2014年10月28日火曜日

床屋を出れば

映画と床屋

 床屋にいくと、いつも思うことがある。

 チャップリンは床屋が大嫌いであったということ。それがいたく分かるのだ。

 彼自身がホームレスの次に演じているのは、床屋なのではないだろうかと思うくらい、彼の映画で盛んに床屋が出てくる。

 よたよたとした足取りで鏡の前にたつ。無造作に石鹸を泡立てて、危なっかしい手つきで剃刀を持つ。客に剃刀を当てる直前に、必ずくしゃみをする。(後世のドタバタコメディのほとんどは、このフォーマットを基準にしているのではないだろうか)

 床屋は横柄に、客の顎や額を指で押して、好きなように首を傾けさせる。これらの所作がチャップリンは相当気に食わなかったのだろう。映画の中で彼は、思う存分、客を小突きまわす。

 そしてその姿は、映画好きに、相当印象深かったのだろう。デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』の冒頭では、デ・ニーロ演じるカポネが、床屋に顎を切られていう。

「俺の育った暗黒街では、ナイフの脅しより、マシンガンのほうが説得力を持つ」

 凄むデ・ニーロがまあ、怖いこと。床屋真っ青である。

カリスマなんとか

 日本では廃刀令とともに、断髪するのが文明開化の象徴であった。現代でいう、民主化の一つの基準であったのだから、急いで民衆は散切り頭にしたのだろう。

 それから百四十年ばかりたったが、やはり床屋たちには、文明開化を担ったという自負があるのではないか。

 カリスマ美容師という言葉が出だした頃、ライター仕事をしていたので、何か面白いジャンルが新たに確立されるのかと、興味深く思っていた。

 近所の床屋にそうした質問をしたところ、笑われた。髪の変わった持ち上げ方と、気取ったはさみの使い方で、それっぽく見えているだけだと。あとはそれらしい雰囲気を見せて、ホストまがいに演じているに過ぎないと。

 どうも文明開化以降、デザイン・センスに優れた感性を持った人が、床屋で働いているような気がしていたが、錯覚であったと安心した。

 あれから十年が経った。

 カリスマ美容師どころか、カリスマ主婦、カリスマ・ブロガーなど、カリスマは掃いて捨てるほどいる。カリスマ美容師など、久しく聞かない。

 所詮はパフォーマンスで、とても芸とはいえるような代物ではなかったのではないか。そんなことをいつも思ってしまう。

 その背景には、彼ら床屋の美意識があったのではないだろうか。

床屋インテリ説


 志賀直哉の『剃刀』という短編を読んだことがある。

 主人公は風邪をひいた床屋で、店を閉めようとしているところに、客が来る。うまくできないことに苛立ち、最後には客の喉をぱっくり切り裂いてしまうという、とても白樺派の伸びやかさとは思えない、陰鬱な作品である。

 ただ、ちょっとずつうまくいかない苛立ちや、だんだんだめになっていく気分、仕舞いに何もかも、放り出したくなるようなアンニュイさが、丁寧に丁寧に描かれている。インテリの不機嫌が描かれていると、齋藤孝が指摘するとおりだと思う。

 床屋はそうした美意識を持っているのだろう。だから、やっつけ仕事はしない。どうやらデザインセンスというより、美意識に金を払っているというのが、正解なのではないか。

 その代償に(チャップリンよりはいくらかましだが、)結局は小突かれて、髪型を整えてもらう。

 実は信頼の上になりたったビジネスの典型なのではないか。

 床屋を出るときに、いつもそう思う。多少指図されたり、小突かれても仕方ないのだ。志賀が描くように、喉や耳を切られずに済むのだから。

2014年10月27日月曜日

罪業

 ポジティブ・シンキングとかいう、「前むいてがんばろう」的な言葉はあまり好きではない。
 前を向いているようで、しばしば明後日向いていることが多いからだ。

 それと同じぐらい、罪業という言葉が嫌いである。ぶしつけに罪人気分にさせてくれる、例の原罪を思わせる言葉であるし、カルマを曲解して、恫喝する教団を思わせるような響きも持つ。

 しかし身の不運を思うとき、やはり「罪業」という言葉がしっくりくる。嫌いな言葉であるが、腑に落ちる。

 渡辺謙は主演した映画『許されざる者』について、説明するときに、業にあたる英語がないため、説明に苦労したと語っていた。

 確かに業という響きは、インド哲学のいうカルマより、重苦しい響きを持っている。カルマは比較的、運命とも訳しやすい、輪廻の世界観を前提にした哲学用語であるに対して、「業」は叙情的な意味合いを濃厚にしていないだろうか。

 チベット仏教ではカルマという言葉も、教義の説明で淡々と使われる。殺人や窃盗など、悪い行いによって、悪いカルマを背負ってしまったのなら、死ぬまでの間に精一杯、良い功徳を積みなさい。そうしないと、来世に生まれ変わる際に、人間に生まれ変わりにくくなる、というのだ。

 悪しきカルマ、善行によって、相殺される。いたって理知的で、全ての人を救うと誓った人らしい発想である。

 ところが罪業には、そうした意味合いより、抗いようのない、救われない背景を連想させるニュアンスが強い。

 チベットのカルマが未来へ向いていたのに対して、日本語の業は、過去に起因した結果を、悲観することが多い。抗えない宿命。そんなイメージだろうか。

 宿業が過去世の報いであるのに対して、罪業は来世への悪行というべきだろうが、その罪業そのものも、前世の因果から逃れられず、つい犯してしまう、深い罪である。

 やっぱり博打がやめられない。もう呑まないと誓ったのに。

 何のことはない。現代の分析なら、ギャンブル依存・強迫観念、であったり、アルコールの長時間摂取による、大脳新皮質への悪影響とかで片付けられる。生まれてくる前から、定められていたのなら、子供のときから、パチンコ店で高揚したり、アルコールに舌鼓を打っているはずだ。

 ところが、実際はそうではない。

 理性的に考えれば、業など、成り立たないし、それらに追われて生きることの空しさを、仏教は説いてきた。

 だが、断ちがたいもの。避けがたいもの。抗えないもの。それは厳然と存在している。半ば持病として、あきらめることのほうが、気が楽である。

 自らを呪いながら、傾ける杯。底が知れていると知っていながら、なおもつぎ込んでしまうギャンブル。そのいずれにも、なったことはないが、少なくともそれに近いことを自分に感じる。

 読むこと。そして、書くこと。

 これだけは人にはいえないが、避けられない業のように感じている。罪業ではないか。来世もきっと、書きたくなるに違いない。