暦の編集、校正も担当しているということで、地方から来社されたお坊さんに注意された。
「暦には六曜が掲載されている。これは迷信であり、非科学的なことだから、掲載するな」
はあ。また、好き買ってなことを。
迷信とは正に、迷いをまことと信じることであり、それを助長するのは厳に慎まないといけない。
しかし、非科学的とはいただけない。
まるで、オウム事件後に盛んに言われた、お釈迦さん=ナチュラル・ハイ説(悟った瞬間は断食明けだったため、高揚感があったというだけの、俗説なんちゃって科学)ではないか。
どの面さげて、回向だとか、功徳を説いて、檀家から布施を巻き上げてらっしゃるのだろうと不思議に思ったが、問わなかった。
責任者に相談するとか、しのごの言って、ごまかした。
六曜はとかく目の敵にされる。
彼の言い分も間違いではない。明治新政府は迷信を取り締まるため、暦に様々な記載をすることを禁じた。
しかしまだ農耕が主要産業であった時代、田植えが分からないような暦など、充電切れしたスマホなみに役に立たなかった。
そうした中で、最低限の情報として六曜だけは掲載が許され、(むしろ行政が黙認した)現代に至っているという。
室町以後に始まり、江戸時代に大枠ができ、実は明治以降に作られたという説もある。
だから、良くも悪くも、六曜を執拗に気にする人を見受けると、いただけない。もっとたくさんのイベントやタブーが神社の暦にはたくさん記載されているのに、なんてものぐさなんだろうと思ってしまう。
いくらいい日を選んでも、離婚するときは離婚してしまうのに。
カレンダーを作る会社で面接を受けたことがある。
ご多分に漏れず、不況であるが、特にインターネットの普及でカレンダー自体が売れていないという。
初詣客相手の露天で、カレンダーを売っているところを見たことがある。
干支や風景写真のものに混じって、「今から、お風呂ですか?」と見まごうばかりの、マッパのお姉さんを撮影したものも広げられていた。
年末になると、カレンダーを受け渡しするが、ふと思い出す。あのカレンダー印刷会社も、露天商も懐は寒いのだろう。マッパの姉さんも、寒がっているのではないか。
六曜を気にするより、彼らの仕事のあり方を工面してやることの方が、大事なのではないだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。
古代では、自国の言語で暦を作成できてる =文明国だったからマヤ文明も相当進んでいた。 |