ポジティブ・シンキングとかいう、「前むいてがんばろう」的な言葉はあまり好きではない。
前を向いているようで、しばしば明後日向いていることが多いからだ。
それと同じぐらい、罪業という言葉が嫌いである。ぶしつけに罪人気分にさせてくれる、例の原罪を思わせる言葉であるし、カルマを曲解して、恫喝する教団を思わせるような響きも持つ。
しかし身の不運を思うとき、やはり「罪業」という言葉がしっくりくる。嫌いな言葉であるが、腑に落ちる。
渡辺謙は主演した映画『許されざる者』について、説明するときに、業にあたる英語がないため、説明に苦労したと語っていた。
確かに業という響きは、インド哲学のいうカルマより、重苦しい響きを持っている。カルマは比較的、運命とも訳しやすい、輪廻の世界観を前提にした哲学用語であるに対して、「業」は叙情的な意味合いを濃厚にしていないだろうか。
チベット仏教ではカルマという言葉も、教義の説明で淡々と使われる。殺人や窃盗など、悪い行いによって、悪いカルマを背負ってしまったのなら、死ぬまでの間に精一杯、良い功徳を積みなさい。そうしないと、来世に生まれ変わる際に、人間に生まれ変わりにくくなる、というのだ。
悪しきカルマ、善行によって、相殺される。いたって理知的で、全ての人を救うと誓った人らしい発想である。
ところが罪業には、そうした意味合いより、抗いようのない、救われない背景を連想させるニュアンスが強い。
チベットのカルマが未来へ向いていたのに対して、日本語の業は、過去に起因した結果を、悲観することが多い。抗えない宿命。そんなイメージだろうか。
宿業が過去世の報いであるのに対して、罪業は来世への悪行というべきだろうが、その罪業そのものも、前世の因果から逃れられず、つい犯してしまう、深い罪である。
やっぱり博打がやめられない。もう呑まないと誓ったのに。
何のことはない。現代の分析なら、ギャンブル依存・強迫観念、であったり、アルコールの長時間摂取による、大脳新皮質への悪影響とかで片付けられる。生まれてくる前から、定められていたのなら、子供のときから、パチンコ店で高揚したり、アルコールに舌鼓を打っているはずだ。
ところが、実際はそうではない。
理性的に考えれば、業など、成り立たないし、それらに追われて生きることの空しさを、仏教は説いてきた。
だが、断ちがたいもの。避けがたいもの。抗えないもの。それは厳然と存在している。半ば持病として、あきらめることのほうが、気が楽である。
自らを呪いながら、傾ける杯。底が知れていると知っていながら、なおもつぎ込んでしまうギャンブル。そのいずれにも、なったことはないが、少なくともそれに近いことを自分に感じる。
読むこと。そして、書くこと。
これだけは人にはいえないが、避けられない業のように感じている。罪業ではないか。来世もきっと、書きたくなるに違いない。
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