日本人はテーブルマナーを知らず、音を立ててスープをすすった。味噌汁の感覚である。
それを茶化して、イギリス人やフランス人は嘲笑していた。最近まで刃物を持ち歩いていた野蛮人が、ほら、洋服をきて文明人気取りだぜ、と。
トイレにもmanと、womanと書いているのに、読めないと嘲笑の対象となった。留学した日本人も読めないで恥をかく。
ところが、第二次世界大戦後、しばらくして、トイレの表示も、象徴的な変化が起こった。
1964年の東京オリンピックで採用された、男女のトイレの標識は言葉を必要としないピクトであったのだ。
文字が読めるかどうか、ではなく、伝わるかどうか、に問いがシフトさせて見つけた結果である。
現代世界中に見ることができる、男女の違いを表すピクトや、非常口を示すピクトなどは、全て東京オリンピックが起源なのだ。
言語が通じないから、意思が通じないというだけでは、世界は決して広くない。
旧約聖書に登場する、バベルの塔の寓話。
人間は思い上がり、神に近づこうと塔を建てて、神の怒りを買う。そこである日を境に言葉が通じなくなり、塔の建造が続行できなくなったというのが、旧約聖書の考え方である。
人類にこれだけ言語があるのは、いわば原罪であると。アダム以来、お決まりの”神に並ぼうとした罪”である。
しかし東京オリンピックでは、それを工夫して乗り越えてしまった。
神が罰して、言葉が通じなくしてしまったとしても、創意工夫で情報を伝達してしまったのだ。
そして今や、それは世界標準である。もし現地の言語でしか、男女のトイレの違いを表示していないところがあるとしたら、それはむしろ文化的に立ちおくれいることの象徴と受け取られることだろう。
優しくない文化は、遅れた文化なのだ。
ピクトを見かけると時々思うのは、そうした強者と、弱者という、牧歌的な二元論が、実はなんの役にも立たないことである。
分からない人に、より伝える。
心遣いは文化であり、文明なのだ。
トイレでなんでwifiをそんなに使いたいのか。 |
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