お彼岸だけに、亡き親族のことを思う。
祖父に対して、ぼんやりした記憶より、一番思い出されるのは、出棺の時である。
小学生で、父から工具類の取り扱いの初歩を習っていたので、いざ棺桶に釘を打つという段になって、着々と作業をした。
周囲がすすり泣いているのにも構わず、与えられた釘を着実に打ち付けた。最後のストロークは少し短くして、微調整をした甲斐もあって、棺桶本体は全く無傷という仕上がりである。
(おじいちゃん、見て、この仕上がり、すごいだろ?)
と一瞬思った。思ってから、そうか、中から見えないのか。二度とこの仕上がりを見せてもらうことも、褒めてもらうこともできないのかと気がついた。
ところが隣の、いとこのお姉さんが泣き泣き打つ釘を見て唖然とした。思い切り曲がり、こちらにお辞儀をしているではないか。
いつも偉そうにいうくせに、何をしているのだ。
(泣いている場合か)
金槌の反対が、くぎぬきになっているものではない。飾りで細くなっている方をテコにして、なんとか釘を抜けないものか。
その作業にもたついていると、父だったか、叔父だったかが来た。
「何やってるんだ」
問われて、わけを説明すると、金槌を取り上げ、曲がった釘ごと棺桶に叩き込むという暴挙に出たのである。
うわ。無茶すんなぁ。
しかしそうこうしているうちに、大人たちによって、棺桶が持ち上げられる。
いくら死んだとはいえ、あのやっつけ仕事は何とも申し訳ない気がした。いとこのどんくささを、どうしてもっと早くカバーできなかったのだ。どの釘も真っ直ぐに打たれるから、祖父も天国に出かけるのに、蓋が引っかからず、スムーズに出られるのではないか。
祖父の白衣がひっかかりはしないだろうか。悲しみもあったが、それよりも、曲がった釘が気がかりであった。
黒柳徹子は火葬場で、参列者を素早く目算し、お骨は一人いくつまで拾ってくださいと告げて回ったという。
何となく、わかるような気がする。
祖父に申し訳ないと思う一方、誠実に見送ることと、日常的な整合性が混乱してしまうのだ。素直に泣いて、取り乱しても許されるし、そうするための場であるのだが、祖父に見られている気がすると、決してそうもいかない。
ただ少なくとも、自分が棺桶に入るときは、真っ直ぐに釘を打ってほしい。