映画と床屋
床屋にいくと、いつも思うことがある。チャップリンは床屋が大嫌いであったということ。それがいたく分かるのだ。
彼自身がホームレスの次に演じているのは、床屋なのではないだろうかと思うくらい、彼の映画で盛んに床屋が出てくる。
よたよたとした足取りで鏡の前にたつ。無造作に石鹸を泡立てて、危なっかしい手つきで剃刀を持つ。客に剃刀を当てる直前に、必ずくしゃみをする。(後世のドタバタコメディのほとんどは、このフォーマットを基準にしているのではないだろうか)
床屋は横柄に、客の顎や額を指で押して、好きなように首を傾けさせる。これらの所作がチャップリンは相当気に食わなかったのだろう。映画の中で彼は、思う存分、客を小突きまわす。
そしてその姿は、映画好きに、相当印象深かったのだろう。デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』の冒頭では、デ・ニーロ演じるカポネが、床屋に顎を切られていう。
「俺の育った暗黒街では、ナイフの脅しより、マシンガンのほうが説得力を持つ」
凄むデ・ニーロがまあ、怖いこと。床屋真っ青である。
カリスマなんとか
日本では廃刀令とともに、断髪するのが文明開化の象徴であった。現代でいう、民主化の一つの基準であったのだから、急いで民衆は散切り頭にしたのだろう。それから百四十年ばかりたったが、やはり床屋たちには、文明開化を担ったという自負があるのではないか。
カリスマ美容師という言葉が出だした頃、ライター仕事をしていたので、何か面白いジャンルが新たに確立されるのかと、興味深く思っていた。
近所の床屋にそうした質問をしたところ、笑われた。髪の変わった持ち上げ方と、気取ったはさみの使い方で、それっぽく見えているだけだと。あとはそれらしい雰囲気を見せて、ホストまがいに演じているに過ぎないと。
どうも文明開化以降、デザイン・センスに優れた感性を持った人が、床屋で働いているような気がしていたが、錯覚であったと安心した。
あれから十年が経った。
カリスマ美容師どころか、カリスマ主婦、カリスマ・ブロガーなど、カリスマは掃いて捨てるほどいる。カリスマ美容師など、久しく聞かない。
所詮はパフォーマンスで、とても芸とはいえるような代物ではなかったのではないか。そんなことをいつも思ってしまう。
その背景には、彼ら床屋の美意識があったのではないだろうか。
床屋インテリ説
志賀直哉の『剃刀』という短編を読んだことがある。
主人公は風邪をひいた床屋で、店を閉めようとしているところに、客が来る。うまくできないことに苛立ち、最後には客の喉をぱっくり切り裂いてしまうという、とても白樺派の伸びやかさとは思えない、陰鬱な作品である。
ただ、ちょっとずつうまくいかない苛立ちや、だんだんだめになっていく気分、仕舞いに何もかも、放り出したくなるようなアンニュイさが、丁寧に丁寧に描かれている。インテリの不機嫌が描かれていると、齋藤孝が指摘するとおりだと思う。
床屋はそうした美意識を持っているのだろう。だから、やっつけ仕事はしない。どうやらデザインセンスというより、美意識に金を払っているというのが、正解なのではないか。
その代償に(チャップリンよりはいくらかましだが、)結局は小突かれて、髪型を整えてもらう。
実は信頼の上になりたったビジネスの典型なのではないか。
床屋を出るときに、いつもそう思う。多少指図されたり、小突かれても仕方ないのだ。志賀が描くように、喉や耳を切られずに済むのだから。