2017年3月29日水曜日

この話したっけ?

祖山の青葉祭りを主任と二人で取材したあとのこと。

表紙面のレイアウトはいつも昨年と違うものにしようとしてきた。しかし、一年ごとに同じレイアウトになっていたと説明された。

今年は違う。去年から相対的に考えるのではない。全くオリジナルで、写真素材を見つめて、どういうレイアウトにするか考えると、主任は息巻いていた。

かくして、熟慮の末、決定したレイアウトは、、、去年と全く同じものであった。

つまりレイアウトの引き出しが少なかったのである。

ブログ記事を思いついて、一生懸命メモをとる。

取っていて、ふと思い返す。すでに書いていた気がする。気がするだけのこともあるが、そうでもないこともする。

酔っ払ったおじいちゃんが、同じ話をリフレインしているのに、閉口させられた。それと同じことを自分もしているのだろうか。

ここまで書いてきて、ふと思った。

「話題がリフレインしてないだろうか?」

そういうことを考えてしまうから、ブログを書いていくのが面倒臭くなってしまうのだ。

まあ、真面目に取り組みすぎか。

2017年3月26日日曜日

プレイボーイ!

高校野球の試合開始。

サイレンが鳴り終わり、各校の応援が地鳴りのように、轟く。

試合開始を宣言すべく、キャッチャーの後ろに立った主審が、拳を振り上げて、高らかに発声する。

「プレイボーイ!」

ざわ、ざわ。

今、確かに、「イ」っていうたよな? まじで?

Play ball!(試合開始!) 。

それはある意味、pray to ball(玉に祈れ)。正々堂々と精一杯戦って、それでも負けたら、それはボールのせいだからな。負けても、言いっこなしだ。

という意味もあるのかもしれない。

選抜高校野球が始まっているらしいが、あまり野球に詳しくない。

玉に祈れ。

日本人がもっとも苦手な発音の違い(RとL)は、別の意味も含んで、意味が深くないだろうか。

考えすぎか

やっぱり、Play ball(ボール以外の手段、たとえ相手チームのピッチャーに拳を振り上げて、一発ノックアウトしても、それは勝利ではない)のほうがしっくりくる。

もちろん、色んな女性との火遊びを楽しむ男の呼称は場違いであることには間違いない。

2017年3月25日土曜日

夜のラブレター

コピー書きの仕事をしていた時、残業をしていると注意された。

「夜に書いたテキストは、無意識に気持ちが高ぶっているから、そのままお客さんに出さないように」

つまり夜に書いたラブレターは、気持ちが盛り上がって、相手がドン引きする文面になっている。それに気づかず、投函した場合は、大体失恋するというのだ。

逆に、感覚機関だけでいうなら、朝食より、夕食の方が、美味しく感じてしまう。

味覚が覚醒しているために、実は夜にバナナを食べた方がおいしいのだとか。

朝=目が覚めて時間を経過していないから、頭がリフレッシュされている。味覚の精度は低いが、冷静な判断がしやすい。

夜=目が覚めて時間を経過しているから、感覚が冴えているが、頭は疲れているので、正しい判断が難しくなっている。

悩んだ挙句、翌朝になると、実は対した問題ではないことに気がつくというのは、大体、こうした理屈であるらしい。

ブログを書こうと力む。

仕事を終えて、一つのトピックを話題にして、何かを書こうとする。

知らない間に、話題が飛び回り、あれこれと書いてしまう。

夕食のビュッフェはお腹周りに直結してしまうようなものである。

結果として、ボリュームのあるテキストになる。

読みにくい。

次に書くまで、腰が重くなる。

まるで、肥満の症状のようである。

茂木健一郎だったか、彼の話では朝にブログを書くのがいいという。

頭を整理するのに、いいし、実は頭が覚醒していく途中なので、クリエイティブな能力も機能しやすいという。(こんなアイデアなんか、やっぱりつまらないのではないか、という理性的なブレーキが甘くなっているためなんだとか)
などなど、たくさん書いてしまった。

短くて、ちょっと読めるもの。

そんなラフなものを継続していけたら。

ちなみに、現在、休日の朝の10時。あかんがな。

2017年3月20日月曜日

やっつけ棺桶

お彼岸だけに、亡き親族のことを思う。

祖父に対して、ぼんやりした記憶より、一番思い出されるのは、出棺の時である。

小学生で、父から工具類の取り扱いの初歩を習っていたので、いざ棺桶に釘を打つという段になって、着々と作業をした。

周囲がすすり泣いているのにも構わず、与えられた釘を着実に打ち付けた。最後のストロークは少し短くして、微調整をした甲斐もあって、棺桶本体は全く無傷という仕上がりである。

(おじいちゃん、見て、この仕上がり、すごいだろ?)

と一瞬思った。思ってから、そうか、中から見えないのか。二度とこの仕上がりを見せてもらうことも、褒めてもらうこともできないのかと気がついた。

ところが隣の、いとこのお姉さんが泣き泣き打つ釘を見て唖然とした。思い切り曲がり、こちらにお辞儀をしているではないか。

いつも偉そうにいうくせに、何をしているのだ。

(泣いている場合か)

金槌の反対が、くぎぬきになっているものではない。飾りで細くなっている方をテコにして、なんとか釘を抜けないものか。

その作業にもたついていると、父だったか、叔父だったかが来た。

「何やってるんだ」

問われて、わけを説明すると、金槌を取り上げ、曲がった釘ごと棺桶に叩き込むという暴挙に出たのである。

うわ。無茶すんなぁ。

しかしそうこうしているうちに、大人たちによって、棺桶が持ち上げられる。

いくら死んだとはいえ、あのやっつけ仕事は何とも申し訳ない気がした。いとこのどんくささを、どうしてもっと早くカバーできなかったのだ。どの釘も真っ直ぐに打たれるから、祖父も天国に出かけるのに、蓋が引っかからず、スムーズに出られるのではないか。

祖父の白衣がひっかかりはしないだろうか。悲しみもあったが、それよりも、曲がった釘が気がかりであった。

黒柳徹子は火葬場で、参列者を素早く目算し、お骨は一人いくつまで拾ってくださいと告げて回ったという。

何となく、わかるような気がする。

祖父に申し訳ないと思う一方、誠実に見送ることと、日常的な整合性が混乱してしまうのだ。素直に泣いて、取り乱しても許されるし、そうするための場であるのだが、祖父に見られている気がすると、決してそうもいかない。

ただ少なくとも、自分が棺桶に入るときは、真っ直ぐに釘を打ってほしい。