるという、おかしな服装はしないですんでいるし、グリフが逮捕される瞬間は、ドローンみたいなカメラで撮影されてUSATODAYに掲載されている。

驚いたことに、80'sカフェでかかっているマイケルの曲はビートイットだけで、デンジャラスやスムース・クリミナルは含まれていない。(映画自体89年公開だから仕方ないが)
当たっていることや、外れていることを並べてみるだけでも楽しい。

だが、反面、ショックも大きい。2015にきたドクは、デロリアンに乗らず、年を重ねただけであったこと。

マイケル・J・フォックスのパーキンソン病も、サブプライムローンも、ISも存在しなかっただろう 、もう一つの2015年はやっぱりフィクションだったこと。(もちろん、論理的にタイムマシーンは成立しないとする論文が発表されたことも)

マイク・マイヤーズ演じる『オースィン・パワーズ』で、60年代から冷凍保存されたオースティンが、90年代に目覚める。軍の施設のなかで目覚めた彼は、協力してくれたロシアの軍人を見てこういう。

「我々が勝ったんですね? やったぜ、くそったれの帝国主義者どもめ」

いや違う。冷戦で勝ったのは、西側なんだ。そう訂正されて、叫ぶ。

「我々が勝ったんですね? やったぜ、くそったれの共産主義者どもめ」

未来は今の延長でしかないのだ。感傷的な気分とは関係ない。何か特別なことがあって、突然よりよくなるなんてことは、ありえないのだ。

マーティたちの来なかった2015年。それも悪くなかった。ノストラダムスやマヤ暦の破滅が外れただけでもいい。

途方もなく輝く未来を夢想して、何もしないでいるより、ドクが言っていた可能性(「未来は自分で変えられる」)に賭けて、一つずつ努力することが、一番大事なのではないか。

柄にもなく、そんなことを思う。


引き出しをタイムマシンにして出てくる猫型ロボットの販売も遅れるかもしれない。

2015年12月13日日曜日

お得情報の氾濫

電化製品の量販店に変わった広告があった。
 
50人に一人、レシートにアタリが出たら、無料というものであった。

「50人に一人、タダ」

衝撃的な話題として知られた。

しかし、あとでわかった。

店側が還元してくれる、50人に一人分の利益とは何か?

50分の一。つまり百分の二である=2%。

わお。2%割引である。たったの2%。

それが種明かしである。

「2%割引、開催中」

だったら、ナメてんのか、だが、

「50人に一人無料」

のほうがインパクトはある。

ましてや、今ほどパチンコ屋のテレビCMに、自主規制がなかった時代である(驚いたことに、経済不況でも、遊興費は成人に必須だから不況知らず、などというヨタを、パチンコ産業では主張していた)。

ギャンブル性はあるが、楽しい店舗だとイメージを作っていた。(店員の商品知識や検索能力はぼんやりで、値引き交渉に長けているだけだったが)。

要は見せ方なのだ。

ところが、この見せ方技術が発達することは、ユーザーに必ずしも、メリットがあるとはいえない。スマートフォンや、ケーブルテレビの契約内容を変更しようと思えば、ひと仕事である。

本当にお得なのか、欲しいサービスなのか。検索しようとしても、落ち目のタレントを使ったプロモーション記事や、結構ぼんやりしたブログばっかりだったりする。

正確な情報には、程遠い結果になってしまう。

情報はたくさんあるが、結局、扇動されるばかりである。

大して変わらないスペックでも、大げさに宣伝。OSも不安定な状態でリリースしているのに、お調子者がレビュー記事を書いてアクセスを漁ろうとする。

本当に、それは必要な情報なのだろうか。

至誠天に通ず。孟子にそう書かれている。誠意こそ、人智を超えて、恒久的な信頼を獲得するにいたるというののだ。

近代以前の大陸文化だとか、大陸の文献をありがたがる島国根性だとか、無神経なことを言ってはいけない。

Honesty is the best policy(正直は最上の策)といったのは、シェークスピアでも、ディケンズでもない。アメリカ建国の父の一人、ベンジャミン・フランクリンである。

本当はみんな不便を感じているのかもしれない。

検索窓にキーワードを入力さえすれば、本当に欲しい情報に、たどり着けるはずだったのに、コアな話題になればなるほど、情報がぼんやりしてしまうのだ。

検索が最短なようで、実は回り道にも直結している。

大量の情報を受け取れることができるようになったが、本質的な結論にたどり着ける可能性を高めただけで、決して近道ができたわけではない。

いつもそんな気がする。

2015年12月5日土曜日

百の姓

香港映画のオープニングで、面白い表記を見た。

ロゴはPOP MOVIES。しかし漢字表記がいい。

百姓電影。

牛を引いてきたおじいちゃんが、編笠かぶりながらカメラを回す映画?

日本語で「百姓」といえば、農業従事者を指すことが一般的。しかし農業になぜ、「百姓」という名称がついたのか、明確に説明できる人はいない。

田を耕す、わらじをなう。畑で稲作以外の生産を行う。百通りほどの複数のスペックを持っているという説明は実は間違い。

逆に農人という言葉がある。大阪にも農人 橋という場所がある。

百姓=農業従事者であるなら、農人とは何を指すのだろうか。

網野善彦の説明で納得がいった。

農人=農業従事者。百姓=いろいろな職業や身分。

姓とは、家族や血縁の特定するためのものであったが、同時に職業という意味もあった。(公家や武家以外では、家業を指す屋号もその一種)

それがたくさんある状態=百姓=many peopleなのだ。
だから百姓電影という文字を見ても、稲作ののどかな風景を得意とする監督がいると思ってはいけない。POP な映画という意味である。

太閤検地か、それ以降であったと思う。人口を調査した際に、武家や 公家以外というカテゴリとして、様々な職業を百姓としてカウントしてしまった。これを明治以降、一律に農業従事者と翻訳してしまった。

そのため、百姓=農業従事者という簡単な誤解が一般的になったのだ。


明治以降、歴史解釈というのはいい加減なことが多い典型だろう。

特にロシア革命前後の権力闘争史観などは、諸大名や幕府の実態をろくに調べもせずに、帝政ロシアの諸侯と概念を当てはめて考えられた。(もっとも網野善彦も、小泉の進めた雇用の規制緩和のムーブメントに影響されたことは反証されるべきだろう)


百姓電影。田んぼでキセルを吸いながら一休みしている、おじいちゃんが映画を取っていると思ったら、大間違いなのだ。

棚田を作る日本人ってスゴいとかいうけど、日本オリジナルではない。これはベトナムの写真