2017年10月28日土曜日

近未来おたく

 映画『ブレードランナー』の中で、ハリソン・フォードが変わった機械を使っていた。

 ポラロイドカメラで撮影した写真を、テレビの上に取り付けた機械の口に滑り込ませるのだ。

 それがスキャナーなのである。

 スコッチをちびちび呑みながら、その機械に話し掛ける。何番を拡大しろ。声に応えて、写真のデータが拡大される。するとそこに映っていたのは。。。という展開。

 レトロ・フューチャーだなぁと、当時から思っていた。なんでわざわざ音声で操作するのだと。

 今回、google homeが販売された。

 日本語にもしっかり対応している。

 ニュースのヘッドラインや天気予報の読み上げ、リマインダーの登録、NETFLIXの再生など、多岐に亘るサービスを実現する。いわばデジタルな執事ではないか。

 siriやgoogle assistantを使ってみて感じることは、ただただ驚きである。

 あんなに日本人が密かに感じていた、自国の言語の難解さと、外国資本には掌握できないだろうという自負は、いとも簡単に潰える。

 明日、六時に起こして。ケチャップを買うとメモ。

 そんなに滑舌がヒドくなければ、恐らく簡単に入力できるだろう。

 アメリカに比べ、日本人は音声入力に抵抗を感じるようだが、いずれは利便性が優先されていくに違いない。

 バック・トゥ・ザ・フューチャー2に出てくる、フォバーボートはいまだに実用化されていない。ナイキの自動リサイズシューズも、開発は告知されたが、完成がまだである。

 しかしグリフが逮捕された瞬間、ドローンとおぼしきカメラが彼を撮影する。

 ドローンは技術的に可能になったが、フォバーボートや自動リサイズシューズはまだまだ開発途中なのだ。

 それに比べると、音声でスキャンした画像を拡大するなど、造作もないことではないか。

 マニアやオタクと呼ばれる人たちが、高いスキルを持って、色んなものを開発するというのは、日経寄りな、むしろ軽薄な見方である。

 彼らは決して、娑婆のビジネスマンのように、生産性を信じていない。

 オープンソースのイベントで、古いLibrettoをわざわざ、ラズパイで動かしてみたとか、音声で下書きのブログ記事を更新してみた、みたいなことを見たことがある。

 効率など関係ない。面白いかどうか、趣向が凝らしてあるか、である。

 写真をスキャンして、拡大表示するのなら、安いスキャナーと画像編集ソフトで十分である。

 だが、それをわざわざ音声で操作する。

 ブレードランナーは特にマニアに崇拝されている作品である(攻殻機動隊やマトリックスなど、後世の作品世界に多大な影響をあたえている)。

 きっとアメリカのマニアが、google honeとスキャナーを組み合わせて、youtubeで公開するに違いない。

 そしてそれを作った経緯をどや顔で説明するのだ。


 ああ、うらやましい。

2017年10月17日火曜日

ウルトラマン症候群とかドラえもんとか

 ドラえもんがテレビで問題になっていたことを覚えている。

 ジャイアンとスネ夫にいじめられたのび太が、泣きながら帰ってくる。泣き疲れてドラえもんが、何か道具を取り出す。のび太は道具をもってジャイアンに復讐する。良かった良かった。

 幼心に復讐に酔えた。シェークスピアのいうところの、正義の中に生える雑草ではあったが、貪るように見たり、コロコロコミックを読んだ。

 当然、これが問題になった。

 子供がドラえもんに依存するのではないかと。何かトラブルが起こったら、自分で努力して、解決しようとせずに、泣きついて便利なものを取り出してもらうようになるのではないか。

 しかし当事者の子どもであったが、ドラえもんを見ながら、ああ、そうすればいいのかと思ったことは一度もない。

 子供はそれほどバカじゃない。先輩ライダーたちの正規の特訓を受けずに、ライダーキックを試みるなんて、ただの浮かれ者ではないかと。カメハメから密かに習ったから、四十八の殺人技ができるのだ。

 衆議院選挙の演説について、残念な話題を聴いた。

 ウルトラマン症候群。

 危機的な状況になると、万能のヒーローが登場してきて、全てを解決くれるという心理のことだそうだ。

 結構、しんどいネーミングだが、社会問題が深刻になるまでぼんやりしているという心理は言い得ているのではないか。

 危機的な状態になっても、ウルトラマンが闘って、何か一層深刻になっても、三分程度で解決してくれる。

 そうした依存が有権者の中にあるのではないか。

 そんなことを紹介していた。

 待て。

 それはウルトラマンなのだろうか。かつて八十年代に問題だと言われた、ドラえもん症候群と同じではないのか。

 一つずつ地道に解決すると公約する政党はどこにもない。問題を列挙するか、針小棒大な手柄話である。

 それに加えて、我々有権者も、社会問題は政治家の人徳に起因するとばかり、古代からの権力者批判をしているだけ。

 本当にアメリカ大統領の万能感をバカにできるのか? その権利を持っているとでも?

 もしウルトラマンやドラえもんを期待していたのと、同じ程度の心理で投票しようと言うのなら、それは大人ではない。

 十七歳以下に対して、恥ずかしいことではないか。 

2017年10月7日土曜日

飢えては喰らい乾いては飲む

飢えては喰らい乾いては飲む。水滸伝に登場する表現である。

仁義に篤い好漢たちが、非道と戦うが故に世間を追われ、こぞって梁山泊に集まり、そこで仲間たちと気ままな生活を過ごす。


そのときの日常を表現した言葉である。
 

そして彼らの非生産性は、後世、東アジアにおける任侠屋さん業界に多大な影響を与えていく。
 

十代の時に夢中になって、水滸伝を読んでいた。

しかし大人になって見方が変わる。夏休みの課題図書などに、あんな武侠小説を取り上げてるのかと思うと、冷や汗が出てくる。ハリー・ポッターの方が、はるかに情操教育として有意義ではないか。


ましてや、夏休みの課題図書ほど、胡散臭いものはない。
 

『水滸伝』や 『風とともに去りぬ』、『源氏物語』などが古典として並べられ、『カーマ・スートラ』や『バートン版アラビアンナイト』、『美徳の不幸』は外れる。なんか、もうぐちゃぐちゃすぎ。
 

ikkoさんが言ったから、本格的に見えて、おすぎが語ったから、なんか下品に聞こえる、という程度の胡散臭さを感じる。
 

さて、飢えては喰らい、乾いては呑む。
 

昼時になっても、もう一つお腹が空かないと、時々このフレーズが脳裏をよぎる。
 

飢えていない。乾いてもいない。つまり放逸な生活に憧れる資格すら無いような生活。
 

食べられることは幸福である。それは食べることが幸せなのではなく、空腹が満たされることが幸福なのだ。
 

飢えていないとは、胃袋以外が満たされていないことなのではないか。
 

水滸伝の宋江たちはやっぱり、 ジューシーな肉を食べていたのだろうか。
 

卓に並んで、手づかみで肉を取り分ける。彼らのささやかなテーブルマナーと、素朴な食欲にやはり憧れる。

中国では「テーブルを汚す(取り乱す)ほど美味しかった」というマナーがあるらしい。世界は広い。