『魔法修行者』という随筆の中で、幸田露伴翁はいう。
魔術という言葉と、magicという言葉には、音が似ている。これが後世の研究によって解明されるのを待ちたいと。
この手の言葉遊びは近代、よく研究対象にされたらしい。
研究がつたない時代と想ってはいけない。
加持祈祷で用いる閼伽水(あかすい)の語源は、aquaであり、インドを発祥として水を意味する上で、洋の東西が同じ音を用いていたのだ。
しかしこの例は、なかなかレアである。同じような事例はなかなかない。
だから、何でもかんでも、世界の文明(特にヨーロッパ)と繋がっていると曲解を急ぐようになる。
天皇(すめらみかど)という敬称は、統める、澄める、と諸説あるが、統治する聖なる王という意味の言葉で、万葉集や古事記に使われる言葉である。
しかし近代の叡智は、そうは解釈しない。
シュメール文明の末裔であることを意味しているのではないか。そんな奇説が登場したりもする。歴史学の中にも、雑草が多かったのかも知れない。
そうした潮流の中で、露伴翁の指摘は自然に発生した物であろう。
魔術は、魔・術と分解できるため、magicとの関連性は成り立ちにくいだろう。
そう想っている。
しかし、密かに腑に落ちないことがある。
ルーマニアで行われるドラキュラ除けの風習。
ドラキュラが現れるという日の前日に、遠く離れたところから村まで、子どもたちは昼間に豆をまくのだ。
伝承では豆のように、細かいものに、ドラキュラは目を奪われる。つい豆を拾ってしまう。それが多いため、拾っている間に、村にたどりつけず、夜が明けてしまうというのだ。
魔物除けに豆を用いるという点において、節分と類似しているが、鬼には直接ぶつける。煎った大豆の堅さに鬼は逃げ出す。
豆のもつ生命力に対して、死やケガレは効力を発するという点においては類似しているのではないか。
一つの神話や伝承が東西に伝わったとはかんがえにくい。
しかし何かの文化が伝わったのだろう。
皮肉なもので、生物学的に生存が確認されていない、魔物や鬼、吸血鬼の生態が共通の対処方法をもって望んでいることで、実は共通した生態が見えるのではないか。
これこそ、後世の研究で解明されるのを待ちたい。